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西園寺青豆の不運  作者: 雨水卯月
第一章

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3.猫とサラリーマンと卵焼き、ついでに家庭教師

登校中、猫を見つけた。

触ろうとしたら、手に当たったのはきたないタオルだった。しかも、通りすがりのサラリーマンがそれを見て不審な目を向ける。抜き打ちテストでは、回答がひとつずつズレ、お昼の弁当の大好物の卵焼きは口へ入る前に地面に吸い込まれた。そして、会ったばかりの家庭教師に嫌味を言われる。


人生とは、こういうことの連続でできているらしい。


以上、今週の西園寺青豆。

不審者に見られた痛みも、悲惨なテストの結果も、卵焼きの悲劇も、そして家庭教師の皮肉も、すべて彼女の「日常の試練」の一部である。





---


登校中、駐車場の車の下に灰色の子猫を見つけた。


「よーし、よし、怖くないよー。おいで」


青豆は猫を怖がらせないようにゆっくりと慎重に近づく。

車の下を覗き込み、そのふわふわな毛並みに触れようと手を伸ばす。手に当たったのはきたないタオルだった。しかも、それを通りすがりのサラリーマンに見られた。あからさまに不審者を見る視線を受け止め、青豆は朝から心臓に小さなダメージを受ける。



抜き打ちテストでは、回答がなぜかひとつずつずれていた。


いや、これはきっと、運が悪いのではなく、マーク欄が私にだけ見えにくい角度で印刷されていたせい――いや、違う。鉛筆が六角形ではなく五角形だったせい――いや、それも違う。


青豆の脳が朝の通りすがりのサラリーマンに不審な目を向けられた痛みを引きずっていたせいだ。


……にしても。

答えはずれているのに、妙に合っている気がする。

つまり私は、間違っているのに正しい女。




お昼の弁当を開け、大好物の卵焼きを口に運ぶ。

しかし不運は青豆を見捨てない。卵焼きは一瞬で机の下に落ち、ころころと木目の床を転がっていった。


「あっ!待って!」


(ああ……楽しみにしてた卵焼き。唯一の希望、黄色い光。)


机の上に落ちていたら、まだ救えた。

三秒ルールを言い張る余地もあった。


けれど机の下はだめだ。

そこは、落ちた瞬間に“社会的に廃棄”が決定する場所。

卵焼きは、私の期待を乗せたまま、床の隙間に消えていった。弁当はまだ半分残っているのに、もう主役が退場してしまった。




---



そして、今日の最大の事件――家庭教師の登場。


青豆はリビングで数学の教科書を広げていた。

今日から家庭教師が来るらしい。

正直、また誰かに自分の勉強の進度をチェックされるのかと思うと、心が少し重い。

今朝の不審者として見られた痛みも、抜き打ちテストの回答ミスも、卵焼きの落下も、まだ心の片隅に残っている。


玄関のチャイムが鳴った。

いつものことだが、玄関という場所は人生の新キャラ登場率が異様に高い。

お手伝いの森さんが、相変わらずの営業スマイルで応対する。


「こんにちは、桜井一樹です。よろしくお願いします」


現れたのは背の高い青年。Y大の文学部2年生。

第一印象は――口が達者そうで、きっと皮肉の引き出しをいくつも持っているタイプ。

そして、笑顔の奥に、微妙な緊張感がある。


――つまり、感じ悪いのか、感じがいいのか、まだ判断できない。


「えっと、今日は現国を見ていただきたいんです」


青豆は小さな声で切り出す。


「なるほど。じゃあ、なんで数学の教科書を開いてるの?」

「えっとこれは…趣味で」


「数学が趣味?……なるほど。なるほど、なるほど」


彼の「なるほど」は、共感というより鑑賞に近い。

桜井は、数学が趣味だなんて心底理解できないという顔をした。

どうして初対面の家庭教師に趣味の採点をされなくちゃいけないのだろう。

いや、現国の採点を頼んだのはこちらだが。



そのとき森さんが紅茶を運んできた。

「お勉強ですから、頭をすっきりさせるために」なんて言いながら。


ありがたい。ありがたいけれど、ありがたすぎた。

カップを口に近づけた瞬間、異様な熱さで青豆の下くちびるがやけどした。


「っつ……!」


一瞬で涙目。桜井は無言でペンを回しながらこちらを見ている。見ているけれど、助ける気配は一切ない。


「……火傷ですか?」

「いえ、大丈夫です。口の中のトレーニングです」


そんなトレーニング方法はない。自分でも嘘だとわかっている。




桜井は机に手を置き、現代文の問題集から一枚、ビリッと抜いた。


「これを解いてみて。高一の実力テストとしては簡単な方だよ」


青豆の心臓は軽く跳ねる。

簡単な方が解けなかったらどうしよう。

「簡単」とか「普通」とか「常識」とか、そういう単語ほど人を追い詰めるものはない。

世間一般なんて言葉無くなってしまえばいい。


数分後。

桜井は採点しながら呟いた。


「うーん……これは面白いね。いや、面白くはないか」

「……褒めてますか?」


「もちろん、褒めてないよ。君の解釈は少し独特だな」


なるほど。褒めてないのか。

家庭教師というものは、最初に生徒のやる気を引き出すために軽く持ち上げるのがセオリーだと思っていた。

持ち上げないのか。初回から容赦ないのか。

一回も?一つも?褒めないの?



授業は進む。

青豆が解いた問題に、桜井がひとつずつコメントを入れる。


「ここはいいけど、ここは君の癖が出てるね。作者の意図を、少し無駄に汲みすぎている」

「……はい、私、回り道得意ですから」


この家庭教師、“無駄に”一言多い。

でも、無駄に一言多い人は、なぜか話していて面白いことが多い。

言い返すと同時に、青豆は小さく笑ってしまった。


「何?なんで笑うの?」


桜井は眉を顰めたが、その瞳には面白がっている光が確かにあった。





---


「ふーん?じゃあ、そのY大の家庭教師?とは、上手くやっていけそうなの?」


すずめが観葉植物の葉っぱを裏返しながら、あまり興味なさそうに言った。

その裏に何があるのだろう。葉っぱの裏の微生物? それとも、彼女の本音?


「なんとか上手くやるしかないよぉ。なんで成績落ちたのバレちゃったんだろう…」


青豆はソファに深く腰掛け、頭を抱える。

成績が落ちたことが漏れたのか、いや待て、そもそも私の成績って秘密にしておく価値あるのか? だいたい、赤点っていうのは、成績として数えられるのか?


「おねえも大変だね。」


妹の香澄がもう一つのソファに寝転び、ため息交じりに言った。

西園寺家は基本、放任主義である。父親の義治は、青豆の成績に一切興味がないと思っていた。どこから情報が漏れたのか。……いや、赤点だから情報になったのか。


青豆は思わず眉をひそめる。

放っておかれる日常の中、こんな小さな“リーク事件”が、思考の迷路に引きずり込む。

それでも、今日も生き延びている。少なくとも、妹は愚痴で笑ってくれるし、すずめは軽口で笑わせてくれる。家庭教師は皮肉屋なのに、どこか面倒見が良さそうだ。

……いや、皮肉屋で面倒見が良いなんて、複雑すぎるじゃないか。



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