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西園寺青豆の不運  作者: 雨水卯月
第三章

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4.婚姻届けに判を押しただけ、ではない

藤堂家は重苦しい空気に包まれていた。


こっちを午前中にするんだった、と青豆は後悔した。


「絶対、青豆の家が先。」と海翔が譲らなかったせいだ。

お昼に食べたカレーが胃を重たくさせる。


玄関で、海翔がまたしても出鼻をくじくようなことを言ってくる。


「青豆、やっぱりやめない?」

「何言ってるの、挨拶は必要でしょ」

「でも、青豆に嫌な思いさせちゃうかも。せめて俺ひとりで行かせてよ」

「ダメ。二人の結婚なんだから、挨拶も二人でするの」


ちょっと怖い。

でも意を決し、玄関のインターホンを押す。



---


午前中の西園寺家の顔合わせは

懐石が出てきそうな日本庭園に囲まれた料亭で行われた。


「青豆さん、君はまだ20歳になったばかりで、学生の身なんですよ」


父・義治が珍しくまともなことを言う。


「いいじゃない。医大生なんでしょ。学生の内に青田買いしとくべきよ」


義母・京香がアシストかアシストじゃないのか微妙な援護をする。


「藤堂さん、すっごくいい人だよ。おねえのこと好きなの見てて伝わってくるし」


妹・香澄は出来うる限りのアシストをした。妹の愛らしさに涙が出る。


「どうか二人の結婚を認めてください。」


海翔が父・義治に頭を下げる。

青豆も隣で一緒に「お願いします。」と床に頭をつけた。


「はぁ。半年も前から決めてたようですし、元々私が口出すことじゃないのかもしれないけどねぇ…」


義治は、「親の庇護から~」という言葉を飲み込んだまま、深く息をついた。

その沈黙が、許可の代わりのように思えた。


「僕たちには今、必要なことなんです。」


海翔がまっすぐに義治を見据えて言った。


「そうですか。そこまでちゃんと考えているのなら、もう私の方から言う事はありませんよ。」

「いいでしょう。保証人欄にサインしましょう」


「やった!いいのお父さん!?」

「ありがとうございます!」


ということを、午前中にひとしきりやってきたのだ。

結構疲れた。



そして、今、二人は藤堂家にお邪魔している。

目の前には気に入らない様子を隠しもしない海翔の父に、困った様子の彼の母。

そして、譲る気のない頑なな様子の海翔。


「それで、今日は何をしに来た?」


海翔の父親は冷たい口調で言い放つ。


「結婚の報告に来ました。こちらの西園寺青豆さんと結婚して、西園寺の姓を名乗ります。」


海翔の父の顔色が変わった。怒り、だろうか。

青ざめて震えている。


「お前…」

「それを報告しに来ただけです。もう成人しているので、許可も承認も要りません。学費も、もう払っていただかなくても結構です。邪魔なら戸籍から抜いてもらって構いません。」

「ちょっ…!海翔!」


それはあまりにも急展開すぎる。

結婚の報告じゃなくて、絶縁宣言じゃないか。


「行こう、青豆」


海翔の父が口を開く前に、彼は青豆の手を掴んで応接室を出た。


「え、まって。海翔…」

「いいんだ。これ以上居たら、あの人たちは君に聞かせたくないような言葉を言い出すから。」


「帰ろう」と海翔は戸惑う青豆に優しく言い含める。


「待って!待ちなさい、海翔。」


海翔の母親が血相を変えて走ってくる。


「お兄ちゃんのことは聞いているでしょう?あなたが居ないと藤堂の家は跡取りが居ないのよ」

「それで?今度は俺の子供に、あなたの伯父はすごかったのに、って育てるの?」


海翔の胸の奥で、何かがぷつりと切れた。

「冗談じゃない」と吐き捨て、玄関を出た。


青豆は最後に振り返った。どうしても一言、言いたかった。


「海翔さんは、あなたたちの駒じゃありません。彼のことを一人の人間として見られないなら、これ以上関わらないでください。お願いします。」


と頭を下げる。海翔の母親は悲しみと後悔にまみれた顔をしていた。

少なくとも青豆にはそう見えた。


ドアが閉まる音の向こうで、誰かの嗚咽が微かに響いた。

外に出ると、春の風が頬を撫でた。

冷たさと温かさの境目を歩くような気がした。


そのまま、二人は市役所へ向かった。



---


「ごめん。あんな場所に連れて行って、ごめん。」


市役所に向かう道で、海翔がぽつりと謝った。

急くようだった足取りは、いつもの歩調に戻り、

表情も幾分か柔らかくなった。青豆はほっと息を吐く。


「青豆より緊張してたみたい。ごめん」

「いいよ。やっぱり一緒に行ってよかった。」


青豆は海翔の手をぎゅうと握る。

「これからも一緒に居るからね。あんなつらいことを、あなた一人にさせたりしないから。」


彼女は言わない。

いつか和解出来るよとか、本当はあなたのことを思ってるはずなんて。


彼女は知っている。

世界には、分かり合えない人もいることを。

だからこそ、彼女は優しい。

痛いほどに、優しかった。



市役所の待合には、春の光が差し込んでいた。

午前の混雑を過ぎたせいか、人影はまばらだ。

番号札を取って腰かけると、

隣に座る海翔の手の甲がわずかに震えていた。


「緊張してる?」


青豆が笑うと、彼は息を吐いた。


「うん。心臓の音がうるさい」

「じゃあ、ちょっと静かにしてもらおうか」


青豆が彼の手をそっと握る。

それだけで、音が遠のいていく気がした。


カウンターに呼ばれ、書類を差し出す。

婚姻届の紙は、思ったより薄い。


それなのに、どうしてこんなに手が震えるのだろう。

係員が淡々と内容を確認し、印鑑の位置を指さす。


「こちらにお二人の署名をお願いします」


静かな音。

ボールペンが紙をなぞる音だけが、

午前の陽光の中に吸い込まれていった。


二人の名前が、同じ欄に並ぶ。

ただそれだけのことが、

世界を少しだけ確かなものに変えた。


係員が印を押す音が小さく響いた。

スタンプの朱色が、白い紙ににじむ。


「おめでとうございます」


淡々とした声。けれど、その言葉の響きがやけに温かい。

青豆は小さく会釈し、隣を見る。

海翔の目尻がわずかに潤んでいる。

彼はそれを誤魔化すように笑いながら言った。


「俺、いま世界で一番運がいいと思う」

「それ、たぶん気のせいじゃないよ」


ふたりの笑い声が、窓の外へと溶けていく。

春の風がカーテンを揺らし、紙の端を少しだけ持ち上げた。


青豆はそっとそれを押さえる。

まるで、まだ落ち着かない未来を

自分の手のひらで包み込むように。


その手を、海翔が重ねた。

二人の指が重なり合う。

指先には、朱色のインクがほんの少し残っていた。


「これで、ほんとに家族だね」

「うん。運と不運の、共同経営」


そう言って笑い合う。

その笑いの音が、春の光に溶けていった。


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