Monster 5
鼻に抜けるローズの香りに、思わずうっとりと目をつぶる。ああ、やっぱり朝摘みのものを使って正解だった。まろやかな紅茶の味と高貴な香りが見事にマッチする。
目を開けると、じっとルートヴィッヒ殿下に見つめられていて、ドキリとしてカップをとり落としそうになった。
「…な、何ですか?」
慌ててカップをソーサーに戻す。
「いや、美味そうに飲むなぁと思って」
殿下がクスリと笑うのが、何だかちょっと小馬鹿にされている気がする。
「そりゃ、美味しいですから。こんな高級なお茶、家では飲めなかったので」
開き直って答えると、殿下はさらに笑った。それから、ローズティーを一口飲んで、「美味いな」と呟いた。
「ありがとう、リーゼ」
何のお礼を言われているのか、よくわからなかった。ローズティーのことなのか、それともお菓子のことなのか。はたまた別の意味があるのか…。
「いえ…どういたしまして」
何と答えていいのかわからずに、とりあえず答えてうつむいた。反則だ。今まで、感謝の言葉なんて口にしなかったくせに。ロゲールにあんな話をされた後にばかりこんなことを言うなんて。顔が赤くなるに決まってるじゃないの。
「リーゼ」
「はい」
顔を上げると、殿下が優しく微笑んでいた。
「北の塔に行ったことはあるか?」
「いいえ」
質問の意図がわからずに首を傾げる。
「今夜、行ってみるか?」
「えっ?」
優しい顔をして、この人は何を言い出すのだろう。北の塔といえば、首なし騎士の幽霊が出るという、いわくつきの場所ではないか。
「噂の真相、確かめてみたいだろ? どうする?」
ニヤリと殿下は笑う。そんな風に挑発されたら、私が引き下がるわけがないと見透かされているようでムカつくが、受けて立つしか選択肢はない。
「行きますよ! もちろんですとも!」
意地になって答えた。いつかは行ってみたいと思っていた場所だ。その「いつか」が今日になっただけのこと。城の主と一緒なら、一人で行くよりは幾分かマシだろう。
ルートヴィッヒ殿下が指定した時間は、真夜中。月が天頂に昇る時刻だ。
なぜそんな夜中にとも思ったが、暗くなれば怖いのは一緒だ。その時間のほうが首なし騎士の幽霊が出やすいとか、理由があるのだろうか。けれど、訊いても殿下は教えてくれなかった。
私が部屋を出ると、ちょうど殿下も廊下に出たところで、二人で連れ立って北の塔に向かった。灯りは殿下が持つカンテラのみ。廊下には等間隔に松明が配されているが、真夜中のこんな時間にはすべて消えている。カツンカツンと、静かな廊下に響く自分たちの足音さえ怖い。
北の塔に着くと、窓の少ない階段はさらに暗くて、怖さは倍増だ。あんな挑発に乗ってひょこひょこ付いて来た自分を呪う。
怖くて泣きそうになっているのに気付いたのだろうか。殿下が手を握ってくれた。放されないようにぎゅうと握り返して殿下に続く。
バサバサッと頭上で音がして、思わず「ひっ」と殿下の腕を掴んで立ち止まる。
「大丈夫、ただの蝙蝠だ」
ただのって…蝙蝠だけで十分に怖いんですけど。こんな場所でも殿下は動じる様子はなく、足取りも確かだった。私は怖くて、殿下の腕に抱きつくようにして、ほとんど目をつぶった状態で階段を昇って行った。
「リーゼ、目を開けてごらん」
殿下が足を止めて促した。頂上に着いたのだろうか。恐る恐る目を開けると、青い光に包まれていた。
階段を昇って来て息が切れていたのも忘れて、息を呑む。
「……綺麗」
暗い塔の中に射し込む青く優しい光。月の光が、塔の天井部分と壁面に張り巡らされた青いステンドグラスを通して、幻想的な灯りを作り出していた。
「すごい…」
天井を見上げて、降ってくる青い光にため息をこぼす。月が天頂に昇る時間が、きっと一番美しいのだろう。だから、殿下は真夜中を選んだのだ。
「北の塔に首なし騎士の幽霊が出るなんて、まったくのデマ。この塔に人を寄せ付けないために、かつての城主が意図的に流した噂だと言われている」
殿下の説明に、さっきまであんなに首なし騎士の幽霊を怖がっていたことを思い出す。
「…騙したんですか?」
私が怖がるのを見て、楽しんでいたに違いない。なんて性格の悪い。
「俺は北の塔に首なし騎士の幽霊が出るなんて、一言も言っていない」
うぅ、と恨みがましい目で睨むと、ふと、殿下が表情を和らげた。
「でも、騙したのは確かだな」
「え?」
次の瞬間、繋がれたままだった手を引かれて、私の体は殿下に捕らわれていた。
え? え?? ええ!?
何度瞬きしても、見えるのは殿下の肩と、それ越しに見える青い世界だけ。
「ここへ来ることの意味を、教えずに連れて来た」
背中に回された腕に動きを封じられて、私は呆然と殿下に抱きすくめられていた。
「ここは、城主の『特別な人』だけに許された場所だ」
腕が緩められ、殿下が少し体を離した。
「この意味が、わかるな?」
心臓が、ドクリと跳ねる。青と金の光が、私を射抜く。青い光の中で、その金色は稲妻のように私の心と体を痺れさせていた。
…怖い。捕らわれる。
殿下を見上げたまま、私は身動きが取れない。まるで、呪いにかかったみたいに、体の何処も動かない。声も出せない。
この瞳は、まるでモンスターだ。見つめるだけで私をじわりじわりと追いつめて、何処にも逃げ場を用意していない。
目を、逸らさなければ。囚われて、しまう。
「リーゼ」
「…はい」
するりと殿下の指が私の手を絡め取る。
「頼む、何か言ってくれ」
照れているらしく、心なしか殿下の顔が赤い。けれど、たぶん、私の顔はもっと真っ赤に染まっているだろう。
「……嬉しい…です」
それ以外の言葉が、思いつかなかった。
「また、連れて来ていただけますか、殿下」
「ルーイ」
え?と様子を伺うと、もう一度ゆっくり「ルーイ」と言われた。そう呼べという意味だろうか。
「ルーイ様」
そう呼びかければ、殿下は優しい笑みを見せた。
「お前が望むなら、何度でも連れてこよう」
私の手を捕まえていないほうの手が、私の頬に触れる。顔を固定され、視線も絡め取られ、私には逃げ場がない。
「リーゼ」
そっと、親指が頬を撫で、唇に触れた。それから、そのまま奪われる。
───満月の夜。私はモンスターの瞳に囚われた。




