賢者の惑い
「ふう……」
文机の前に正座し、ため息をつく女。緩く波打つ蜂蜜色の長い髪。女性にしては長身で、さらに胸が驚くほど豊かだ。そのため特別に仕立ててもらった服でないと窮屈で仕方ない。
白く陶磁のように滑らかな肌と整った容姿は二十代半ばのそれ。しかし戸籍上の年齢は昨年で六十を超えた。そして肉体年齢という意味では、実を言うとこの村で二番目に幼い。
そんな複雑な境遇に身を置く彼女の名はロウバイ。南の大国イマリの大賢者。三年前に移住して来たココノ村では教師をしている。東北の古い家屋にはニホン式と呼ばれる建築様式の建物が多く、村の人々の厚意で譲り受けたこの家も畳敷き。椅子などは使わず床に直接座るか座布団を敷いてその上へ腰を下ろす。
ロウバイはこちらへ来て以来、好んで正座を用いている。自分の故郷には無かった文化なのではじめの頃こそ戸惑ったが、これはこれで背筋がぴんと伸ばされ心地良い。長時間に及ぶと足が痺れたり膝が痛くなったりするのが玉に瑕ではあるものの、彼女は治癒魔法を得手としており容易に対処できる。
さて、いきなりため息をついたのは先日ノコンに打ち明けたのと同じ悩み。つまりスズランについて考えていたのだ。
正確には彼女の中のマリア・ウィンゲイトに対し、思うところがある。
(ウィンゲイト様が……お茶目……)
長年抱いてきた主神に対する荘厳なイメージが、最近のあれやこれやでガラガラと音を立てて崩れつつある。
もちろん崇敬の念は失っていない。むしろ想像以上に素晴らしい方だったとさえ思っている。ただ敬虔な三柱教徒の彼女からすると、なんというか、そう……親しみやすすぎる。いと尊き御方というより、家族と共にあるかのような安らぎを覚えてしまうのだ。
彼女がスズランでもあるという事実は理解しており、出来る限り以前と変わらない態度で接するよう心掛けてはいるものの、やはり心の片隅では女神ウィンゲイトに対し、このように気安く接していいのかという疑問を抱いてしまう。
(いけませんね、これではスイレンのことを言えない)
彼女の愛弟子は頭の固さが数少ない欠点。そこがなかなか改善されず、今でもよく指摘している。だが、どうやら自分自身も信仰が絡むと柔軟性を失ってしまうらしい。
(ウィンゲイト様……いえ、スズランさんは以前のような生活を望んでおられます。信徒として、わたくしはできうる限りそのお手伝いをしなくては。お近くにいて学べることも多いですし)
つい最近までスズランとは師弟関係にあった。が、先日こちらから申し出て解消させてもらった。ウィンゲイトの記憶がある以上、今さらこちらから教えられることなど無いと思ったからだ。決戦の後のあの一言が師として贈ることができた最後の教え。
実を言うと、これも悩みの種である。師弟でなくなったことによりどのように接したらいいものか決めかねている。学校では助手として手伝ってもらっているため、そのように振る舞える。道端や食堂などで会えば同じ村の住人として挨拶する。が、いざ二人きりになったりすると若干気まずい空気が漂ってしまう。
(早まりましたかね……)
形だけでも師弟関係を続けるべきだったかもと今さらになって思う。いや、だがそれは神に対し不誠実ではないだろうか? かといってクルクマやオトギリのように対等な友人になることは自分には難しい。
(スイレンは、その点では私よりずっと優秀ですね。あの子は相変わらずスズランさんと友人として付き合えている)
思わぬところで弟子に感心することとなった。
(そういえば)
愛弟子の顔を思い出したことで、彼女は別の懸案に悩み始める。
(ミツマタ様は、どうやら本気でスイレンを求めておられる様子……これもまたどうしたものか)
カゴシマ王のミツマタ。戦争を三度の食事より好む戦争狂が、昨年彼女の愛弟子に求婚して来た。
最初は新たな戦を始めるための口実かとも思ったのだが、直に会って話してみたところ、どうもそうではないらしい。
『あやつは強か! なんとしてもおいの嫁にしたい! 頼むロウバイさん、あんたからも説得してくれ! 後生じゃ、一生に一度の頼みじゃ!』
崩壊の呪いとの決戦時、自分とスイレンはミツマタらカゴシマ兵や魔道士らと共に奇妙な空間に飲み込まれ、しばらく苦楽を共にした。
