10.待合室で、涙のあとにあなたがいる
――恋をすると、世界がほんの少しやわらかく見える。
あるいは、自分が少しだけ浮かれて見える。
西園寺青豆、彼氏ができました。
レストランで、注文と違うオムライスが来ても――
「大丈夫です。(私、彼氏いるんで)」と笑顔で受け入れる。
タクシー乗り場で、順番を抜かされても――
「大丈夫です。(私、彼氏いるんで)」と、にこやかに譲る。
いとこの披露宴で、酔っ払いのおじさんに赤ワインを浴びせられても――
「大丈夫です。(私、彼氏いるんで)」と心でつぶやく。
彼氏というたった三文字の魔法が、
青豆の世界にフィルターをかけた。
……でも、フィルターって、時間が経つと外れるもの。
その時、青豆が見る世界は――きっと、また少し面白い。
――西園寺青豆、ただいま恋愛初心者。浮かれモード、継続中。
西園寺青豆は、運が悪い。
でも最近、その“運の悪さ”にも、ちょっと味が出てきた。
たとえば今日。
レストランで頼んだのは、ふわとろ卵にデミグラスソースがとろりとかかった、
いかにも写真映えするオムライス。
……のはずだった。
運ばれてきたのは、THE・昭和レトロ。
赤いケチャップと黄色い卵の、懐かしのビジュアル。
一瞬、「え、間違ってませんか」と言いかけたけれど――
初デートというものは、被害者にも謎の羞恥を与える。
なんで私が赤くなるの。
「……大丈夫です、私、彼氏いるんで。」(※言ってない。)
でも、一口食べてみたら。
……おいしい。
想定外の方向から幸せが来ることもある。
青豆は海翔に「一口食べてみて!」とお皿を近づけた。
当然、自分のスプーンで、と思っていたら――
「……あーん」
ああ、そういうパターンですか。
恥ずかしい。でも、うれしい。
西園寺青豆、今日もトラブルの中にちょっとした幸福を見つける。
もしかして、人生って――
トラブルを笑える人が、一番得してるのかもしれない。
ドレスはお嬢様の特権――ではない。
だって実際は、歩きづらくて、苦しくて、背筋が勝手に正される服だ。
少なくとも、西園寺青豆にとっては。
普段は制服にスニーカー。
動きやすさ命、気品よりも機動力重視。
そんな青豆が今日は、慣れないヒールで、裾を気にしながら歩いている。
結婚式。――もちろん、自分のじゃない。いとこの。
「めっちゃくちゃ可愛い」
海翔は、それだけ言うために、わざわざ駅まで来てくれた。
見せびらかし要員、ただそれだけのために。
けれど、青豆の胸はふわっと浮く。
恋というのは、日常のどこにでも小さな舞台を作るものらしい。
これぞ、カレカノの醍醐味。
甘酸っぱい青春!
青豆は一通りの誉め言葉をありがたく頂戴し、タクシーの列に並んだ。
ようやく前に進んだと思ったその時だった。
スーツ姿の男が、青豆のすぐ前にスッと割り込んだ。
え?今の、完全に順番ぬかしだよね?
あまりに自然体でやられると、注意するタイミングを失う。
青豆は一瞬ムッとしたが――すぐに、ふっと息をついた。
「……大丈夫です、私、彼氏いるんで。」
(※言ってない。でも心の声が漏れてる)
その瞬間、風がドレスのスカートを揺らした。
なんだろう、ちょっと勝った気がする。
順番は譲った。でも、心は妙に上機嫌。
たぶん恋をすると、人は理不尽に寛大になる生き物だ。
母方の名家、西園寺の分家。
披露宴はまるで成人式の縮図だった。
色とりどりの着物やドレスがひしめいて、目がちかちかする。
誰が主役か、もはや分からない。
そんな中、ふらふらと酔っ払いのおじさんがやってきて――
あっと思った瞬間、赤ワインが桜色のドレスを赤く染め、台無しにした。
普通なら泣くところだが、青豆は笑った。
「大丈夫です、私、彼氏いるんで。」
(※言ってない。でも顔に書いてある)
タオルで丁寧に拭きながら、青豆は思う。
ドレスが汚れても、心はちょっと無敵。
恋をしている人間とは、だいたいそういう生き物だ。
「あら?大丈夫?替えの着物があるから、お着替えしましょ」
「お母さん…」
久しぶりに会う母は、あの一件――父の逮捕の時、連絡が取れなかったことなど、なかったことのように立っていた。
母に促され、西園寺家の控室に入る。桜色のドレスは一瞬で脱がされ、今度は艶やかな紫の着物を羽織る。
「これ、私の若い頃のよ。あなたにあげるわ」
母は儚げに微笑む。その笑顔が、青豆の胸をざわつかせる。
「お母さん、あのとき…」
青豆はためらいながらも口を開く。
聞くなら今しかないと、勇気を出す。
「お父さんが逮捕されたとき、どうして連絡してくれなかったの?」
母の顔が、一瞬だけ歪む。
「…あの時ね」
「そうね。あなたには言わなくちゃね…」
声が途切れた。青豆の胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「お母さん、癌だったの。手術してて…その後も意識が戻らなかった」
信じられない。
目の前の母は、いつもと変わらず美しい。どうしてそんなことが隠されていたのか。
だったら、なんで一人娘の私が知らないの?
