ナスベリとアイビー
「コラッ! 駄目よアイビー!」
「んー、んー、んうー!!」
商業都市オサカの一角にそびえ立つビーナスベリー工房本社ビル。その最上階社長室でナスベリは慌てて六歳児を抱き上げた。
「ぺっ! ぺっしなさい! そのお人形は食べられないの!」
「んーんー」
「んーんーじゃなくて、お口開いて。ぺっ!」
嫌がる娘を根気強く説得していると秘書のナナカが近付いて来てアイビーお気に入りのおやつを顔の前に近付ける。
「アイビー様、はい、あ~ん」
「あー」
手を伸ばし口を開くアイビー。途端にくわえていたぬいぐるみが床へ落ちた。ようやくほっとするナスベリ。
「ありがとうナナカ。手慣れてるわね……」
「まあ、あの妹達と弟の面倒を見ていましたから」
「なるほど……」
それに比べて自分はと自己嫌悪に陥る。あの戦いから八ヶ月、つまりアイビーが記憶を全て失ってしまってからずいぶん経つというのに、いまだ母親業が板につかない。
やっぱり社長との二足のわらじでは無理なのだろうか? 最近は、そう思い悩むこともある。
そんな彼女の苦悩を見抜き、ナナカは提案した。
「社長、やはり勤務中だけでもアイビー様を託児所へ預けられては?」
彼女だけでなく社員達も同じことを言っている。しかし、ナスベリが返す言葉もいつも同じ。
「でも心配じゃない。今のアイビーは赤ちゃんみたいなものだけれど、体は六歳児なのよ。他の子に仲間外れにされたりしないかと思うと……加減を知らないから相手を怪我させてしまう可能性だってあるし」
「お気持ちはわかりますが……」
言い淀むナナカ。何を言いたいのかはわかる。心配しすぎるあまり業務に支障を来していることはたしかだ。今のだって、あのぬいぐるみは飲み込めるような大きさではないのだから放っておいても良かった。冷静になった後でならそう思える。
ただ、やはり怖い。
(この子はただの子供じゃないもの……)
アイビーの実年齢は九百七十歳近い。本人が正確な年齢を公表していなかったのでそれより細かくはわからないが、とにかく千年近く生きて来た魔女だ。そしてその人生の大半を世界を守ることに費やしてきた。
記憶を失ったのも八ヶ月前の決戦で人類を守るために死力を尽くした結果。世の人々はそんな彼女を今もスズランに並ぶ大英雄と呼び、崇拝している。だから目に見える場所にいてもらわないと不安なのだ。彼女を英雄視する者達がいつどこで何をしでかすかわからない。あの戦いの直後ココノ村で起きた騒動のことを考えると、なおさらに。
母と父の関係も思い出す。
(感謝や好意が常に相手にとってプラスになるとは限らない……まして、アイビーに向けられるそれは大きすぎる)
アイビーを第二の母と慕っていたナスベリは、だからこそ立場が逆転した今、自分の手で彼女を保護していたい。
「……いや、だからこそか」
ふうと息を吐き、肩の力を抜くナスベリ。こんな時、以前のアイビーならどうしたかと考えて自らの過ちに気が付いた。
「アイビーのことが心配なのは私だけじゃないものね。社員の皆や聖域の人達にも頼れば良かったんだわ」
「ええ、とりあえずは私に。今日中に決裁していただきたい書類はまだ残っています」
「うん」
言われた通り、素直にナナカの手へアイビーを委ねる。
ところが──
「やあーっ!」
「あ、あら? アイビー様?」
「どうしたんだ!?」
突然暴れ出すアイビー。赤子ならともかく六歳児ともなればそれなりに力も強い。腕の中から脱したアイビーは、はいはいして社長室のドアまで辿り着くと何故かばんばん叩き始めた。
「うー、うーあん」
「お外に行きたいの? じゃあナナカ、悪いけど散歩に──」
連れて行ってあげてと言いかけた時、今度は通信機のベルが鳴った。ナナカが駆け寄り、代わりにナスベリがドアの前でアイビーを抱き上げる。
直後、ナナカの目が大きく見開かれた。
「えっ? わ、わかりました、お通しして」
「何? 誰か来た?」
来客の予定は無かったはず。訝るナスベリに答えるナナカ。
「スズラン様がいらっしゃいました」
「お久しぶりですナスベリさん。あの戦いの直後には大変助けて頂きましたのに、随分と無沙汰をいたしました、申し訳ございません」
社長室のソファに座ったスズランは深々と頭を下げる。対面にアイビーを抱いたまま腰かけたナスベリは苦笑を返す。
「いや、こっちこそ、あれ以来ちっとも村に顔を出せなくてごめん」
「本社の社長さんになられたんですから仕方ありませんよ。お母さん達は元気にしてるか心配していましたけど」
「手紙は出してたのに、相変わらずだなカタバミは」
「お母さんですもの」
ふふっと笑うスズラン。その手の中にも小さな生き物が抱かれている。
「さっきから気になってたんだけど、その犬は?」
「タキア犬ですね」
一目で品種を当てるナナカ。犬好きなのだろうか?
