マカロンという言葉
翌朝。
町は、まだ眠りの名残を引きずっていた。
石畳は夜露に濡れ、靴底が少し滑る。
遠くで、鶏の鳴く声がした。
俺は、借り受けた小さな家の中で、粗末な木の椅子に腰掛けていた。
机の上には、昨日食堂で出された焼き菓子の残り。
固くなり、さらに甘さが抜けている。
一口かじって、眉をひそめた。
「……やっぱり、違う」
不満ではない。
ただ、決定的に足りない。
甘さの質。
軽さ。
口の中でほどける感覚。
脳裏に浮かぶのは、色とりどりの丸い菓子だった。
「……マカロン」
昨日から、何度その言葉を頭の中で転がしただろう。
この世界では、意味を持たない音の並び。
それでも、俺にとっては確かな形を持っていた。
外に出る。
朝の市場は、少しずつ人が集まり始めていた。
野菜、果物、干し肉、木の道具。
甘い匂いは、ほとんどしない。
露店の商人に声をかける。
「……菓子は、あるか」
「焼き菓子ならな」
返ってくる答えは、昨日と同じ。
「……マカロンは?」
「……は?」
商人は一瞬、聞き返したあと、吹き出した。
「妙な名前だな」
「外国の菓子か?」
「……俺のいた場所の菓子だ」
そう言うと、商人は興味深そうに顎を撫でた。
「どんな菓子なんだ」
「……丸い」
「……甘い」
「……軽い」
説明すればするほど、曖昧になる。
「焼くのか?」
「……たぶん」
自分でも自信がなくなってきた。
前世では、食べる専門だったのだ。
商人は肩をすくめる。
「そんなもん、聞いたこともねぇな」
「この町じゃ無理だ」
否定の言葉は、意外とあっさりしていた。
だが、胸の奥に、じわりと重くのしかかる。
やはり、ない。
マカロンは、この世界に存在しない。
「……そうか」
それでも、俺は立ち去らなかった。
「……卵は、あるか」
「砂糖は?」
「ナッツは、何が手に入る」
商人は目を瞬かせる。
「菓子でも作る気か?」
「……ああ」
自分でも驚くほど、声は迷っていなかった。
商人は、少し考え込んだあと、笑った。
「変わった中年だな」
「だが、嫌いじゃねぇ」
そう言って、露店の奥から卵を指差す。
粗い砂糖の袋。
木の籠に入った、見慣れないナッツ。
「この辺で手に入るのは、それくらいだ」
「……十分だ」
そう答えた瞬間、腹の奥で何かが決まった。
完璧じゃなくていい。
前世と同じである必要もない。
この世界の材料で、
この世界のやり方で、
それでも、あの菓子に近づける。
「……マカロン」
もう一度、呟く。
今度は、失われたものとしてではなく。
これから、生み出すものとして。
市場の喧騒の中で、俺は袋を抱えた。
不器用な中年の、無謀な挑戦が、静かに始まった。




