3 騎士団長の指導者としての悩み
王都での生活が始まって一週間が過ぎた頃、ルシアンは宮廷の訓練場で一人の男性と出会った。
「君が噂の新参貴族か」
声をかけてきたのは、35歳ほどの筋骨隆々とした騎士だった。顔に刻まれた傷跡が戦歴の長さを物語っている。
「はじめまして。ルシアン・グレイヴァルトです」
「俺はガルス・ブレイド。王国騎士団の団長をしている」
ガルス・ブレイド──王国最強の騎士として名高い男だった。しかし近くで見ると、その表情には深い疲労と困惑の色が浮かんでいる。
(肩の緊張、眉間の皺、視線の泳ぎ方...典型的な『指導者ストレス症候群』だな)
「エリアから聞いたぞ。君は人の心を読む技術を持っているとか」
「読む、というよりは理解しようと努めている、という感じですが」
ガルスは剣を鞘に収めると、ルシアンを見つめた。
「実は...相談がある。時間はあるか?」
騎士団の詰所に案内されたルシアンは、ガルスから深刻な悩みを打ち明けられた。
「最近、部下たちの士気が著しく低下している。特に若い騎士たちだ」
ガルスは重苦しい表情で語り始めた。
「魔王軍との戦いが長期化する中で、何人もの仲間を失った。生き残った者たちも、心に深い傷を負っている。だが俺には...どう声をかけていいのかわからないんだ」
(PTSD、サバイバーズ・ギルト、そして指導者として部下を支えなければならないプレッシャー。複合的な心理的負荷がかかっている)
「具体的には、どのような問題が起きているのですか?」
「命令に対する反応が鈍くなった。訓練中の集中力も欠けている。そして...」ガルスは言いにくそうに続けた。「何人かは、戦場で足が竦んで動けなくなることがある」
ルシアンは頷いた。それは戦闘ストレス反応の典型的な症状だった。
「ガルス様は、部下たちにどのような言葉をかけているのですか?」
「『気合いを入れろ』『戦士としての誇りを持て』『死んだ仲間のためにも戦え』...そういったことを言っているが、効果がない」
ルシアンは内心で首を振った。それらは全て逆効果になる可能性が高い言葉だった。
「お聞きしますが、ガルス様ご自身の調子はいかがですか?」
「俺?俺は大丈夫だ。指導者として、弱音を吐くわけにはいかない」
しかしガルスの表情や仕草は、明らかに『大丈夫』ではなかった。
(指導者は自分の感情を抑圧しがちだが、それが部下たちにも伝染している可能性がある)
「ガルス様、少し失礼なことをお聞きしますが...最近、よく眠れていますか?」
ガルスの表情が一瞬強張った。
「...なぜそんなことを?」
「表情や話し方から、慢性的な睡眠不足の兆候が見て取れます。指導者の心身の状態は、必ず組織全体に影響を与えます」
「俺が弱いから、部下たちも...?」
「弱いのではありません。人間として自然な反応です」ルシアンは優しく諭した。「戦争という極限状態で、心が無傷でいられる人間など存在しません」
その時、詰所のドアが開いた。
「団長!新人騎士のマルクが訓練中に...」
現れたのは20代前半の副団長、アレン・ハート。しかし彼の顔は青ざめていた。
「どうした?」
「過呼吸を起こして倒れました。意識はありますが、震えが止まらなくて...」
ガルスは立ち上がった。「すぐに医師を...」
「待ってください」ルシアンが制止した。「私も一緒に行かせてください」
訓練場の隅で、18歳ほどの青年騎士が膝を抱えて座り込んでいた。呼吸は浅く速く、全身に細かい震えが走っている。
「マルク、大丈夫か?」ガルスが声をかけたが、青年は反応しない。
ルシアンは静かに青年の前にしゃがんだ。
「マルクさん、私の声が聞こえますか?」
「は...はい...」かすれた声で返事が返ってきた。
「今、あなたは安全な場所にいます。訓練場にいて、仲間たちに囲まれています」
ルシアンは穏やかな声で語りかけ続けた。これは『グラウンディング技法』と呼ばれる、解離状態やパニック発作の治療法だった。
「深く息を吸って、ゆっくりと吐いてください。私と一緒に数を数えましょう。1、2、3...」
5分ほどかけて、マルクの呼吸は正常に戻った。震えも徐々に収まってくる。
「どうですか?少し楽になりましたか?」
「はい...ありがとうございます」
マルクが顔を上げると、その目には深い恐怖が宿っていた。
「すみません、団長...僕は臆病者で...」
「違います」ルシアンがきっぱりと否定した。「あなたは臆病者ではありません。これは『戦闘ストレス反応』という、戦場を経験した兵士によく見られる自然な反応です」
周囲にいた騎士たちがざわめいた。
「自然な反応?」ガルスが眉をひそめる。
「はい。人間の脳は、生命の危険を感じると『戦うか逃げるか』の反応を起こします。しかし戦場では逃げることもできず、戦い続けなければならない。その矛盾が心に大きな負荷をかけるのです」
ルシアンは立ち上がり、周囲の騎士たちを見回した。
「皆さんにお聞きします。戦場で怖いと感じたことがない人はいますか?」
