2.プラネタリウムの妖怪と、飛行場
3つ上の兄は、何でもできた。
それも「ちょっと器用」とかそういうレベルではなく、
“なんでも出来すぎて困ってます”くらいの、不遜なムカつく天才だった。
語学を始めれば一か月でペラペラ。
絵を描けば画商が目を輝かせ、
研究をすればニュース特番が来る。
中学生にして大学の研究室への出入りも許される
そんなチートな存在。
(なんで、同じ親から生まれたのに、こんなに差が出るんだろう)
――そんなことを、藤堂海翔は小学生ながらに思っていた。
そして、ある日。
兄が大学の研究室で倒れた。
家の中が一瞬で慌ただしくなる。
海翔は居間で待っていた。「お留守番ね」と言われたから。
けれど、夜が明けても、誰も帰ってこなかった。
暗いリビングの時計の音が、やけに大きい。
カーテンの隙間から、朝の光が差す。
――兄ちゃん、大丈夫かな。
――お母さんたち、どこに行ったんだろう。
次の日の昼頃になって、玄関がにぎやかになった。
「ただいまー!」
兄が元気そうに笑って、両親も笑っていた。
その瞬間、海翔は思った。
(あ、忘れてたんだ)
兄の手にはプレゼントのような箱。
両親の手には花。
そのどちらも、自分には関係ないもののように思えた。
「使用人に連絡しなかったのか?」
「あなたがしたと思っていたのよっ」
「それでも母親か?」「あなただって!なんで私だけが責められるのよ」
両親の醜い責任の押し付け合いが始まる。
何故か自分が悪い気がして、
海翔は足元の影をじっと見つめた。
あの日、藤堂海翔は知った。
“存在を忘れられる”というのは、
誰かに置き去りにされるより、強烈で静かな痛みを伴うものだということを。
藤堂海翔は、たまに思い出す。
あの頃の自分を。
努力が“愛されるための通貨”だった頃を。
高校は、日本でも屈指の難関校に入った。
あの夜、置いていかれた子どもは、兄よりも価値のある人間だと証明したかった。
兄は何をしても完璧だった。
語学、絵、研究。
親の会話の八割は兄の話題でできていた。
だから海翔は残りの二割をなんとか死守しようとした。
血がにじむような努力をした。
学校の授業も、語学も、絵も。
兄の研究まで、全部。
――それでも届かなかった。
ある日、兄に研究の質問をした。
ほんの少し褒めてくれれば、それでよかった。
『なんでそんなことまで知ってるんだ?』『海翔と話すと楽しいな』
そんな言葉を期待していた。
兄は、ただ一言。
「こんなことも分からないの?」
ゴミを見るような目、というのはこういう目だ。
その夜、海翔はノートを破った。
破ったページの数だけ、兄が遠くなっていく気がした。
全国模試で二位を取った時、父は新聞から目を上げ、
「そうか、頑張りなさい」と言った。
母は言った。
「お兄ちゃんはいつも一位だったのにね。おかしいわねぇ」
海翔はそのとき、ようやく悟った。
人間、限界を超えて頑張ると、少しバカらしくなるものだ。
そうして、くだらない喧嘩をして、退学になった。
両親とは、それ以来口をきいていない。
あの日の傷は、まだ生乾きのままだ。
笑い声や、リビングに差し込む夕暮れの匂いで疼く。
けれど今は、隣に青豆がいる。
堤防の上で、海風を受けながら、彼女は言う。
「さむーい!ね?」
ふふ、と笑う。
不運に愛されているくせに、笑う。
それが、青豆だ。
「抱きしめていい?」
彼女が恥ずかしそうに頷く。
後ろから抱きしめると、彼女は「ふふっ、あったかーい」と言った。
――傷が、痛くない。
彼女といると、自分は“誰かの弟”でも、“誰かの期待”でもない。
ただの藤堂海翔でいられる。
そして、思う。
いつかこの腕で、誰かを守れる人間になりたい。
青豆が笑っていられる未来を、ちゃんと作れる人間に。
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青豆の手を握りながら、藤堂は少し息を整えた。
何度目かのデートを重ね、プラネタリウムというベタな空間で
藤堂は青豆に、とある告白をした。
「俺、医者になる。」
青豆が目を見開く。
「その為にアメリカの大学に行く。」
「え……?」
海翔は視線を落とし、しばらく言葉を選ぶように口を動かす。
「親が癌だと、子どもも発症率が高いんだって……知ってるよね。
青豆のお母さん、大腸がんだっただろう?」
手をぎゅっと握る。指の力に、覚悟と少しの緊張が混ざっている。
「だから……俺、君を守りたいんだ。」
青豆の胸の奥で、ドキリとした何かが弾ける。
「……藤堂……」
言葉にならない。涙がちょっとだけ、目の端に滲む。
