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2 宮廷魔術師の心の檻


王都アストリアは、ルシアンが想像していた以上に巨大だった。城壁の高さは30メートルを超え、街には魔法の明かりが煌めいている。


「ようこそ王都へ、ルシアン・グレイヴァルト様」


王城の謁見の間で、ルシアンは国王陛下に拝謁した。エドワード三世は60代の温厚そうな君主だが、その表情には深い疲労の色が浮かんでいた。


(典型的な慢性ストレス症候群の症状だな。長期間の重圧で、判断力も低下している可能性が高い)


「父上からの書状、確かに受け取った。君には期待している」


「恐縮です、陛下」


謁見を終えると、ルシアンは宮廷での生活が始まった。与えられた部屋は質素だが、図書館へのアクセスは自由だった。


「心理学の基礎理論がまったくない世界か...逆に言えば、すべてが新鮮な発見になるな」


翌日、ルシアンは宮廷魔法師エリア・フォンテーヌと対面することになった。


「新参の貴族の方ですね。私は宮廷魔法師のエリアです」


18歳の美しい女性だが、その表情は氷のように冷たかった。挨拶も最低限で、明らかに距離を置こうとしている。


「よろしくお願いします、エリア様。魔法について色々教えていただければ」


「...私は忙しいので、基礎的なことは書物で学んでください」


エリアはそっけなく答えると、踵を返して去ろうとした。だがルシアンは彼女の『防御的な行動パターン』を見逃さなかった。


(完璧主義的な性格、他者との関係を避ける傾向、過度に礼儀正しい話し方...これは典型的な『感情抑制型』の人格だ)


翌日、ルシアンは意図的にエリアの研究室を訪れた。


「すみません、魔法陣の基礎理論で分からないことが...」


「だから書物で調べてくださいと言ったでしょう」エリアは苛立ちを隠そうともしなかった。


「申し訳ありません。ただ、あなたの魔法理論への理解の深さに感動して、どうしても直接お聞きしたかったのです」


エリアの手が一瞬止まった。


「...私の理論?」


「はい。昨日拝見した『火属性魔法の効率化に関する論文』、実に見事でした。特に魔力消費量の数式化は、誰にでもできることではありません」


エリアの表情が微妙に変わった。まだ警戒は解いていないが、興味を示している。


(承認欲求への適切なアプローチ。完璧主義者は自分の専門分野に対する正当な評価を強く求める)


「...あの論文を理解できたのですか?」


「完全にとは言えませんが、その革新性は十分理解できました。従来の魔法理論の枠組みを超えた、まったく新しいアプローチですね」


エリアは椅子から立ち上がると、本棚から分厚い論文を取り出した。


「では、この部分はどう理解しました?」


それから1時間、二人は魔法理論について議論した。ルシアンは前世の心理学知識を応用して、エリアの思考パターンを分析しながら会話を進めた。


「なるほど...あなたは思っていたより理解力がありますね」


「ありがとうございます。エリア様の説明が非常に分かりやすいおかげです」


エリアの頬がわずかに赤らんだ。おそらく、他人から自分の能力を認められた経験が少ないのだろう。


その時、研究室のドアが勢いよく開かれた。


「エリア!例の魔法陣の解析は終わったか?」


現れたのは30代前半の男性魔法師。宮廷魔法師団の副団長、ロドリック・ヴァインだった。


「ロドリック様、まだ解析中です。もう少しお時間を...」


「もう3日も経ってるんだぞ!君の能力を疑っているわけじゃないが、戦況は待ってくれない」


エリアの表情が強張った。ルシアンは彼女の心理状態の変化を敏感に感じ取った。


(プレッシャーによる認知能力の低下。完璧主義者ほど、期限や評価への恐怖で本来の力を発揮できなくなる)


「失礼ですが」ルシアンが口を挟んだ。「どのような魔法陣の解析でしょうか?」


「君は?」ロドリックが振り返る。


「ルシアン・グレイヴァルトと申します。魔法について勉強させていただいております」


「ああ、例の新参貴族か」ロドリックは面倒そうに説明した。「魔王軍が使用している新型の結界魔法陣の解析だ。従来の手法では解読できないらしい」


ルシアンはエリアを見た。彼女の肩は緊張で強張り、手は小刻みに震えている。


(極度のストレス状態。このままでは本来の能力の半分も発揮できない)


「エリア様」ルシアンは優しい声で語りかけた。「少し休憩されてはいかがですか?」


「休憩?そんな時間は...」


「時には立ち止まることも必要です。疲れた心では、見えるものも見えなくなります」


ロドリックが眉をひそめた。「君、何を言っている?戦争中に休憩とは...」


「失礼ですが、副団長殿」ルシアンは毅然とした態度で応答した。「人の心にも体と同じように『疲労』があります。エリア様は3日間、ほとんど休まずに作業を続けておられる。このような状態では、いくら優秀な魔法師でも最高のパフォーマンスは発揮できません」