どうも、その時から彼は心を決めていたらしい。結婚するならばスイレンしかいないと。親子に近い年齢差があるのに。
(いえ、歳の差などは些細な問題ですが)
誰にともなく咳払いする。互いに成人ならそこは気にしなくていいだろう。そこを問題視してしまうと自分などは……。
最大の問題はミツマタが惚れ込んだのはスイレンの人柄でも容姿でもなく武力だという点。彼女の才を自らの子に受け継がせたいらしい。
(たしかに、よくある話ではあります)
才媛、特に魔力持ちには縁談が多く持ち込まれる。自分が若かった頃も父が高貴な方々との繋がりを欲していたため何度か見合いをさせられた。先代のイマリ王が相手だった時には流石に覚悟を決めたものである。幸いにも王が聡明で優しい方だったおかげで望まぬ結婚は免れたが。
スイレンにも、いつかはこういうことがあると思っていた。しかしこの縁談をまとめるのは難しい。
(あの子は夢見がちなところがありますからね……)
小さな頃から面倒を見ていたため良く知っている。愛弟子はかなり大きくなるまでいわゆる“白馬の王子様”に憧れていた。ロマンチックな恋愛がしたいタイプなのだ。そんなスイレンに「お前が強いから嫁にしたい」などと言ったところで心動かせるはずも無い。
「ミツマタ様も、あの戦好きさえ無ければ悪くないとは思うのですが……」
平時の彼はただの面倒見の良い男だ。敵も味方も公平に見るし誰かを恨んだりもしない。さっぱりとした性格の好漢だと評してもいい。だが、やはりどうしても戦狂いがネックになる。
説得してくれとは頼まれたものの、もちろん引き受けはしなかった。かといってあまり無碍にし続けては彼のこと、スイレン目当てにイマリまで攻め込んでしまうかもしれない。故郷イマリは周辺の国々と同盟を組んでおり、単純な兵力でならカゴシマを圧倒している。いくらミツマタらが強兵だとしても負けることはないだろう。
だが勝ち目の薄い戦ほどあの戦狂いは喜んでしまうし、いざ開戦したとなれば別の懸案も生ずる。
(マリア様がどういう反応をなさるか……)
今この世界には神がいる。しかも平和に暮らすことを望まれる神が。ミツマタの行動は彼女の逆鱗に触れかねない。
「幸いなのは力の差がありすぎることですね」
カゴシマもイマリも大陸七大国に数えられる雄。とはいえ本気を出したスズランを相手取ったら文字通り赤子の手をひねるがごとく制圧されるだろう。彼女の性格上、なるべく穏便に済まそうとするはず。だからこれといった被害も出まい。
熟考したロウバイは、ひとまず手紙をしたためることにした。
【──このような事情から、スイレンにも今しばし考える時間をくださるようお願い申し上げます。急いては事を仕損じる。ミツマタ様におかれましても、この戦において必勝を期すべく焦りは禁物。男性側の度量の大きさを見せることも、また肝要と存じます】
「……まあ、こんなところでしょう」
筆を机に置く。ミツマタは馬鹿ではない。この縁談を戦に喩え、勝機があると伝えれば助言は受け入れてくれるはず。これでおそらく半年程度なら時を稼げるだろう。その間にまた別の策を講じておかなければ。馬鹿ではないので、これが単なる時間稼ぎだともすぐ見抜いてしまうに違いない。
これは駆け引きという遊戯を持ちかけているのだ。別の形式での戦と言い換えても良い。戦ならば彼は必ず乗って来る。スイレンを娶りたいと考える以上、彼女の師である自分を負かしてからと思ってくれたら上々だ。
「あら、もう夕暮れですか」
のんびりとした村でも、何かに集中していると時の流れは早くなるもの。障子戸の外が赤く染まり始めたことに気が付き、ロウバイは立ち上がる。
「今日のお夕飯は何にしましょう……」
と、台所に立ったまでは良かったのだが食材が無い。米と調味料程度だ。後は村の老人達に習って漬けた漬物。最近忙しかったため、すっかり補充に行くのを忘れていた。
漬物をおかずに米を食べることも可能ではあるが、流石の彼女も夕飯にそれは侘しいと感じる。これは仕方が無い。
「今日はもう遅いので、お買い物は明日するとして……今日は久しぶりにサザンカさんに頼りましょう」
いつでも行ける場所に名料理人がいる。ありがたいことだと改めて思った。




