2. 失恋とフランスパンと、すずめ
朝食べたフランスパンの破片が、口の中に刺さった。地味に痛い。グループラインでは、自分だけ返信していないのに遊びの予定が決まっていた。文芸部で読んでいた小説は、後輩に堂々とネタバレされる。
そして――何も始まらないうちに、失恋した。
以上、今週の西園寺青豆。
刺さるものはフランスパンだけではなく、運命もまた刺さる。だが、それでも彼女は顔を上げ、明日も学校に行く。不運とともに生きるしかないと知りつつ、少しだけ達観したような、あるいは諦めたような顔で。
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朝食べたフランスパンの破片が、口の中の前歯の裏に刺さった。何故そんな場所に。
ほんの一口目で、軽く血がにじみそうな痛み。飲み込もうとしても、うまくいかず、何度も舌で突っつく羽目になる。
「なんでフランスパンって、こんなに攻撃的なんだろう」
考える間もなく、痛みは増す。
当然、朝の準備の最中、歯磨きもメイクも思うように進まない。痛いのをこらえつつ、眉間にしわを寄せるしかない。
昨日の深夜に通知が来ていたグループライン。
自分だけ返信していないのに、遊びの予定がどんどん決まっていく。
「もう決まったの? 私抜きで?」
画面を睨んで小声で呟くが、返事が届くわけもなく、スルーされた青豆の名前だけが浮かぶ。
存在感がないわけではないのに、何故か毎度忘れ去られる。
どうやら、誰も青豆が返信してないことに気が付いていない。
このスキルがもし国家資格だったら、青豆は間違いなくトップレベルだろう。
目立たないけれど、確実にそこにいる。
なのに、なぜか皆の記憶からスルッと抜け落ちる。スパイに向いているかもしれない。ならないけど。
昼休みには文芸部で小説を読んでいた。
静かにページをめくって、物語に没頭しようと思ったのに、後輩の無邪気な声が響く。
「主人公の親友、敵だったんだって!」
青豆は心の中で凍る。
「まだ読んでないんだけど……」
しかし、もう遅い。ネタバレは確定事項。せっかくのワクワク感が、紙くずのようにくしゃくしゃになった。本を閉じても、頭の中には後輩の言葉が残って、物語はいつの間にか私を置いて先に進んでしまったようだった。
放課後、青豆は中庭を歩いていた。
青豆は歩きながら、いつもより空気が乾いている気がした。
嫌な予感、というのはだいたい当たる。
中庭のベンチには、片想いの相手――文芸部の先輩が、誰かと並んで座っている。
「……え?」
その「誰か」は、先輩と指を絡めて笑っていた。
恋人、らしい。青豆は、息を飲んだ。いや、正確には、息を詰まらせた。喉に小さな石を投げ込まれたみたいに。
先輩がこちらに気づいて手を振ってくる。
その隣の恋人も、にっこり笑った。
青豆は、とりあえず振り返した。できるだけ表情筋を使わずに。
「見ちゃったんだね」
「わぁっ!」
背後から声がした。親友の二階堂すずめだった。驚いて寿命が三年は縮んだ。
どこにでもいる。いや、正確には、いてほしくないときに限っている。
「……偶然、ね」
「偶然っていうか、もはや必然。ラブコメ的に言えば、あそこを通る青豆が悪い」
「私が悪いの?」
「悪い。だって、青豆はいつも運が悪い」
「……反論できない」
二人で中庭のベンチに腰を下ろす。すずめは安っぽいチョコレート菓子をぽいっと口に入れる。お気楽そうで、少し救われる。
「ショック?」
「……ショック」
「どのくらい?」
「火曜日限定の購買のメロンパンが目の前の人で終わったくらい」
「それはまあまあショックだね」
「……でも、泣くほどではない」
「だよね。青豆、そういうとこある」
すずめはわざと大げさにうなずく。その動作に、青豆は思わず口元をゆるめた。
「青豆の恋って、理屈っぽいんだよ」
「理屈っぽい?」
「条件と偶然の積み重ね。だから最初から、ある程度結果も読めちゃう」
「……私って、つまらない?」
「逆。めんどくさい。でも、面白い」
すずめの笑顔は、慰めなのか、本心なのか。たぶん両方だろう。
青豆は小さく息を吐いた。
失恋はショックだった。けれど、そのおかげで、わかったこともある。
自分はロマンチストではない。
でも、不運なりに、恋をする。
そして、支えてくれる友人がいる。
それで十分かもしれない――そう思った。
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次の日の放課後、青豆は教室に残っていた。
藤堂海翔に勉強を教えるためである。
前の学校よりカリキュラムが進んでいるらしく、先生に頼まれたのは青豆の得意科目――数学。
青豆にとっては、世話役と先生役を兼ねる“任務”であり、いかにして心の平穏を保つかが最大の課題であった。
「……昨日より、元気ないね」
教室の机に向かう海翔が、低い声で言った。
青豆は思わず肩をすくめる。
「別に、普通だよ。元気だよ。いつも通りだよ。」
しかし声に力は入らない。失恋のせいだけではない。
フランスパンの破片が、まだ上あごに刺さったような気がして痛いのだ。
昨日から何もかもが小さな針で突かれるような日々。
海翔は相変わらず無口だが、机を挟んで座っているだけで圧がある。
近すぎる――ただ座っているだけなのに、心臓が妙にどきどきした。
「じゃあ、この問題、やってみようか」
青豆が教科書の数学の問題を指し示す。
しかし、その瞬間、目に入ったのは教科書の端に書かれた落書き――
デフォルメされた数学の先生の顔が描かれている。
「あっ……!」
(すずめの奴!!)
青豆は思わず声を漏らす。
海翔の視線が自分に向く。
「青豆……書いたの?」
(えっ、違う、違う。落書きはすずめの仕業だ。)
「え、いや、その……あの……これは……違うよ!私じゃないよ!」
青豆は言い訳を口にするが、嘘っぽく聞こえ、ただ自爆してしまった。
「す、すずめの……二階堂さんの落書きなの……ホントに……」
言い終わったとき、赤面が止まらない。
海翔は無表情で、しかしわずかに眉を動かすだけだった。
それ以上からかってこない大人っぽさに青豆の心臓は再びドキリと跳ねる。
失恋、フランスパン、そしてこの小さな誤解。
今日も青豆は、自分の不運が小さな波紋を生むことを実感する。
それでも、沈黙の中で海翔への数学の問題を指し続ける。
一つの式を解くたびに小さなうなずきを返す。
だが、その無口な態度が、青豆には妙に心地よい。
青豆は心の中で、そっと思った。
(この人、ちょっと……嫌いじゃないかもしれない。怖いけど。)
沈黙の中で、互いの距離をほんの少し縮めた時間。
青豆の胸には、不運だけではない、小さな温度が生まれていた。




