3.戻ってきた青豆
昼下がりの中華料理屋。
青豆は、すずめと並んで瓶ビールを分け合っていた。
グラスを持つ指先には、さりげなく光る結婚指輪。
「ふーん、じゃあ毎日FaceTimeしてるんだ?」
「うん。あんまり喋らないよ。ただ、同じ画面の中で黙々と勉強してるだけ」
「ま、それがあんたたちの形ってことだね。いいじゃん」
無責任に聞こえるその言葉が、いまの青豆には不思議と心地よかった。
“正しい形”なんて誰も知らない。
だからこそ、すずめの枠にとらわれない言葉に救われる。
学生同士の遠距離結婚。
周囲からの反対もあった。
父の許しを得て籍を入れられたのは、ほんの数週間前のことだ。
それでも――
私たちは、私たちの形を作っていく。
誰の見本にもならない、ただ一つの形を。
「あ、やば。そろそろ行かなきゃ」
「今日は?」
「“都市の隙間リサーチ” 使われてない街の空間を探して、そこにアートするの」
すずめは新しい仲間と芸術活動に忙しいらしい。
あの人を寄せ付けなかった彼女が。
変わっていく姿が、嬉しくもあり、少しだけ寂しい。
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信号をひとつ渡った先で、百田と七瀬が手を振っていた。
「二人とも、久しぶり!」
「日本に居ても案外会えないな」
「あっちでの一週間、濃かったね~」
――あの時。
青豆のプロポーズ大作戦が終わった直後、現場は混乱していた。
「意外。青豆、こういうフラッシュモブ的なサプライズ苦手だと思ってた」
「苦手。でも、たまには自分の殻を破ってみたくなるでしょ」
「ふーん。俺のために?」
「そこ、いちゃつかないでくださーい!」
海翔が青豆の顎に手を伸ばす。
彼女はその手を掴んで下ろした。頬が熱くなる。
なんで自分だけ照れてるんだろう。
彼は恥じらいという言葉を、たぶん日本に置き忘れてきた。
笑いの渦の中で、すずめが白紙の婚姻届をとんとん、と叩いた。
「で、どっちにするの? 藤堂青豆か、西園寺海翔か」
「藤堂青豆、文豪みたい」
「西園寺海翔も、貴族感あるよね」
みんなが好き勝手に盛り上がる中、海翔が小さく息を吸って言った。
「俺……西園寺になりたい」
その瞬間、全員が思った。
――かわよ。
青豆は笑って、「どっちでもいいけど、勝手に決めていいのかな」と呟く。
すかさず、百田が叫ぶ。
「待たせるの!? こんな可愛い恋人を!?」
なぜか全員がうなずく。味方はいない。
(なんで?みんな元々は私の友達と妹だよね…?)
ペンを握り、二人は名前を書いた。
「保証人欄、どうする?」
「私書きたーい!」
「いや、そこはさすがに親じゃない?」
百田が手を挙げ、七瀬がブレーキをかけ、
結局、香澄が「私が貰っとく!」と仕切った。
「ナイスアシスト!」と青豆は笑った。
――けれど、それが香澄の最後のアシストだった。
「え?式は!?西海岸の浜辺でウエディングフォトは!?」
「しないよ。するわけないじゃん。学生だよ」
香澄は本当に楽しみにしていたようだ。
そういえば、留学前にも海翔に言ってたような…
そのときも、少しだけ泣きそうな顔をしていた。
「おねえ、酷い!楽しみにしてたのに!」
「いや、なんでよ。」
文句をいなす青豆の横で、百田が顔を上げた。
あの「思いついた!」の表情。いやな予感しかしない。
「やろうよ、ウェディングフォト!」
「何言ってんの」
「いいじゃん、思い出になるし!」
「で、場所は? 衣装は? カメラは? 誰が撮るの?」
一瞬で企画会議が始まる。
「私と香澄ちゃんは衣装とメイク担当!」
「にかちゃんは、カメラと動画編集!」
「はいよ、iPhoneで映画が撮れる時代だしね!」と、
二階堂すずめ――いや“にかちゃん”は珍しくノリノリだ。
「七瀬、ロケ地探してきて」
「英語できねぇけど!?」
「死ぬ気でやれ!」
笑い声とツッコミが入り混じる。
海翔は苦笑しながら青豆の手を取った。
「じゃあ俺たちは指輪、買ってくる。青豆、行こ」
「え、ええー!? ちょっと待って!」
その声が、夕暮れの風にさらわれていった。
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「楽しかったよね、あのとき」
「ほんと。人のプロポーズに便乗してさ」
「いい思い出になったじゃん」
笑い合う三人。
青豆は頬を緩めながらも、ほんの少し照れていた。
「うん。いい写真だった。ありがとう」
「改めて言うなよ、照れる~」
そんな友人たちがいる。
それだけで十分幸せなはずなのに、胸の奥に小さな空洞が残る。
「最近、海翔とは会ってんの?」
「入籍してからは会えてない。向こうの学期末に会えるかな」
「じゃあ次は八月か。寂しいね」
青豆は答えず、曖昧に笑った。
七瀬がアイスコーヒーを飲み干しながら言う。
「この前、海翔に課題手伝ってもらったんだけど、あいつ文系めっちゃできるんだな」
「何やってんの、お前」
「いや、的確なアドバイスでさ。なんで医学部行ってんだろって思うくらい」
青豆は小さく笑う。
その笑みは、どこか遠くに置き忘れた光のようだった。
「ごめんね、青豆。こいつのせいで二人の時間減ってたら…」
「そんなことないよ。ほんと、気にしないで」
彼女が去ったあと、二人は静かに顔を見合わせた。
「青豆……なんか元気なかったね」
「俺、なんかマズイこと言っちゃったかな」
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星がほとんど見えない都心の夜。
青豆は一人暮らしの部屋の鍵を開けた。
段ボールが三段、積まれたまま。
その上に、アメリカから持ち帰ったマグカップがひとつ。
服はまだハンガーにもかけていない。
あちらでの生活が、あまりにも快適すぎたのだ。
その落差に、今、静かに苦しんでいる。
すずめには新しい友人ができ、
妹の香澄も新しい学校で忙しく、
百田と七瀬も課題に追われている。
気づけば、自分だけが止まっていた。
青豆は段ボールのひとつを開け、食器を包んだ紙をほどく。
ガラスの音が、静かに響いた。
白い皿の縁に、微かに残る指の跡。
それを見つめながら、彼女はひとり呟いた。
「整えるまでの間、少し寂しくても」
カーテンの隙間から夜風が入り、
その言葉を、やさしく撫でていった。
⁻⁻⁻
ガチャン、と大袈裟に鍵が開く音の後、重たい扉が開いた。
青豆の居ない部屋はぽかんと穴が開いたみたいだった。
しん、と静まり返った空間のそこかしこに彼女の気配が残っている。
二人で使った食器、椅子、ベッド。
寂しい。けれど前ほど不安ではない。
結婚という形をもらったからだろうか。
青豆にはしてもらってばかりだ、と海翔は苦笑いする。
彼女の気配を感じながら、海翔は一人の夜を乗り越える。
前よりも穏やかな気持ちで、ゆるやかな時間を。




