スズランの大失敗
遠い昔、どこからか生じた灰色の炎が全てを飲み込もうとしていた時代があった。滅火と名付けられたそれに触れたものは過去現在未来の全てから抹消され記憶からも消え去る。すると歴史に矛盾が生じ、そのひび割れからさらに滅火が侵入してくる。
止める術が無い絶望的で圧倒的な脅威。
けれど、とある世界の一人の男が奇跡を起こした。
彼の世界では異世界を観測する技術が発達していた。それらと通信することさえ可能になっていたし異世界間航行も実用間近だった。
遠く離れた世界が滅火に飲まれ、その悲劇を観測した彼等はようやく灰色の炎の存在に気付き、対策を立て始めた。
誰も滅火を止められなかったのは、触れたものの記憶が失われることで、そもそもそれを認識することができなかったから。しかし彼等は存在を知った。計算の結果、自分達の世界に脅威が到達するまで一万二千年の猶予があることもわかった。
そして彼が現れる。
夏流 賢介が。
我々が知る限り、彼だけが唯一その奇跡を成し遂げた人物である。彼は滅火に対し高い抵抗力を持つ新たな宇宙を創り出した。滅火の力に制限をかける数式を見つけ出し、その数式を完全に記憶している自身の脳を避難先に設定して異世界間転移装置を使用。家族を無事安全圏へ退避させた。
本当ならもっと時間をかけて進める予定の計画だった。そもそも彼が提唱した理論とは仮説でしかなく、実証はこれからの段階。ところが彼らの世界は予想より遥かに早く到来した滅火により、瞬く間に消滅の危機に陥った。
選択の余地は無く、唯一可能性のある方法に賭けたことで実際に彼は家族を全員救ってみせた。
今もなお他の全てが消し去られてしまった灰色の炎の海で、彼の脳だけはそこに浮かび続けている。
そして彼の脳内では新宇宙の最初の住人となった妻や子が“神”となり、歴史の続きを紡いでいるのだ。
決戦翌日のココノ村、それは早くも始まった。大きな戦いを終え、疲れ果てたスズラン達がぐっすり眠ってから珍しく日の高くなった時間に起き出して来ると、すでに村の周囲を取り囲まれていたのだ。
「スズラン様!」
「ウィンゲイト様!」
「我らが母よ!」
「ちょっ、まっ……!?」
マリア・ウィンゲイトを主神とする三柱教。その信徒達が中央大陸東北部ヤマガタとの国境沿いに位置する、このココノ村という小さな農村に大挙して押し寄せて来た。昨日の今日での話である。
流石に勝手に村内まで立ち入ることは許されないと思っているのか、一応は南北の入口で全員が立ち止まっていた。とはいえ、あの様子ではいつ雪崩れ込んできてもおかしくはない。
「しまったあ!?」
失策に気付くスズラン。決戦の最中、自分の正体はマリア・ウィンゲイトの転生体だと明かしてしまったことだ。絶望的な状況で味方を鼓舞するための選択だったが、よくよく考えたらこうなってしまうのは自明の理。
「シ、シブヤに戻っておけば良かった……」
そもそもウィンゲイトの血を引く神子と認定され、その事実を公表した時から三柱教の総本山シブヤに身を寄せていたのもそういう理由からだった。なのにすっかり忘れて村に直接帰って来てしまうとは。ワンクッション置いて、今後は普通に生活したいので放っておいてくださいときちんと説明してから戻るべきだったのだ。
彼女が頭を抱えている間にも、村を包囲した人々の声はさらに大きくなっていく。
「ウィンゲイト様! どうか、どうか我等にお顔を! ご尊顔を!」
「隣のソコノ村から参りました! 我々を生き返らせてくださった上、二年前死んだ息子夫婦まで救っていただき誠にありがとうございます!」
「スズラン様あ! せめて一言、直接感謝を述べる機会を!」
「救世主スズラン様! マリア・ウィンゲイトの生まれ変わりの御姿を今一度我等の目にお映し下さい!」
「ど、どうしようスズ……」
「大変なことになってしまった……」
両親も赤ちゃんのショウブをだっこしたまま抱き合って震えている。二人とも、やはり疲れていたので昨夜は頭が回らなかった。あの大賢者ロウバイ先生でさえ気付かなかったミスなのだし仕方あるまい。
とはいえミスはミス。放置しておくわけにもいかないし、どうにか対応しないと。スズランは意を決して一歩踏み出す。
「私が説明してくるよ……」
こうなってしまった以上、彼等の目当てである自分が出て行って説得するしかあるまい。
しかし、そんな彼女を両親が引き留めようとした時、窓ガラスが震えて“声”を発した。
『お待ちなさいスズランさん!』
「ロウバイ先生?」
二年ほど前に南の大国イマリから移住してきた“聖実の魔女”ロウバイの声だ。村では教師をしており、同時にスズランの師の一人として魔女ならではの教えも授けている。
「この声……もしかして繰糸魔法で?」
窓に一本、糸がくっついている。魔力を編んで糸を作り自在に操るロウバイ独自の技法。スズランも一応使えるのだが、こんな糸電話みたいな使用法まであるとは知らなかった。
『クルクマさんが品種改良したコオロギを操って喋っていたでしょう。あれを参考にしてみました』
「あ、なるほど」
クルクマとはスズランの二十年来の親友で、世間では──彼女のこととは明かしてないが──“災呈の魔女”の二つ名で知られている。虫や小動物を操る魔法の使い手で、その実力はロウバイにも匹敵する。
ちなみに世の人々はロウバイを始めとする三人の魔女を“善の三大魔女”と称しており、クルクマは逆に“悪の三大魔女”の一角に数えられている。
そしてスズランも、かつてヒメツルとして暴れていた時には“最悪の魔女”の二つ名で悪の三大魔女に名を連ねていた。実はまだこの首には莫大な額の懸賞金がかけられたままである。
マリアの転生体だと明かした時、ついでに最悪の魔女ヒメツルでもあると告白したので、早晩指名手配と懸賞金は取り下げられるだろう。なにせどちらも三柱教がやってたことだ。自分達の信仰する神を賞金首にしたまま放っておいたりはすまい。
ともかく、ロウバイは外へ出ようとするスズランに待ったをかけた。
『落ち着きなさい。この状況であなたが出て行っても火に油を注ぐだけです。まずは私が話して彼等を落ち着かせます。できれば一旦帰っていただき後日改めて拝謁の機会を設けましょう』
「拝謁って……」
自分はそんな大層なものじゃない。スズランはそう言いかけたがロウバイはピシャリと叱りつける。
『二年も神子をしていたのに、まだ自覚が足りないようですね。あなたは人々の信仰対象。尊大になれとは申しませんが、皆が求める理想に少しでも近づけるよう意識はすべきです。アイビー様のように』
「うっ……」
その名を出されると弱い。森妃の魔女アイビー。九百と七十年ほど前、五歳にして最初の神子となり、幼い体のまま人類の盾となって世界を守り続けた偉大な人。スズランの師の一人。
彼女のようにありたい。そういう憧れは、たしかに心の中にある。
だが、しかし──
「私は私です。アイビー社長とは違う。彼等は私に会いに来ました。なのに先生に任せて隠れているわけには……」
『わかっています。何もアイビー様を模倣しろとは言っていません。あなたは自分らしく、それでも気高くあれと言っているのです。ここで無用の混乱を引き起こすことがあなたの正義なのですか?』
「……」
いや、それは違う。スズランは長く息を吐き、たしかにと呟く。
「マリアの生まれ変わり、そんな肩書きにいつの間にか引っ張られていました。仰る通り、ここは大人しく待ちます」