誰も手を上げなかった。
「仲間が傷つくのを見て、心が痛まなかった人は?」
また誰も手を上げない。
「では、なぜマルクさんだけが『臆病者』なのでしょうか?」
騎士たちは互いに顔を見合わせた。
「彼がしているのは、皆さんと同じ『人間として当然の反応』です。ただ、それが身体症状として現れただけです」
ガルスが口を開いた。
「では...どうすればいいんだ?」
「まず、指導者であるガルス様ご自身が、自分の感情を認めることから始めてください」
「俺の感情?」
「『怖い』『辛い』『悲しい』といった感情を、恥ずかしいものだと思わないでください。それらは人間として自然な感情です。指導者が自分の感情を受け入れることで、部下たちも自分の感情と向き合えるようになります」
ルシアンは振り返ると、マルクに向かって言った。
「マルクさん、あなたが今日感じた恐怖は、あなたが『人間らしい心』を持っている証拠です。それを恥じる必要はありません」
「でも...戦えなければ、騎士として失格です」
「戦うことだけが騎士の価値ではありません」ルシアンは微笑んだ。「仲間を思いやる心、正義を愛する気持ち、平和への願い...それらも立派な騎士の資質です」
その時、詰所の奥から老騎士が現れた。
「素晴らしい話だ、若者よ」
現れたのは元騎士団長のバルトス・グレイ。60歳を超えた今も現役として戦い続ける伝説の騎士だった。
「バルトス様...」ガルスが驚いた。
「実は最初から聞いていた」バルトスは優しい笑みを浮かべた。「その通りだ、ガルス。指導者も人間だ。完璧である必要などない」
老騎士はマルクの肩に手を置いた。
「わしも若い頃、戦場で足が震えて動けなくなったことがある。だが、それで騎士を諦めようとは思わなかった。恐怖と向き合うことも、騎士の修行の一つだ」
マルクの目に希望の光が宿った。
「バルトス様でも...」
「ああ。恐怖を感じない者は愚か者だ。恐怖を感じながらも立ち向かう者こそが、真の勇者と呼べる」
その夜、ガルスはルシアンの部屋を訪れた。
「今日はありがとう。目が覚める思いだった」
「いえ、当然のことをしただけです」
「教えてくれ」ガルスは真剣な表情で言った。「部下たちの心を支える方法を。俺も、もっと良い指導者になりたい」
ルシアンは頷いた。
「組織心理学という分野があります。人がどのようにして集団の中で力を発揮するか、指導者はどう行動すべきかを研究する学問です」
「是非とも学ばせてもらいたい」
「ただし、最初に学ぶべきは『自分自身の心』です。自分の感情を理解し、受け入れることができない者は、他人の心を支えることはできません」
ガルスは深く頷いた。
「俺は...今まで弱さを見せてはいけないと思っていた。だが、それが部下たちを追い詰めていたのか」
「強いリーダーとは、弱さを見せないリーダーではありません。弱さを認めながらも、それでも前に進み続けるリーダーです」
窓の外では、夜警の騎士たちが巡回している。彼らの足音は、以前よりも軽やかに聞こえた。
(組織の心理的安全性を高めることができれば、この国の軍事力も大幅に向上するはずだ)
ルシアンの異世界での挑戦は、着実に実を結び始めていた。
【ルシアンの心理学講座 #3】
今回使用した技術:『戦闘ストレス反応』『心理的安全性』『リーダーシップ心理学』
■ 戦闘ストレス反応(Combat Stress Reaction)
戦場などの極限状態で発生する心理的・生理的反応。症状には、過呼吸、震え、集中力低下、不眠などがあります。これは「病気」ではなく、人間として自然な反応です。
重要な対処法:
- 症状を「弱さ」として扱わない
- 安全な環境での休息を提供
- グラウンディング技法で現実感覚を取り戻す
- 段階的な復帰を支援する
■ 心理的安全性(Psychological Safety)
チームメンバーが恐怖や不安を感じることなく、自分の意見や感情を表現できる環境のこと。Googleの研究でも、高いパフォーマンスのチームに共通する最重要因子とされています。
リーダーがすべきこと:
- 自分の不完全さや失敗を認める
- チームメンバーの発言を積極的に求める
- 失敗を個人攻撃ではなく学習機会として扱う
- 多様な意見を歓迎する姿勢を示す
■ グラウンディング技法
不安やパニック状態の人を現実に引き戻すためのテクニック:
5-4-3-2-1法:
- 見えるもの5つを言う
- 聞こえるもの4つを言う
- 触れるもの3つを言う
- 匂うもの2つを言う
- 味わうもの1つを言う
ビジネス応用例:
部下が極度に緊張しているとき:
1. 深呼吸を一緒にする
2. 「今、安全な場所にいる」ことを確認
3. 具体的で身近なもの(机、椅子など)に注意を向けさせる
注意点:
真のリーダーシップは権威的な命令ではなく、共感と理解に基づくものです。部下の感情を否定するのではなく、まず受け入れることから始めましょう。