黒の世界
生暖かい空気が滞留している。
ジメジメとして生臭い。
どんよりとその身に纏わりつくような大気が、青年を包んで離さない。
鷹丸は鬼の口腔内で佇んでいた。
上下左右は滑りのある肉壁でできている。そこに強く鉄槍を突き立ててみるが、カーンと甲高い音が鳴るのみで、その音は響かない。
「大口からはそう離れていないはず。ただ、それが前か後ろか……」
自身の手すら見えないほどの暗黒がこの空間を支配していた。
鷹丸は大口に飲み込まれた衝撃で転がり回った。口腔内の無数の歯に身が擦れ、それによってできた小さな傷達は、微弱な痛みでそれぞれの居場所を示している。
鷹丸は取るに足らないその信号を思考の隅に置くと、足元にあった視線を上げて前に向けた。
青年は直視する。
自分自身が目を開けているのか、閉じているのか、それがどうでも良いとすら思えるほどの暗闇。
夜よりも深く、影よりも濃い、色という色を全て呑み込んだと感じるほどの黒。
それが眼前に広がっている。
「晴姫様は、いつもこんな景色を見ているのだろうか……?」
ポツリと心の内から言葉が漏れた。
寂しさすら感じないこの景色。
己の存在すらも次第に黒に呑み込まれそうで、己の心すらも黒に支配されそうな世界。
この世界に出口はある。
だが、彼女の黒の世界にはそれがない。
永遠に続く、終着のない闇。
逃げ場のない迷宮。
誰も彼女の世界には入れない。
誰も彼女と同じ世界を歩めない。
そんな、定められた孤独を想像するだけで立ち止まり、蹲りたい気持ちになる。
頭を抱え、その身を震わせ、目を背けたい。
ああ、こうやって精神すらも黒に侵されていくのだろう。
そんな思考の最中に、とある光景が鷹丸の頭をよぎる。
「これほど恐ろしい世界で生きる晴姫様に、私はあんな顔をさせたのか……?」
私の袖を掴み、胸を叩き、小さな額をこの身に預けた。その合間に見せる表情は一言では言い表せない。触れれば崩れてしまいそうなあの顔は、彼女の弱さだったのではと今では思う。
あの時、餓鬼は私にとっての黒なのだと晴姫様は訴えていた。だから、呑まれてはいけないと、光は必ずあるのだとあんなにも必死にこの身を制止していた。
胸に残る彼女の温もりにそっと、手を置いてみる。
「この身体には餓鬼が潜んでいる……」
数々の命を喰らい尽くした悪鬼がここにいる。
己の過ちでコイツは現れ、己の驕りでコイツは人々を蹂躙する。
私に鬼を倒せる力が眠っている?
私の煌はまだ囚われている?
「ふざけるな……!」
床がゆっくりと傾き始める。
次第に立っていられなくなり、その傾斜によって穴の奥へと滑り始める。
だが、青年はまだ自身の世界を彷徨っていた。
ふざけるな!
眠っていたんじゃない。
囚われていたんじゃない。
お前は怯えていたんだ。
黒の中で立ち止まり、蹲り、頭を抱え、その身を震わせて、目を背けていた。
黒は怖い。
お前を理解できる。
だけど、私は立ち上がりたい。
立ち向かいたい。
逃げたくない。
晴姫様のように!!!
出てこいよ……!!
彼女が信じてくれてるんだ……!!
彼女が待っているんだ……!!
いいから応えろ!!!
暗闇が逃げるように青年から離れていく。
鷹丸の目は眩み、一瞬だけ世界は白に変わる。
しかし、すぐに世界は元に戻ってしまうのだ。真っ暗な闇が迫ってくる。
にもかかわらず、黒が青年に纏わりつくことはない。
眩い光が鷹丸を守っていた。
鷹丸の左手から溢れる煌が握った鉄槍に伝わっていく。
黄金は烈火の如く猛々しい揺らめきによって、一本の槍を変化させていく。
一振りで岩をも穿つ鋭さと、一振りで周囲を傷つけてしまいそうな荒々しさ。
戦乱の世の豪傑が振う業物のような気配を帯びて、鉄槍は黄金の大槍となった。
鷹丸はその大槍を強く握りしめると、垂直にまで傾いた床が伸びる先を睨む。
青年は黄金とともに落ちていく。
深く深く潜っていく。
見えない底の存在を感じ、青年は大きく槍を突き立てた。
気がつけば青年は、深い穴の底で空を見上げていた。
上空に伸びる黒からの出口。
澄み切った青色は鷹丸が歩むべき世界だ。
ふと青年はその青空から目を逸らす。
彼の足元に転がる黒い石を手拭い越しに拾うと、そのまま包んで懐へ入れる。
鷹丸の心に安堵はない。
この鬼を弱らせたのは豊月で、青年はトドメを刺しただけに過ぎないのだ。
その事実を彼は曲げない。驕らない。
青年は穴をよじ登る。
だんだんと世界は明るくなり、青空が少しずつ近づいてくる。
出口にやっと辿り着き、彼の世界に足をつける。
「鷹丸様!!」
そこには晴姫が立っていた。
細い腕にいくつもの擦り傷。その着物には砂埃が付いている。
その様子と荒い息遣いが、彼女がどれだけ慌てていたのかを物語っていた。
鷹丸は晴姫の頭に右手を置いた。
彼女の髪についた砂埃を優しく払い落とす。
「晴姫様のおかげで煌を引き出せました。ありがとうございます」
彼女の顔はパッと明るくなると、その柔らかな頬を緩ませる。
「お役に立てて嬉しいです! 」
鷹丸は彼女の笑顔に影を落とす。
青年は依然として自分自身を信じない。自己嫌悪は変わらない。
それこそが自身が死に追いやった者達を背負うということだ。無数の骸を生み出したことへの責任だ。
そう青年は心に刻んでいる。
もう晴姫様には気づかせない。悟らせない。
彼女が笑っていられなくなってしまう。私にのしかかる骸達を一緒に背負うと言いかねない。
晴姫様の世界に、この黒はいらない。
彼女の心に、この汚れはいらない。
鷹丸はそう決意し、晴姫を連れて窪地を離れた。
鷹丸と晴姫は、豊月と女の子を連れて急いで町へ。
天狗の言った封じる鬼はあと一体。




