1.春と、進路と、孤独な夜と
春は、やっぱり匂いでわかる。
制服に、ほんの少しだけ残る冬の冷たさ。
でも風がやわらかくなると、どうしても思い出す。
あの秋の日。初めて西園寺青豆に会った日のことを。
海翔がこの学校に来たのは、去年の秋だった。
理由を聞かれれば「家庭の事情」とだけ答えたけれど、実際はもう少し青臭い。
前の学校で殴り合いをして、退学になった。
喧嘩の理由はよく覚えていない。ただ、胸の奥にこびりついた“どうせ俺なんて”の苛立ちだけが残っている。
家では兄が常に正解を言い、両親はそのたびに「さすが」と笑った。
海翔が何かを言っても、「おまえも頑張れ」と言われるだけ。
それは応援の言葉の形をしていたけれど、実体は“関心の終了通知”みたいなものだった。
退学になっても、金髪にしても、ピアスを開けても、一度失くした関心はもう得られなかった。
そんなとき、彼女を見た。
西園寺青豆。
綺麗な子だと思った。
自分を見るときだけ、ほんの少しだけ怖がっている。
それなのに、まるで見透かすようにまっすぐ見つめてきた。
まっすぐなのに、震えてコップの水みたいに揺らぐ眼差し。
“ああ、この人、俺の中にある怒りが見えるんだな”と、海翔は思った。
怖いのは、彼女の方じゃなくて、見透かされた自分の方かもしれないのに。
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そして今、春。
教室の前の黒板に、クラス分けの紙が貼られている。
文理で分かれた名簿。
二階堂は文系、青豆と俺は理系。
三人で過ごした半年間が、あっけなく終わった。
「すずめと離れるの、初めてだね」
「そーかな?じゃ、私あっちだから」
二階堂すずめは興味がなさそうに背中越しに手を振り、隣の教室へ消えていった。
「えー…寂しいじゃん…。」
青豆が寂しそうに手を振り、そのままゆっくりと降ろした。
「青豆、俺は一緒だよ。嬉しくないの?」
そう言ったら、青豆は耳まで赤くして「へあ?」って変な声を出した。
チャイムが鳴る。
教室の窓からは、桜の花びらがひとつ入ってきた。
――春。
新しい始まりと、まだ終わっていない想いの季節。
西園寺青豆と藤堂海翔。
ひとつの春を、同じ教室で迎える。
それは、恋と受験と、少しの不安が入り混じる、
――“青春の最終ラウンド”の始まりだった。
西園寺青豆は面白い。
不運が向こうから「やあ」と手を振ってくるタイプの人間だ。
本人は真剣に悩んでいるけれど、避けられた試しはほとんどない。
たとえば、読みたかった本は図書館で全部予約済み。
仕方なく本屋に行けば、年に一度の定休日。
友達のグループラインに送ったメッセージは、七人もいるのに既読が一向につかない。
世の中には“運の良い人”と“悪い人”がいる。
そして青豆はきっと、“物語を引き寄せる人”だ。
そんな青豆が、春、いよいよ高校三年生になった。
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海翔と青豆は、図書館デートをしていた。
半分は勉強。もう半分は趣味。
青豆の好きな本はだいたい専門書で、厚くて、重くて、そして高い。
だから図書館は、青豆にとってのパラダイスだった。
今日は、荷物持ち要員――つまり海翔――もいる。
「完璧」と青豆は心の中でガッツポーズを決めた。
けれど、運命とは、そういう時に限って気まぐれだ。
読みたかった三冊すべてが、まさかの「貸出中」。
しかも予約は数十件待ち。
「……全部、埋まってる」
青豆は、返却予定日の数字を睨みつける。
どう見ても、しばらく帰ってこない。
(いや、これ絶対あれだ。先週のテレビ特集のせいだ)
前から好きだったのに。
ずっと前から知っていたのに。
にわかファンに先を越された気がして、ちょっとだけ、悔しい。
「人気出る前から推してたのにな」
ぼそりと呟く青豆に、海翔が笑う。
「そういうの、ファンあるあるだね」
「……笑いごとじゃないんだけど」
拗ねたように言いながら、青豆は本棚に背中を預けた。
その横顔が少し赤い。照れているのか、苛立っているのか、本人にも多分わからない。
「じゃあさ、別の本探そうよ。今日出会う本が、青豆の新しいお気に入りになるかもしれない」
海翔はそう言って、何気なく手に取った一冊を青豆に差し出した。
タイトルは『偶然という名の必然』。
「……くさいタイトル」
「でしょ?でも、今の青豆に似合う」
青豆は小さく息を吐いて、表紙を開いた。
たぶん中身は難しい。けど、たぶん、今日の青豆にはちょうどいい。
――愛情も、本も。
欲しかったものが手に入らない日ほど、なぜか記憶に残る。
海翔はやっと手に入れた青豆の眩しさに目がくらんだ。
図書館を出たあと、ふたりは駅前のカフェに寄った。
外は春らしい風。テラス席には、ノートパソコンを開く大学生たち。
青豆はメニューも見ずにをカフェラテ頼み、海翔はアイスコーヒーを選んだ。
「青豆は進路って決めてる?」
アイスコーヒーの氷を掻き混ぜながら、海翔が何気なく聞いた。
「うん。建築系の仕事に就きたいから、建築学部に行くつもり。」