「何だと?」


「心理的な負荷が認知能力に与える影響について、少しお話しさせてください」


ルシアンは冷静に説明を始めた。


「人は強いプレッシャーを受けると『トンネル視野』という現象が起きます。視野が狭くなり、柔軟な思考ができなくなる。エリア様のような完璧主義の方ほど、この影響を強く受けます」


「完璧主義?」エリアが驚いた顔をした。


「はい。あなたは自分の仕事に誇りを持ち、常に最高の結果を求める。それは素晴らしいことです。しかし時として、その思いが重圧となって本来の能力を阻害することがある」


ロドリックは困惑していたが、エリアは食い入るようにルシアンを見つめていた。


「では...どうすればいいのですか?」


「まず、深呼吸をしてください。そして、失敗を恐れる必要はないと自分に言い聞かせる」


エリアは言われた通りに深呼吸をした。少しずつ、肩の力が抜けていく。


「エリア様、あなたはすでに十分優秀です。今できることを、今のペースでやれば必ず答えは見つかります」


「...はい」


その時、エリアの目に光が戻った。


「あ...そうか!私、魔法陣を『既存の理論』の枠組みでしか見ていなかった。でも、もし魔王軍が全く新しいアプローチを使っているとしたら...」


エリアは机に向かうと、羽根ペンを走らせ始めた。今度の動きは迷いがない。


30分後。


「できました!」エリアの声が研究室に響いた。「魔王軍の魔法陣、解析完了です!」


ロドリックは目を丸くした。「本当か?3日間も解けなかったのに...」


「リラックスした状態では、脳の創造性が30%向上するという効果です」ルシアンが静かに説明した。「エリア様の能力が回復しただけのことです」


エリアは振り返ると、ルシアンに深々と頭を下げた。


「ありがとうございます...あなたがいなければ、私は...」


「いえ、あなた自身の力です。私は少しお手伝いしただけ」


その夜、エリアはルシアンの部屋を訪ねてきた。


「あの...昼間のことですが」


「はい」


「あなたは一体、何者なんですか?まるで人の心の中が見えているみたいでした」


ルシアンは微笑んだ。


「私は『人の心を理解すること』を学んできました。それだけです」


「心を理解する...」エリアは呟いた。「そんな学問があるのですか?」


「はい。人がなぜそのように考え、行動するのか。どうすれば人は本来の力を発揮できるのか。そういったことを研究する学問です」


エリアの目が輝いた。


「教えてもらえませんか?その学問を」


「もちろんです。ただし、それは魔法以上に難しい技術かもしれません」


「構いません。私...もっと人の役に立てるようになりたいんです」


ルシアンは頷いた。この世界で最初の弟子を得た瞬間だった。


(エリアのような優秀な人材が心理学を学べば、この世界に大きな変化をもたらせるかもしれない)


窓の外では、戦争の暗い影が王都を覆っていた。だが二人の間には、希望の光が宿り始めていた。



【ルシアンの心理学講座 #2】


今回使用した技術:『ストレス心理学』『認知能力とパフォーマンスの関係』


■ 完璧主義とパフォーマンスの関係 完璧主義者は高い目標を設定し、優れた成果を生み出す能力を持っています。しかし、過度のプレッシャーや時間制限があると「評価への恐怖」が認知能力を阻害し、本来の力を発揮できなくなります。


メカニズム:


不安 → 注意力の分散 → 作業記憶の容量低下 → パフォーマンス低下

■ トンネル視野現象 強いストレス下では、脳は「生存モード」に入り、視野が狭くなります。これにより創造的思考や柔軟な問題解決が困難になります。


ビジネス応用例: 重要なプレゼンテーション前に過度に緊張している部下がいたら:


深呼吸を促す

「失敗しても大丈夫」という安心感を与える

過去の成功体験を思い出させる

十分な準備時間を確保する

■ リラクゼーションと創造性 リラックスした状態では、脳のデフォルトモードネットワークが活性化し、創造的思考が促進されます。煮詰まった問題こそ、一度立ち止まることが解決への近道です。


日常応用例:


難しい問題に直面したときは、意図的に休憩を取る

散歩や軽い運動で気分転換を図る

十分な睡眠を確保する

注意点: 完璧主義者の自尊心を傷つけないよう、「あなたの能力は素晴らしい。ただ、今は疲れているだけ」という伝え方が重要です。能力を否定するのではなく、状況を改善することに焦点を当てましょう。

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