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西園寺青豆の不運  作者: 雨水卯月
第一章

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8.東野かな?西野かな?

何故――。


何故、私はこんな災難の渦中にいるのだろう――。


青豆は心の中で小さくつぶやく。自分の人生に、ドラマチックな愛憎劇なんて起こらないはずだったのに。なのに、今こうして巻き込まれている。


そんな感じで幕を開けた今週。


親知らずの腫れで、朝ごはんのパンもまともにかじれない、西園寺青豆。

眉を剃り落としてしまい、片眉が完全に行方不明になる、西園寺青豆。

念願のスイーツが目の前で売り切れてしまい茫然とする、西園寺青豆。


さらに、家庭教師・桜井の指示で、「彼女のフリ」をして睨まれる羽目になる――西園寺青豆。


――日常と非日常が渾然一体となり、青豆の一週間は小さな混乱と大きなドタバタで彩られるのであった。





---


朝、目が覚めた瞬間、右の頬が妙に熱い。


「ん?んん?」


鏡を見ると、親知らずの歯茎が見事に腫れあがっていた。ああ、そういえば先月、歯医者さんに「抜いたほうがいいですよ」と言われていたっけ。


――あれから何もしてない私のせいで、今日も小さな災難が降りかかってきたらしい。


恐る恐る朝食に手を伸ばす。パンをかじるだけで、じんわりと痛みが口の中で暴れる。バターを塗ろうとすれば、歯茎が抗議してくる。牛乳を飲もうものなら、微妙に唇の端に染みる。


――朝食が、まるで小さな戦場になっていた。

スプーンとフォークのカチャカチャ、

コップのカラン、そして私の小さなうめき声。

すべてが、朝の食卓で小さな戦争を繰り広げている。



そして、もうひとつの小さな災難。


鏡を見て、青豆は思わず絶句した。


眉が――ない。


正確には、「片眉」が完全に行方不明になっていたのだ。今朝、なんとなく剃って整えようと思っただけなのに、いつの間にか大胆に削ぎ落としてしまったらしい。眉毛を整えようとして、眉が消える――そんな悲劇が、まさか自分の身に降りかかるとは。


鏡に映る自分の顔は、どうにも落ち着きがなく、しかも妙に哀愁が漂っている。


「……これ、どうやって学校に行けっていうの?」


片眉が消えたせいで、表情の印象がガラリと変わる。怖い、というか、困った顔、というか、なんとも説明しがたい微妙な顔。朝の準備中に、青豆は小さくため息をつき、眉の代わりに心の中で何度も「やばい」とつぶやいた。


とりあえず前髪を必死でセットしてごまかそうとする。けれど、髪の毛は青豆の必死さをあざ笑うようにぴょんぴょん跳ねて、眉を覆うどころかさらに強調する。


「なんで今日に限って言うこと聞かないのよ!」


結局そのまま家を飛び出す。

親知らずで頬は腫れているし、眉毛は非対称だし、すでに今日は「人に会いたくない日ランキング」堂々の第一位。


そして通学途中。すれ違う人がことごとく二度見してくる。

「いや、気づかないふりしてよ!」と心で叫ぶが、二度見は止まらない。

教室に入ると、親友・すずめがすぐに突っ込んできた。


「ねえ青豆、なんか顔バグってない?」


その一言で、青豆の片眉ロスは一気に全校デビューを果たす。





---


青豆の平穏は、ほんのわずかな隙間にすら忍び寄る。

家庭教師・桜井が、ちょっとしたトラブルに巻き込まれたのだ。いや、正確には、彼の“計算外の優しさ”が引き金になったらしい。勉強を終えた後、青豆は事情を聞きつつ、眉をひそめる。


「桜井先生……目の下クマができてますよ。何か悩み事ですか?」


「ああ……少しね」


いつもなら、皮肉のひとつやふたつ返してくるのに。

今日の桜井は、ほんの少しだけ弱々しい。

それを見た瞬間、青豆の胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


――助けなきゃ。いや、助けさせてほしい。


気づいたら、そう決めていた。自分でもびっくりするくらい自然に。問題解決に向けて小さく拳を握る青豆を、桜井がちらりと見て、わずかに表情をゆるめる。


「私にできることがあったら、何でも言ってください。」


「……頼もしいな、青豆ちゃん」


……なのに。

人生には、だいたい二つ目の問題が用意されているものだ。

そう、今の青豆には“親知らず”と“片眉不在”という、

どうしようもない二大トラブルがあった。できればそっちを解決してから、人助けに挑みたい。

切実に。


だが現実は無情である。

「土曜日でいいかな?」と、桜井から提案されてしまう。金曜日までに歯医者の予約が取れるだろうか。金曜日までに眉は……生えるだろうか。


青豆は心の中で小さくつぶやいた。

(……せめて眉毛だけでも、スピード生育してほしい)