お母さんにとって、私はその程度の存在?
「聞いてないよ…」
「だって、あなた。ケーキ食べようって誘ったの断ったでしょ」
そう言えば、父の逮捕の一週間前だっただろうか。
母にどこそこのホテルのアフタヌーンティーに誘われた気がする。
あの返事、どうしたんだっけ?
そうだ。『気分じゃない』と、断ったんだ。
「それなら!ちゃんと話があるって言ってくれたら!」
「うーん…お母さん、そういうの苦手じゃない?」
言葉少なく、母は微笑む。
それだけで、青豆の胸はざわざわした。
知らない。
母とは十歳以降、一緒に暮らしてないから、知らない。
「勝手だよ…。」
声が震える。さっきまでの幸福は、もう遠くにあるように思えた。
「そう。お母さん勝手なの。」
認められたら、それ以上何も言えないじゃないか。
青豆はそのまま、逃げるように控室を後にした。
廊下ですれ違った叔父が、青豆を見て慌てた様子で声をかける。
「青豆ちゃん!会えてよかった!実は姉さんのことで!…って、もしかしてもう聞いた?」
青豆は赤い目を隠しながら頷いた。
「叔父さん、あの時、連絡出来なかったのって、お母さんそんなに悪かったの?」
「ああ…ちょっと座ろうか」
叔父は披露宴の片隅に席を準備させて、影になるように花や屏風を配置させる。飲み物や食べ物がテーブルに用意されるが、少しも食べる気になれない。
「君のお母さんはね、大腸がんなんだ。あの時、容態が急変して、開腹したけれど…」
叔父が涙交じりの声になる。
「もう全身に転移していて…」
そんな。では、さっき会ったあの母は?
癌なんて、病気だなんて信じられないくらい綺麗なあの母は?
その時、式場がざわざわと騒がしく、緊張感を孕んだ空気で包まれる。
「誰か来て!緑子さんが倒れた!」
叔父と青豆は立ち上がって、走った。母は控室で青白い顔でソファに寝かされていた。
「お母さん!おかあさん!!」
呼びかけに反応しない。
「すぐに救急車を!それと、控室にいる主治医を呼びなさい。」
叔父の呼びかけに、何人かのスタッフがばたばたと部屋を出て行く。
「お母さん!」
緑子の目が開く。薄く唇が動く。
「ごめんね。青豆。お母さん、弱くて…」
青豆は母の手を握る。すぐに主治医が来て引き離される。
その手の温もりは、しばらく残った。
そこからは映画のように、実感がなかった。
暗い病院の受付で、常夜灯が小さく点滅する。
青豆は手術室前に立ち尽くす。
「青豆!」
すずめ、香澄、そして海翔。
海翔の手が自然に、でも確かに青豆の手を包む。
手術のランプが赤く光り、始まる。
青豆は海翔の手の温かさを感じながら、
ぽつり、と青豆がつぶやく。
「知らなかったの…私。お母さんに一人で手術させちゃった。怖かっただろうな。心細かっただろうな。私がちゃんとお母さんの話を聞いてあげてたら…」
言葉が床に落ちて吸い込まれる。
握られた手の温もりが、青豆を押し返すように受け止めてくれる。
妹の香澄はすずめに抱き着いて泣いている。
時々あげるしゃくりと泣き声が薄暗い待合室に響く。
手術室の電気が消える。
医師が出て来て、叔父家族が結果を聞く。
聞くまでもない。医師は首を振り、叔父家族は床に崩れ落ちた。
青豆は立っていた。泣きもせず茫然と立っていた。
「おねえ!」
妹の香澄が青豆に抱き着く。右手は海翔に預けたまま
青豆は左手で香澄を受け止める。
「なんで、香澄が泣いてるのよ…」
ぐちゃぐちゃになった顔を左手で撫でる。
「私のお母さんが死んじゃった時、おねえ一緒に泣いてくれたじゃん!だから、今、一緒に泣くんだよ」
そうだった。香澄の母、洋子さんは体が弱かった。
けれど、家庭的で、優しくて、いつも甘い匂いがした。
十歳で親の離婚を経験した青豆はその一年後に、父の再婚を経験した。
相手は連れ子もいた。
4歳下の妹は可愛らしかった。
青豆が香澄を可愛がると、洋子は青豆まで可愛がってくれた。母・緑子から得られなかった人並みの母の愛を、青豆は確かに洋子から受け取っていた。
洋子はその3年後、亡くなった。
その時は香澄と一緒にわんわん泣いた。
母が離婚した時、涙一つ流さなかった青豆が一週間泣き暮らした。
その後、青豆を立ち直らせたのも洋子だ。
洋子に香澄のことを頼まれていたから、立ち直れた。
(香澄、大きくなったな…)
青豆は頼もしくなった香澄を抱きしめる。
先ほど、全く出ない、と思っていた涙が零れ始める。
そこへ、泣きはらした腫れぼったい目をしたすずめが香澄ごと青豆を抱きしめた。
「うっ…うう…」
青豆は香澄とすずめと一緒に泣いた。手術室の前で臆面もなく泣き声を上げた。
(今日だけ、今日だけにしよう)
海翔の手の温かさが、どこまでも流れ込む。泣けば泣くほど、胸の奥が少しだけ軽くなる。
人の温もりって、こういうことなのだ、と青豆は思った。
お母さんに貰った着物からは着替えています。




