エピローグ 蛇に睨まれたカエルの恋
「ご、ごめんね。本当にごめん」
西園寺青豆――なぜか今、彼氏と一緒にホテルに来ています。
いや、別にそういうつもりじゃなかった。
ディズニー帰りの泣いて、笑って、気づいたらここ。
人生って、たまに説明書を失くしたみたいな夜がある。
そして私の人生は、だいたいその“たまに”の連続でできている。
「気にしなくていいよ。青豆、おいで」
海翔がダブルベッドに座って、両手を広げた。
その瞬間、西園寺青豆の脳内では、
“え、これ、そういうやつ?”という文字が点滅する。
恥ずかしさと警戒心と、あとほんの少しの期待で、
青豆は息をのんだ。
こういうとき、呼吸の仕方ってどこに売ってるんだろう。
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少し時間をさかのぼって
ディズニーデートの最後。
海翔の告白をきっかけに、青豆は花火の中で泣いた。
最初は、ほんのちょっと感動しただけのつもりだった。
でも、涙って一度スイッチが入ると止まらない。
海翔は人混みを避けて、青豆の手を引いた。
誰もいない植え込みの裏。聞こえるのは花火の音だけ。
そこで青豆は、思う存分泣いた。
母が亡くなったあの日から、
お通夜も、お葬式も、四十九日も泣かなかったのに。
お葬式で知らない親戚に“冷たい子ね”って言われた。
そうかもね、と思った。
でも、あのときは、泣き方がわからなかっただけなんだ。
「うぁああん」
ひっくひっくとしゃくりを上げて、青豆は泣いた。
ずっと、忘れていた泣き方を、やっと思い出したみたいに。
「よしよし、青豆。よく頑張ったね」
「…どうしよう」
「うん?」
「おかあさん、死んじゃった」
「うん、そうだね」
「お母さんが、死んじゃった」
「うん」
「何も…何にもできなかった」
「そう」
「話そうとしてくれたのに、私…気分じゃないって断った」
「そっか」
「責めちゃったの。どうして連絡くれなかったのって」
「うん…」
「どうして話してくれなかったのって、責めたの」
「大丈夫、青豆のお母さんだもん。きっと分かってるよ」
「あの日でもう会えなくなるなんて、思わなかったの…っ」
「誰もそんなこと分からないよ…」
「うっ…うう…」
涙を乱暴に拭くと、海翔がティッシュをくれた。
涙と、ついでに鼻水も拭く。
その音が、少し間抜けで、でも少し救いだった。
涙が溢れて、溢れて、
海翔は、このままだと彼女がしぼんで
手のひらからこぼれてしまうんじゃないかと心配になった。
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熱を持った瞼を海翔がくれたお茶のペットボトルで冷やす。
「なんで今さら、と思わなくもない。」
「いいじゃん。いつ泣いたって。」
それに、と海翔が続ける。
「きっと…今やっと青豆の中で気持ちの整理がついたんだよ。」
海翔が労わるように頭を撫でる。
さっきまで抱きしめてくれていたせいで、
彼のコートの胸元が少し濡れている。
気づけば、終電が終わっていた。
タクシーも見当たらない。
ホテルはダブルの一部屋しか空いていなかった。
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そして、冒頭に戻る。
「青豆、おいで」
海翔がダブルベッドに座って、両手を広げた。
その瞬間、西園寺青豆の脳内では、
“え、これ、そういうやつ?”という文字が点滅する。
危険信号が点滅してるのに、近づいてしまう。
好きな人の“おいで”の威力はすごい
おずおずと海翔の腕の中に収まると、
笑い声と、優しい声が降ってきた。
「何もしないから安心して。」
……そうなの?
全身に覚悟をまとっていた青豆は、思わず顔を上げる。
「ずっと外に居たし、泣いたから冷えたでしょ。あっためてあげる」
「お風呂で温まったのに?」
「うん。悲しいことがあると、お風呂だけじゃ温まらないんだ」
「そっか」
青豆は思わず笑った。
それは実体験? それとも、ただくっつきたいだけ?
海翔は答えず、ただ「うん」と笑った。
その笑いが、湯気みたいにやさしかった。
青豆はふと、彼の腕の中でつぶやいた。
「ねえ、これ…朝になったら気まずいやつじゃない?」
海翔が笑う。
「たぶんね。」
その会話のあと、二人は笑いすぎて眠れなくなった。
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人生というのは、
だいたい「気まずい朝」を恐れて、夜を短くしてしまうものだ。
でもたまに、そんな夜を越えても、
ちゃんと隣に誰かがいてくれることがある。
その人が恋人であっても、友達であっても、
あるいは、ただの「今」だけの人でも。
――泣いて、笑って、気まずくなって。
それでも、あたたかい夜をひとつ、ふたりは持った。
そんな夜のことを、人はきっと“青春”と呼ぶのだろう。




