王太子の安堵
その娘は、真っ直ぐで、芯が強くて。同時に、それが危うさでもあるように思えた。
それはきっと、彼も同じように感じ、しかし、彼はそこにこそ惹かれたのだろう。
彼女がその真っ直ぐさで、長年疎遠になっていた母と弟を和解に向けさせるという驚くべきことをやってのけた数日後。弟は満面の笑みを浮かべて私の前に座っていた。弟のこれほどの笑顔を、長いこと見たことがない。幼い頃以来か。秀麗な顔立ちは、笑みを浮かべれば光を放つほどまばゆく、同時にそれは幼い頃のいたずらを思いついた時の弟を思い出させた。
「では兄上、そういうことで、お早めにお願いいたします」
言葉は丁寧だが、それは弟が兄に甘える時の図々しさを伴っているものだった。私の返事も聞かずにルートヴィッヒは席を立ち、部屋を後にした。
私は溜息をつき、弟が出て行った扉を眺める。
「……まったく、久しぶりに弟らしく我儘を言ったかと思ったら、内容があれか……」
思わず本音が口から零れる。弟が成長するにつれ距離を置くようになってしまったことと、彼がグラウ城へ移ってからは私も干渉しすぎないようにしていたこともあり、弟が私に弟らしい可愛い我儘を言うことはなくなっていた。今回、久しぶりに我儘を口にした弟は、兄としては可愛かったが、内容は可愛くなかった。
「早いところ妃を決めて、リーゼを王太子の妃候補などという堅苦しい立場から解放してください」
というのが弟の我儘だった。リーゼロッテを妃候補に入れた私の意図を、ルートヴィッヒはリーゼロッテから聞いて知っていると言っていた。だが、それでも自分の愛しい娘が兄の妃候補というのは気にくわないらしい。
「それに関しては、わたくしもルートヴィッヒ殿下に同意いたします」
いつも従順で信頼のおける侍従のギュンターが、すました顔で弟に加勢した。
「……虫が付かないように私の妃候補に入れておいてくれと頼んだのは誰だったかな?」
「わたくしです」
しれっと答えるあたりが、この侍従のイイ性格を表している。
「ですが、殿下が妃を決めてくださらないと、求婚できないではありませんか」
今回の事件解決に貢献した褒美として、ギュンターは親戚筋にあたる侯爵家に養子入りすることが決まっている。跡継ぎがいなかった家への養子だから、実質、次期侯爵の地位は約束されている。その地位があれば、愛しの侯爵令嬢ヴェロニカ嬢に求婚できるというわけだ。
……まったく、どいつもこいつも、人の苦労も知らないで、勝手なことばかり言って。
その日の夜、隣国ブラシェールのエクレール公爵、セドリック・デクレール公が居室を訪れた。明日の出立の前に挨拶に来てくれたのだ。
本来、既に帰国しているはずの彼を引き留めてしまったことを詫び、そして事件に巻き込まれながらも、余計な手出しはせずに静かに見守ってくれたことに感謝を述べた。
「いえ、お気になさらずに。大変でしたね」
エクレール公は穏やかに微笑み、労ってさえくれた。隣国の優美な青年貴族は、その穏やかな微笑の裏に、腹に一物持っていそうな気配はあるが、ルートヴィッヒが頼りにするくらいだから、根本的には善い人なのだろう。
何となく、私の気苦労をわかってくれるのは、この隣国の青年公爵しかいないような気がして、勝手にシンパシーを感じてしまう。
「それと、リーゼロッテの件ですが、申し訳ありませんでした」
エクレール公を晩酌に誘い、彼が一杯目を飲み干したところで切り出した。いくらやむを得ない事情があったとはいえ、彼がリーゼロッテを妻にしたいという意向を知りつつ、それを無視して自分の妃候補に載せたのだ。この青年公爵が抗議の声をあげないのが不思議なくらいだ。
「ああ、そのことですか」
何でもないことのように言って、彼は二杯目のワインに口を付けた。
「舞踏会の時には既に知っていましたから、驚きませんでしたよ」
「え?」
目をしばたたくと、エクレール公の視線が私の背後に移った。
「事前にあなたの優秀な侍従が事情を説明してくれました。リーゼを守るためですから、仕方ありません」
それでエクレール公は怒らなかったのかと納得し、何も言わなくてもそこまで配慮してくれていたギュンターに頭が下がる。
「それで、エクレール公は、今でもリーゼロッテを妻に望んでいるのですか?」
気にかかっていたことを問えば、彼は静かに首を左右に振った。そっと安堵の息を漏らす。ルートヴィッヒがリーゼロッテを手放すことはないだろう。そして、彼女の意思も固いはずだ。
「リーゼには断られましたし、私の結婚相手はじきに決まるでしょう」
その物言いは、既にその相手が決定しているかのようだ。もしやと思って訊いてみる。
「それは、アニエス王女とのご婚約のことですか?」
「そういうことになりますね」