あっさりとした答え。
でもその声の芯は、しっかりしていた。
『家は?継がないの?』という海翔の声はついぞ出てこなかった。
氷がカランと音を立てる。
「建築…?意外」
「そう?小さいころから家の間取り見るのが好きで。
それに“形になるもの”を作りたくて」
“形になるもの”。
その言葉が、海翔の胸の奥に残った。
自分はどうだろう。
形にしたいものなんて、思い浮かばない。
「すごいな。もうそこまで決めてるんだ」
「すごくなんかないよ。やりたいって思っただけ」
青豆はストローで氷をつついた。
その横顔がまぶしくて、海翔は少しだけ目をそらした。
自分は、なんとなく理系が得意で理系にしただけ。
得意=選択。
それでいいと思っていたけど、青豆を前にすると、
その“なんとなく”がやけに心もとない。
「……俺さ、何も決まってない」
自嘲気味に言うと、青豆は首をかしげた。
「じゃあ、大学行ってから、決めればいいじゃん」
「え?」
「それから決めたって遅くないよ。人生って、思いつきでも案外なんとかなるし」
軽いようでいて、妙に説得力があった。
海翔は笑う。
「青豆ってさ、運悪いのにポジティブだよね」
「不運とポジティブは両立するんだよ」
“そのバランス感覚、ほんとずるいな”と思いながら、
海翔は温くなったアイスコーヒーをひとくち飲んだ。
――青豆の世界には、ちゃんと未来がある。
そして、自分の未来は、まだ輪郭すらぼやけている。
それでも、となりにいるこの時間だけは、
誰よりも確かな“今”だった。
次の日、青豆は本屋に行った。
オフィスビルの一階にある、専門書も扱っている大きな本屋だ。
父からもらったお小遣いを握り――正確にはPayPayに送金されているので、
スマホをしっかりと握りしめて、
意気揚々と自動ドアの前に立った。
――定休日のお知らせ。
「……え?」
信じられない。
年に一度の定休日。
よりによって、その一日に当たる確率とは。
もう少し、世界は私に優しくてもいいのでは。
でも、がっくり項垂れながら見上げたその瞬間、
ガラスのビルに反射する空の色が妙にきれいだった。
青でもなく、水色でもなく、少し白を含んだ曖昧な色。
「建物って、空を映すんだな」
ぽつりと呟いた。
ガラスに映るのはただの空じゃない。
その日、その瞬間の天気、光の加減、時間――
全部を写して、全部を変えていく。
人もきっと同じなのかもしれない。
その時の気持ちとか、人との関わりとか、
一瞬で表情を変える。
青豆はもう一度ビルを見上げた。
「建築って、生き物みたいだな」
その瞬間、自分の中で、
“大きな建築物を作りたい”という気持ちが、
ただの夢から、少しだけ現実に一歩近づいた気がした。
――不運の定休日が、人生の設計図の1ページになるなんて。
ほんと、人生ってタイミングの悪い奇跡でできてる。
ベッドの上で青豆は悶々としていた。
友達のグループラインに送ったメッセージは、
メンバーが七人もいるのに、既読が一向につかない。
ほとんど文系で、クラスも遠く離れてしまった。
数Ⅲと古文が壁のように、青豆とみんなを隔てている。
『クラス別れちゃったから、一回カラオケでも行こうよ!』
そう送ったのは、夜の8時。
たぶん皆、課題とか恋とかテレビとか――
それぞれの“今”を生きている時間。
……でも、七人全員が見てないって、そんな奇跡ある?
もしかして私、空気読めてない?
いや、読む以前に、理系の波長と文系は反発するのかもしれない。
同じWi-Fiに繋がってるはずなのに、電波が届かない感じ。
送信した自分がちょっと切なくて、
でもそれ以上に、笑えてきた。
「まぁ、いっか。そんな夜もある」
青豆はスマホを伏せて、ベッドに突っ伏した。
既読がつかない画面も、
今の青豆には、ちょっとした静寂みたいで悪くなかった。
――青春って、返事が来ない夜にも、ちゃんと存在している。
青豆のグループラインが未読のまま夜を迎える頃、
海翔も自室でスマホを握っていた。
正確には握ってはいるけれど、画面を見る余裕もなく、
ただ、青豆のことをなんとなく思い出していた。
去年の秋――転校初日。
教室のドアを開けた瞬間に見たあの子。
まっすぐで、でも水みたいに揺れる目。
怖がっているのも、ちゃんと感じた。
それなのに、いつもいつでも声を掛けてくれた。
「青豆って、いつもまっすぐで、でも少し不器用だな」
独りごとみたいに呟く。
あの子は今、何してるんだろう。
課題に追われてる?漫画読んでる?
それとも、友達に未読無視されて悶々としてる?
あり得る――
そう思って、ふっと笑いがこみあげる。
ふと、去年の自分を思い出す。
優秀な兄へのコンプレックスと、親に認めてもらえないもどかしさで
反抗的になっていたあの頃の自分。
青豆に出会って、少しだけ変われた気がする。
誰かを、ただまっすぐに応援したい――
そんな感情が芽生えていることに、少し驚いていた。
そして、夜の静かな自室で、
海翔はそっとスマホの画面を閉じる。
未読のメッセージの向こう側にいる青豆の笑顔を、
頭の中でそっと思い浮かべながら。




