それでも、つくり続ける
夜明け前。
窓の外は、まだ薄暗い。
俺は、椅子に腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。
台所の床には、粉と焦げ跡。
失敗作の山が、静かに積み上がっている。
腕が、重い。
指先は、じんじんと痛む。
「……やめとくか」
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
誰に頼まれたわけでもない。
褒められる保証もない。
生活のために必要なものでもない。
ただ、自分が食べたいだけ。
「……馬鹿だな」
小さく笑う。
笑ったつもりだったが、声は出なかった。
椅子から立ち上がり、流しに向かう。
水を汲み、手を洗う。
白く濁った水が、指の間を流れていく。
その光景を見て、思い出す。
前世の自分も、こんなふうに手を洗っていた。
仕事で失敗した日。
誰にも愚痴れず、黙って帰った夜。
それでも、家に帰れば、机の上に小さな箱があった。
中には、色とりどりのマカロン。
「……あれが、救いだったんだな」
今さら、はっきり分かる。
甘いものが欲しかったんじゃない。
自分を、少しだけ許せる時間が欲しかった。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……もう一回だけ」
何度目か分からないその言葉を、今度ははっきり口にした。
卵を割る。
今度は、慎重に。
白身と黄身を、丁寧に分ける。
木の棒で、白身を混ぜる。
力を抜き、一定の速さで。
腕が悲鳴を上げる前に、休む。
砂糖を、少しずつ加える。
溶けきらない粒を、根気よく混ぜる。
ナッツの粉をふるいにかける。
粒を揃えるため、時間をかける。
「……近づいてる」
根拠はない。
だが、感覚がそう告げていた。
生地を落とす。
丸く、静かに。
竈の火を弱め、距離を取る。
焦らない。
触らない。
じっと、待つ。
焼き上がったそれは、割れていなかった。
完璧じゃない。
歪で、色もくすんでいる。
それでも。
そっと、持ち上げる。
崩れない。
「……」
間に、即席のクリームを挟む。
蜂蜜と乳を混ぜただけの、簡単なもの。
一つ、口に運ぶ。
さく。
音は、小さい。
中は、しっとりとは言えない。
甘さも、控えめだ。
それでも。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ああ」
思わず、息が漏れた。
懐かしい。
そして、確かに前に進んだ感覚。
「……マカロンだ」
誰に聞かせるでもない言葉。
だが、それで十分だった。
窓の外では、朝日が昇り始めている。
粉だらけの台所に、光が差し込む。
不器用な中年の、最初の一歩。
それは、とても小さく、だが確かな成功だった。
この甘さが、いつか誰かに届くことを。
この時の俺は、まだ知らない。




