4.婚姻届けに判を押しただけ、ではない
藤堂家は重苦しい空気に包まれていた。
こっちを午前中にするんだった、と青豆は後悔した。
「絶対、青豆の家が先。」と海翔が譲らなかったせいだ。
お昼に食べたカレーが胃を重たくさせる。
玄関で、海翔がまたしても出鼻をくじくようなことを言ってくる。
「青豆、やっぱりやめない?」
「何言ってるの、挨拶は必要でしょ」
「でも、青豆に嫌な思いさせちゃうかも。せめて俺ひとりで行かせてよ」
「ダメ。二人の結婚なんだから、挨拶も二人でするの」
ちょっと怖い。
でも意を決し、玄関のインターホンを押す。
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午前中の西園寺家の顔合わせは
懐石が出てきそうな日本庭園に囲まれた料亭で行われた。
「青豆さん、君はまだ20歳になったばかりで、学生の身なんですよ」
父・義治が珍しくまともなことを言う。
「いいじゃない。医大生なんでしょ。学生の内に青田買いしとくべきよ」
義母・京香がアシストかアシストじゃないのか微妙な援護をする。
「藤堂さん、すっごくいい人だよ。おねえのこと好きなの見てて伝わってくるし」
妹・香澄は出来うる限りのアシストをした。妹の愛らしさに涙が出る。
「どうか二人の結婚を認めてください。」
海翔が父・義治に頭を下げる。
青豆も隣で一緒に「お願いします。」と床に頭をつけた。
「はぁ。半年も前から決めてたようですし、元々私が口出すことじゃないのかもしれないけどねぇ…」
義治は、「親の庇護から~」という言葉を飲み込んだまま、深く息をついた。
その沈黙が、許可の代わりのように思えた。
「僕たちには今、必要なことなんです。」
海翔がまっすぐに義治を見据えて言った。
「そうですか。そこまでちゃんと考えているのなら、もう私の方から言う事はありませんよ。」
「いいでしょう。保証人欄にサインしましょう」
「やった!いいのお父さん!?」
「ありがとうございます!」
ということを、午前中にひとしきりやってきたのだ。
結構疲れた。
そして、今、二人は藤堂家にお邪魔している。
目の前には気に入らない様子を隠しもしない海翔の父に、困った様子の彼の母。
そして、譲る気のない頑なな様子の海翔。
「それで、今日は何をしに来た?」
海翔の父親は冷たい口調で言い放つ。
「結婚の報告に来ました。こちらの西園寺青豆さんと結婚して、西園寺の姓を名乗ります。」
海翔の父の顔色が変わった。怒り、だろうか。
青ざめて震えている。
「お前…」
「それを報告しに来ただけです。もう成人しているので、許可も承認も要りません。学費も、もう払っていただかなくても結構です。邪魔なら戸籍から抜いてもらって構いません。」
「ちょっ…!海翔!」
それはあまりにも急展開すぎる。
結婚の報告じゃなくて、絶縁宣言じゃないか。
「行こう、青豆」
海翔の父が口を開く前に、彼は青豆の手を掴んで応接室を出た。
「え、まって。海翔…」
「いいんだ。これ以上居たら、あの人たちは君に聞かせたくないような言葉を言い出すから。」
「帰ろう」と海翔は戸惑う青豆に優しく言い含める。
「待って!待ちなさい、海翔。」
海翔の母親が血相を変えて走ってくる。
「お兄ちゃんのことは聞いているでしょう?あなたが居ないと藤堂の家は跡取りが居ないのよ」
「それで?今度は俺の子供に、あなたの伯父はすごかったのに、って育てるの?」
海翔の胸の奥で、何かがぷつりと切れた。
「冗談じゃない」と吐き捨て、玄関を出た。
青豆は最後に振り返った。どうしても一言、言いたかった。
「海翔さんは、あなたたちの駒じゃありません。彼のことを一人の人間として見られないなら、これ以上関わらないでください。お願いします。」
と頭を下げる。海翔の母親は悲しみと後悔にまみれた顔をしていた。
少なくとも青豆にはそう見えた。
ドアが閉まる音の向こうで、誰かの嗚咽が微かに響いた。
外に出ると、春の風が頬を撫でた。
冷たさと温かさの境目を歩くような気がした。
そのまま、二人は市役所へ向かった。
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「ごめん。あんな場所に連れて行って、ごめん。」
市役所に向かう道で、海翔がぽつりと謝った。
急くようだった足取りは、いつもの歩調に戻り、
表情も幾分か柔らかくなった。青豆はほっと息を吐く。
「青豆より緊張してたみたい。ごめん」
「いいよ。やっぱり一緒に行ってよかった。」
青豆は海翔の手をぎゅうと握る。
「これからも一緒に居るからね。あんなつらいことを、あなた一人にさせたりしないから。」
彼女は言わない。
いつか和解出来るよとか、本当はあなたのことを思ってるはずなんて。
彼女は知っている。
世界には、分かり合えない人もいることを。
だからこそ、彼女は優しい。
痛いほどに、優しかった。
市役所の待合には、春の光が差し込んでいた。
午前の混雑を過ぎたせいか、人影はまばらだ。
番号札を取って腰かけると、
隣に座る海翔の手の甲がわずかに震えていた。
「緊張してる?」
青豆が笑うと、彼は息を吐いた。
「うん。心臓の音がうるさい」
「じゃあ、ちょっと静かにしてもらおうか」
青豆が彼の手をそっと握る。
それだけで、音が遠のいていく気がした。
カウンターに呼ばれ、書類を差し出す。
婚姻届の紙は、思ったより薄い。
それなのに、どうしてこんなに手が震えるのだろう。
係員が淡々と内容を確認し、印鑑の位置を指さす。
「こちらにお二人の署名をお願いします」
静かな音。
ボールペンが紙をなぞる音だけが、
午前の陽光の中に吸い込まれていった。
二人の名前が、同じ欄に並ぶ。
ただそれだけのことが、
世界を少しだけ確かなものに変えた。
係員が印を押す音が小さく響いた。
スタンプの朱色が、白い紙ににじむ。
「おめでとうございます」
淡々とした声。けれど、その言葉の響きがやけに温かい。
青豆は小さく会釈し、隣を見る。
海翔の目尻がわずかに潤んでいる。
彼はそれを誤魔化すように笑いながら言った。
「俺、いま世界で一番運がいいと思う」
「それ、たぶん気のせいじゃないよ」
ふたりの笑い声が、窓の外へと溶けていく。
春の風がカーテンを揺らし、紙の端を少しだけ持ち上げた。
青豆はそっとそれを押さえる。
まるで、まだ落ち着かない未来を
自分の手のひらで包み込むように。
その手を、海翔が重ねた。
二人の指が重なり合う。
指先には、朱色のインクがほんの少し残っていた。
「これで、ほんとに家族だね」
「うん。運と不運の、共同経営」
そう言って笑い合う。
その笑いの音が、春の光に溶けていった。