果たして、金曜日。

青豆は歯医者にいた。

なんと奇跡的に予約が取れたのだ。

不運の連続の中にも、こういう小さなラッキーがある。青豆はほんのり希望に満ちていた。いや、満ちていたはずだった。


「腫れてる間は抜けないよ~」


終了のお知らせである。歯医者の軽やかな声が、まるで明るいBGMみたいに流れる。だが、青豆の耳には“終了のお知らせ”の鐘にしか聞こえない。


――神様、どうして私は、希望の階段を上がるたびに、踏み外す仕組みになってるんでしょうか。


麻酔の針よりも痛いのは、ここで終わってしまったことだった。



そうして迎えてしまった土曜日。

青豆は冒頭の問いかけに戻る。


何故――。


何故、私はこんな災難の渦中にいるのだろう――。


自分の人生に、ドラマチックな愛憎劇なんて起こらない。そう思っていたのに。

なのに、今こうしてファミレスの安いソファで、なぜかそのど真ん中にいる。


向かいに座るのは、知らない男女。

隣にいるのは、家庭教師・桜井。


「青豆、こちら同じ大学の間宮陽太と、その彼女の西野さん」


その名を呼ばれた瞬間、西野さんはぴくりと眉を動かした。美女である。美人なのに、その瞳は青豆を射殺すように冷たい。


怖い。この前見た映画のスナイパーより怖い。


「はじめまして。西園寺青豆です」


とりあえず、ペコリと頭を下げる。

間宮陽太と名乗った彼は、名前の通りの陽気さで、にかっと歯を見せた。名は体を表すとは、こういうことかもしれない。青豆も、つられて笑ってしまう。


「桜井に彼女が出来てるとは思わなかったよ。しかも可愛い女子高生!羨ましい」


「だから言いたくなかったんだよ。間宮、絶対からかってくるから」


桜井が苦笑する横で、突然投げられた爆弾。


「青豆って、変な名前」


投下主は西野さんだった。

その言葉は、ごうごうと燃えさかる怒りを孕んでいる。


「香奈子?いいかげんにしろよ。さっきから態度悪いぞ」


間宮の制止に、西野香奈子はさらに顔をしかめる。


――にしのかな…こ。


その名前を耳にした瞬間、青豆の心の中に小さな悪意が芽を出した。


(あなたこそ、一昔前に流行った“震える人”じゃないですか)


もちろん口には出さない。なぜなら、今日のお役目は「桜井の彼女“役”」。

役者は舞台を降りるまでは役を全うしなければならない。だから今は我慢。忍耐。


それに、このファミレスに来たのには、ちゃんと理由がある。CMで見てしまった、期間限定のシャインマスカットパフェ。あの、キラキラと宝石のように盛られた緑の粒たち。

どうしても食べたかったのだ。


自分の注文の番になって、青豆は胸を張って言った。


「シャインマスカットパフェください!」


すると、店員は申し訳なさそうな顔をして、


「売り切れです」


――まさかの即死宣告。


「え?だって、あれ、あそこに…」


青豆が指を差したのは窓際のテーブル。

そこには、二人で来ているはずのカップルが、なぜか3つもパフェを並べていた。


(人数とデザートの個数、合ってないですよね?)


店員は深々と頭を下げて言った。


「申し訳ありません。あれで最後だったんです」


つまり――。

もし彼らが人数分頼んでたならば、その最後のひとつは青豆の元へ来ていた。

なんという、タイミングと運の悪さ。

もっと前に売り切れていたら、諦めもついた。

けれど、目の前に輝くシャインマスカットの粒は、残酷なほど瑞々しい。

視覚的拷問である。


青豆は静かにメニューを閉じて、


「……ドリンクバーで」


そう告げた。

――人生は時に、炭酸でごまかすしかない。




ドリンクバーに立つと、そこには視線で人を射殺しそうな西野カナ…コが立っていた。空気は一瞬で凍りつく。ドリンクバーの機械音だけが、場違いなほど健気に鳴っている。


「あなた、本当に一樹の彼女?」

「……え?」


遅れて気づく。あ、これは完全に敵意だ。

その視線、冷蔵庫に放置されたアイスより冷たい。

そして彼女は何でもない顔で、さらりと投げた。爆弾を。


「一樹って趣味変わったんだ?あ、知らないか?私、一樹の元カノなんだ」


――はい、出ました。恋愛修羅場の必殺ワード。

元カノ宣言。

青豆は心の中で深くため息をつく。


(まさか自分の人生でこれを生で聞く日が来るとは。夢にも思ってなかった。いや、夢でも遠慮したい初体験)


桜井が慌ててこちらへ駆けてくる。


「西野?…青豆、西野に何か言われた?」


大丈夫?と覗き込んでくる桜井。

桜井は友人である西野ではなく、わざわざ青豆の方を向いて尋ねる。


(はい。カレカノっぽい!桜井さんってば、恋愛玄人確定!)


香奈子は唇の端をわずかに上げ、青豆を見据えた。


「元カノだって教えてあげただけよ」


「俺は西野と付き合ったつもりはない。お前は間宮の…」


「一瞬でも!私は一樹の彼女だった!別れたくなかった!」


――ド修羅場 at ドリンクバー in ファミレス。

気づけば、なぜか前置詞の使い方がやたら冴えていた。

at と in の違いを、こんなに正確に使い分けられたことが、人生で一度でもあっただろうか。


青豆は乾いた笑いを浮かべた。

リスニングは壊滅的なのに、修羅場では文法だけが正しくなる。

まるで英語の神様が「ここで成長しなさい」と背中を押してきているみたいに。



本当は「はじめまして、こんにちは~」「彼女?可愛いじゃん」「桜井に彼女ができて安心した」――そんな軽い小芝居で終わる予定だった土曜日の午後。

ただの『友人に彼女(偽)を紹介』ミッションのはずが、この炎上ぶり。シナリオ改変しすぎでは?


今、青豆はドリンクバー前で立ち尽くしている。

喉はカラカラ、親知らずはズキズキ、前髪の下では整えそこなった眉が主張している気がする。


――何故、私はこんな即席恋愛劇のヒロイン役を演じているのだろう。


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