海翔は一瞬目を逸らし、でもすぐに青豆を見つめ直す。
「多分、青豆は俺なんか居なくても元気に生きてると思う。でも……それでも、君を守りたい。君がもう大切な人を失くして泣かなくていいように、俺は誰かを助けられる医者になる。」
青豆は小さく息をつき、笑うように涙を拭った。
「……なんかじゃないよ。いっぱい、いっぱい助けてもらった。居ないと寂しいよ。」
海翔はふっと微笑む。
「ちょっと離れることになるけど……待っててくれる?」
「うん。ずっと待つ。私、しつこいんだから」
「知ってる。」
プラネタリウムの星はもう、すっかり白くなっていた。
天井に散っていた無数の光が、蛍光灯の明かりに負けて、
ただの点に戻っていく。
ロマンティックとは程遠いけれど、
青豆の胸には、たしかに“青春”の手触りがあった。
光よりも、熱のように残るもの。
そこに――ぬっと人影が差し込む。
妖怪か、と思った。
「次の回が始まるので、早く出てください。」
プラネタリウムの職員は、
ロマンティックな空気を一刀両断するような冷めた声で言う。
手をヒラヒラさせながら、二人を現実へと送り返す。
都内有数のプラネタリウム――ロマンティックの欠片くらい、売ってくれないだろうか。
「妖怪かと思った」
「俺も」
二人で笑う。大丈夫、俺たちはきっと離れても大丈夫
顔を見合わせて、笑いがこぼれる。
そんな瞬間が、もう愛おしい。
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夜の風が、春の終わりの匂いをしていた。
図書館帰りの青豆が、手すりに肘をかけて夜空を見上げている。
「星、見えるね。都内なのに」
「うん、今日は星の調子がいいみたい」
プラネタリウムで見た偽物の星よりも、
この、くすんだ本物のほうが、ずっときれいに見えた。
藤堂海翔は明日、アメリカに発つ。
青豆はまだ、その現実をちゃんと信じられていなかった。
いま目の前で笑ってるのに、明日にはいないなんて。
「ねえ、向こうでもちゃんとごはん食べてね」
「食べるよ。青豆、おかんみたい」
軽口を返しながらも、海翔の声の奥に、
かすかに震えがあった。
沈黙。
二人の間に、見えない“あと一日”の砂時計が落ちていく。
青豆がふと、ポケットから小さな紙袋を取り出した。
学業成就のお守り。いつのまに
「これ、お守り。あと手紙、向こうで寂しくなったら読むやつ」
「俺、これ見るたびに泣くかも」
「じゃあ泣きながら頑張って」
笑いながら、目が潤む。
どっちの涙か、もう分からない。
海翔は、青豆の髪をそっと指に絡めた。
やわらかくて、すぐに風に逃げる。
この感触を、たぶんしばらく思い出す。
「俺さ、たぶん向こうでも不安になると思う。
でも…青豆が“待つ”って言ってくれたから、頑張れる気がする」
「うん、待つ。……あ、でも、しつこいよ。しつこい女になるよ?」
「知ってる。青豆だもんな」
ふたりで、ほんの短い笑い。
そのあと、長い沈黙。
遠くで電車の音がする。
それが終電の合図で、別れの音にも聞こえた。
青豆が小さく呟く。
「また星、見に行こうね」
海翔は頷いた。
でも、言葉にはしなかった。
約束を声にすると、壊れてしまいそうだったから。
夜風がふたりの間を通り抜けていった。
春の匂いと、少しの未来の匂いを残して。
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「こんなすぐに渡米って出来るんだ…」
飛行場で海翔の乗った飛行機を見送りながら、青豆はつぶやいた。
「藤堂家のコネ使いまくったら、出来るんだね。いやー権力っていいナァ!」
隣で飛行機の数を数えながら、すずめが軽口を言う。
「おねえ!そろそろ中入ろうよ!北海道フェアやってるよ!!マリモッコリのキーホルダーあるよ、買って!」
「マジで!青豆、ついてきてあげたんだから、ソフトクリームくらい奢ってよ!ほら、行くよ!」
妹ってちゃっかりしている。親友もちゃっかりしている。
勝手についてきた上に、北海道のお土産をたかろうとしている。
青豆は、思わず小さくため息をつきながらも、くすりと笑った。
「……ほんと、二人とも、どこまで図々しいんだか」
でも、なんだかんだ言って、心はほっと温かい。
飛行機の残像が空に消えたあと、静かに胸の中に、ゆるやかな満足感が広がる。
人生って、こういう日常の端っこに、ちょっとした救いとか幸福がこっそり潜んでるんだろうな、と青豆は思った。
ま、妹とすずめが横で騒ぐ限り、平和なのかもしれない。
平和って、結構めんどくさいものだけど、それもまた悪くない。