彼女が出してくれたお茶に手を伸ばしつつ、スズランはこれまで隠していた一つの事実を打ち明ける。
「テムガミルズに頼まれたんです」
「えっ?」
「四方の神の、あの方に?」
──テムガミルズ。遥か昔、主神マリアからこの世界の防衛を託された盾の神。そして長年アイビーと融合していたパートナーでもあり、分離した今も彼女の幸せを願い見守り続けている。
「再創世を行った時、四方の神々にはこれまでこの世界を守って来たことに対する感謝の気持ちとしてなんでも一つだけ望みを叶えると言いました。それに対するテムガミルズの答えが、この子」
手の中の子犬を撫でるスズラン。どういうことかと眉をひそめた二人に、さらに説明を続ける。
「この子は彼の新しい神子です」
「はあ!?」
「み、神子? 犬のですか?」
「彼から聞いた話によると、以前のアイビー社長はウェルやペルシアのような動物を飼いたがっていたそうですね」
「あ、ああー……」
「そういえば、時々仰ってましたね」
在りし日のアイビーを思い出す二人。たしかに時折、犬や狼を飼ってみたいとぼやいていた。忙しくてとても世話ができないからと実行はしなかったが。
なるほど、普通の子に戻った今なら飼える。
「彼は、その願いを叶えて欲しいと申し出ました。それに、この子を神子にしてしまえば彼もまた社長を、いえ、アイビーちゃんを近くで見守れるでしょう?」
「なるほど……」
「しかし、犬を神子になんてよく思いついたなあ」
「前から考えていたんでしょう。彼はああ見えて気遣いのできる性格です」
テムガミルズはいつも上半身裸で筋骨隆々。荒々しい風貌の大男だ。外見だけなら暴れん坊にしか見えない。
ところが、実は四方の神々の中で一番穏やかな性格をしている。
「正確に言うと、私は最適な子の選別を頼まれていたのです。半年かけてようやくベストだと思える子に巡り合えたので連れて来ました。すでにテムガミルズの加護を受けているので、この子は普通の犬よりずっと強靭で長命。永くアイビーちゃんを守ってくれるはずです。それに私からも一つ加護を授けておきました」
「この子はウィンゲイト様の神子でもあると?」
「そこまで大袈裟なものではないのですが。そうですね、確認のためにもナナカさん、抱いてみてください」
「はい」
言われるまま子犬を受け取るナナカ。最初はただ可愛いなくらいにしか思わなかったが、やがてハッとする。
「これは……この子の考えが伝わって来ている?」
「直接触れることで発動します。元々動物はそのような力を持っているものですが、私の能力で強化しておきました」
「少し怖がられています」
「初対面ですもの」
仕方ないと笑うスズラン。けれど、とも付け足す。
「おそらく、アイビーちゃんなら別です」
「あっ」
その言葉に応えるようにナナカの腕から飛び出し、ナスベリの腕の中のアイビーへすり寄って行く子犬。
すると、アイビーも両手を広げて迎え入れた。
「てーむ、てーむ」
「あら、もう名前を付けたの?」
そういえばと三人とも思い出す。決戦直後、記憶を失ってなおアイビーはテムガミルズとの別れを惜しんでいた。記憶は全て失われたわけではなく、彼との思い出はほんの少し残っているのだ。
「テムか……そうだね、この子にはぴったりの名前だ」
「ええ」
ナスベリとナナカは穏やかに微笑み、アイビーと子犬の頭をそれぞれに撫でてやった。