苦笑してエクレール公は認めた。
「ルートヴィッヒ殿下にはしてやられましたよ」
諦めた様子ではあるが、嫌がっているわけではなさそうな口調でエクレール公は続ける。
「私の知らないところでブラシェール国王に手を回して、アニエス王女との婚約話を勧めていたなんて」
彼がその話を知ったのは、今日なのだという。しかもそれを知らせたのは、ルートヴィッヒ本人だというのだ。その時のことを思い出したのかエクレール公は苦笑した。
今回の件に協力する代わりに、ルートヴィッヒ殿下とリーゼがブラシェールに来るという約束だったんです。今日、その話をルートヴィッヒ殿下にしたら、「ご婚約のお祝いに二人で伺います」と言われて。私はルートヴィッヒ殿下をアニエス王女の婿に、そしてリーゼロッテを私の妻にと望んでいましたから、ルートヴィッヒ殿下の物言いは少々変だなと思ったんです。それで、「誰の婚約ですって?」と問えば、「あなたとアニエス王女とのですよ」と。驚く私に、ルートヴィッヒ殿下は平然と言うんです。「確かにブラシェールに行くとは言いましたが、婚姻しに行くとは、一言も言っていませんよ」と。
自分とアニエス王女との婚約話などに覚えのないエクレール公がルートヴィッヒに問い質せば、ルートヴィッヒが裏で手を回していたことを白状したという。ナハトシュタインはエクレール公爵と友好を結び、その絆の証しとして、彼を全面的にバックアップすると表明した。エクレール公爵は国王の甥で血筋は確かだし、従妹にあたる王女とは幼い頃からの付き合いで、我儘な王女も彼の言うことだけは聞く。もともと有力な王女の婿候補であったうえに、隣国ナハトシュタインの後ろ盾を持ったとなれば、彼が最有力候補に間違いない。しかも、ナハトシュタインはエクレール公爵に恩義があるから、国政に口を出すようなことは一切しない。その好条件ではブラシェール国王も乗り気だ。
「あなたも一枚噛んでいましたね」
そう問われて、私は苦笑を返すという消極的な方法でそれを認めた。ルートヴィッヒに頼まれて、父王に話を通し、ブラシェール国王に書簡を送ったのは私だ。
「それで、エーリッヒ殿下はどうなさるおつもりですか?」
え?と目で問えば、「妃候補ですよ」と言われる。
四人いる妃候補のうち、二人はダミーなので、実質は二名だ。ダミー二人を解放するためにも早く選ばねばならない。国のことを考えれば、カファロ公国の姫が有力だろうか。
「……面倒なことですね」
正直な感想を口にする。それを聞き咎めることもなく、まったくですね、とエクレール公爵は返してくれた。
「しかし、我々の弟が幸せになるなら、よいではありませんか」
意外な言葉を掛けられて、私は一瞬瞠目したが、表情には出さずに微笑み返した。
「そうですね。これも、すべてリーゼロッテのお陰ですね」
そして、当のリーゼロッテは、ブラシェールに発つエクレール公爵を見送ると、自分も王宮を去るからと挨拶に来た。
「グラウ城へ戻ることをお許しいただき、ありがとうございます」
妃候補の件は、まだ妃が決まらないため、すぐに解除することはできないが、当面リーゼロッテをグラウ城に戻すことは許可をした。ルートヴィッヒは事件後の処理のためにもうしばらく王宮にいることになるから、リーゼロッテだけが先に戻ることになる。
「ルートヴィッヒがいない間、グラウ城を頼む」
「はい」
「知らぬ人に容易に門を開けてはいけないよ。誰か尋ねてきても、迂闊に城には入れないように。美味しいお菓子や紅茶をくれてもだ」
「わかっております、エーリッヒ殿下」
幼子に言って聞かせるように諭す私にリーゼロッテは辟易したように答える。グラウ城に戻る許可を出した時にも、同じように注意したのだ。
「いや、君の警戒心は、少々あてにならない」
「…申し訳ありません」
詫びたということは、思い当たる節があったのだろう。こういう素直なところは、リーゼロッテの美点だと思う。
「私は咎めているのではないよ。ただ、気を付けるようにと言いたいだけだ」
「はい、肝に銘じます」
素直に頷いて、リーゼロッテは微笑んだ。
「ロゲールにもよろしく言ってくれ」
「はい」
退室の許可を出すと、リーゼロッテは一礼してドアへ向かった。ドアの手前で立ち止まったリーゼロッテが、再びこちらを向くタイミングに合わせて声を掛ける。
「リーゼ、気を付けて帰るようにね」
振り向いたリーゼロッテは、花のような笑みを浮かべて「はい」と頷いた。自分の愛しい娘を他の男が親しげに“リーゼ”と呼ぶことに、弟はいい顔をしないかもしれないが、気苦労をかけられているんだ、これくらいの報復は許されるだろう。それに、未来の義妹を、愛称で呼ばないのは、少々よそよそしいだろう?




