見られていた
朝の光が、台所の床に細長く伸びていた。
昨夜の粉は掃き集めたが、甘い匂いだけが、まだ部屋に残っている。
棚の上には、丸い菓子が並んでいた。
数は少ない。
失敗作を除いて残った、まともと言えるものだけ。
「……食うか」
独り言を呟き、手を伸ばしかけて、止める。
昨日の一口が、まだ舌に残っている。
懐かしくて、少しだけ怖かった。
自分だけのものにしてしまえば、楽だ。
失敗しても、誰にも見られない。
誰にも評価されない。
だが。
戸口の方で、かすかな音がした。
「……」
気配に気づき、振り返る。
半開きの扉の向こうに、人影。
小さく、細い。
「……誰だ」
低く声をかけると、影がびくりと動いた。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて姿を現したのは、少女だった。
昨日、食堂で見かけた顔。
明るい色の髪を、後ろで束ねている。
「……食堂の」
「ミラ、です」
そう名乗り、ぺこりと頭を下げる。
「匂いがして……つい」
「……覗き見は、感心しない」
きつい言い方になった。
自覚はある。
だが、ミラは気にした様子もなく、棚の方を見て目を輝かせた。
「それ、昨日言ってた菓子?」
「……ああ」
「マカロン、だっけ」
「……そうだ」
この世界で、初めてその言葉を正しく口にした人間かもしれない。
ミラは一歩、近づく。
「丸いんだね」
「……歪んでるがな」
「でも、可愛い」
その感想に、言葉が詰まった。
可愛い、なんて言われたのは初めてだ。
「食べていい?」
「……失敗作だ」
「それでもいい」
迷いはなかった。
俺は、しばらく黙ってから、棚から一つ取り、皿に乗せる。
差し出す手が、少し重い。
ミラは、両手で皿を受け取った。
「いただきます」
その言葉が、妙に胸に残る。
一口。
さく、と小さな音。
ミラは、目を瞬かせたまま、動かない。
「……どうだ」
聞くのが、少し怖かった。
数秒後、彼女は息を吸い込んだ。
「甘い……」
「思ったより、軽い」
言葉を探すように、もう一口。
「中、好き」
「……甘さ、足りないだろ」
「ううん」
「優しい」
その一言に、胸の奥が、きゅっと縮む。
「もっと、ふわってしてたら、もっと好きかも」
「……参考になる」
気づけば、そう答えていた。
ミラは、嬉しそうに笑う。
「ねぇ」
「……なんだ」
「これ、他の人にも食べさせる?」
「……まだだ」
即答だった。
「まだ、完成じゃない」
「そっか」
残念そうにしながらも、納得した顔をする。
「でも」
「……?」
「絶対、好きな人多いと思う」
そう言って、ミラは扉の方へ向かう。
出ていく前に、振り返る。
「また、来てもいい?」
「……勝手に入るな」
「はーい」
軽い返事。
扉が閉まる。
静かになった台所で、俺は棚を見た。
さっきまでとは、違って見える。
「……誰かの一口、か」
自分のためだけだった菓子が、
誰かに届いた。
その事実が、
胸の奥に、静かに火を灯していた。




