Monster 3
それから、少しずつ侍女としての仕事を許されるようになった。着替えの手伝いは相変わらずロゲールがしていたが、お召し物の準備は任された。それから、朝食のお世話も許された。食事は毒を盛られることがあるからだろう、最初は渋っていたのだが、「私が言いつけられているのは監視であって、毒殺ではありません!」と力説すると、苦笑しながら認めてくれた。
午後のお茶の時間は、あれから毎日一緒にお茶を飲んでいる。毒見というのもあるのだが、それは朝食には求められていないので、それよりも、私が庶民の間で働いていたというのが興味を引くようで、市井の話をよく聞かれた。
ある朝、まだ夜が明け切らぬ時間に、私は庭へ向かっていた。森の朝は冷えるので、寒さ対策にショールを肩に掛けて、手に籠を持って、静かに歩く。人気のない城は暗くて恐ろしかったが、まだ暗い空に月があるのがせめてもの救いだった。
朝露が降りた草にスカートの裾が濡れないように気をつけながら、庭の中を進む。
私の目的は、今が盛りと咲いているワイルドローズだった。
庭のハーブ園にあったハーブは、おおかたフレーバーティーに試してしまい、今は殿下が好むものを選んでお茶の時間に出している。けれど、まだローズティーは試していなかった。この庭のローズは、それほど香りが濃くないので、フレーバーティーにするには少し香りが弱い。だから、一番香りの濃い早朝のものを摘みに来たのだ。
朝露に濡れたワイルドローズは、昼とは異なる濃密な香りを漂わせ、これを使った紅茶を想像するだけでうっとりしてしまう。たくさん採れたらバラジャムにしてもいいかもしれない。とはいえ、庭の植物を採ることは庭師長に許可を得ているが、ジャムにするほどの量を採るには、やはり伺いを立てたいので、今日のところは紅茶に必要なだけをもらうことにする。
棘に気をつけながら、籠の中にバラを摘みとっていく。バラの良い香りと、摘むことに夢中になっていて、私は影が近付いて来ていることに気付いていなかった。
ガサリ、と近くの生け垣から音がして、驚いて手を止める。
「…誰?」
返事はなく、さらにガサガサと生け垣が揺れた。息をひそめて見つめていると、生け垣から灰色の毛皮が現れた。月に照らされて、眼がギラリと光る。
狼、だ。
ここは深い森の中。狼の生息地。朝とはいえ、陽も昇らないまだ暗いこんな時間なら、狼が庭に入ってくることもあり得る。そんな当たり前のことを忘れていたなんて、何てうかつなんだろう。
心臓は早鐘を打っているのに、手足からは急速に体温が奪われて行く。冷たい手足は動きを止め、逃げようにも逃げられない。
うううぅー、と狼が牙をむいて唸り、恐怖が背中を昇る。
摘みとったバラを落とさないように籠を胸に抱え、動かぬ足を無理やり後ろに下がらせる。一度動ければ、後は勢いで何とかなる。回れ右をして、一目散に城へ向かう。
すると、すぐにどしんと何かにぶつかって、行く手を阻まれた。恐怖のために周りが見えていなかったので、そこに人がいることに気付いていなかった。
「逃げるな」
大きな手が腕を掴み、聞き覚えのある声が耳元で聞こえた。
「…え?」
見上げると、ルートヴィッヒ殿下だった。
「逃げると奴は本能で追って来る。背中を見せるな」
そう言って無理やりに私の体の向きを変えさせ、狼に私の背を隠す。それはつまり、顔が狼を向くということだ。怯える私の肩を抱き、殿下は狼から視線を外さない。
私を追いかけようとしていた狼は、距離を保ったまま留まり、威嚇するように低く唸る。だが、殿下に動じる様子はない。
「去れ。ここはお前の来る場所じゃない」
はっきりと、低い声が命じる。月光を受けて妖しく光る青と金の目が、鋭く射抜く。
途端に、狼は耳を垂れ、しっぽを巻いて逃げ出した。狼の姿が見えなくなると、極度に緊張していたからか、体から力が抜けた。
「大丈夫か?」
「…はい。ありがとうございます」
殿下が私を自分のほうに向かせ、体を支えてくれた。
「も、申し訳ありません」
謝るものの、力は戻らず、殿下に体を預ける形になってしまう。
「こんな時間に、何をしていた?」
殿下のあの瞳が私を見下ろす。
「あの…」
うまく頭が回らなくて、口も思うように動かない。
「怒らないから、言え」
私が口ごもったのを誤解したのか、殿下が言う。
「ち、違います。私、怒られるようなことをしていたわけではありません」
バラの入った籠をギュッと抱え、泣きそうになる。この人は、私のことをどんな風に見ているんだろう。逃げ出したり、エーリッヒ殿下に何か告げ口をしたりするように思われているのだろうか。
「ただ、朝摘みのバラの紅茶を、殿下に召し上がっていただきたくて…」
私の言葉に、初めて籠に目がいったらしい。殿下は「…そうか」と呟いて、それきり黙ってしまった。
気まずい沈黙が続く。
「……殿下こそ、どうしてこんな時間にお庭に?」
沈黙を破るために、逆に質問をしてみる。
「………それは、」
殿下はバツが悪そうな顔をした。
「……その、お前の姿が、見えたから……」
歯切れの悪い言葉を呟きながら、殿下は私から視線を逸らす。
「…もしかして、心配してくださったんですか?」
私が、どこかへ行ってしまうんじゃないかと? エーリッヒ殿下の使者と接触するかもしれないと? それとも、こんな風に狼に遭うかもしれないと?
「…いや、その…」
口ごもって顔を背けているのに、殿下の手はまだ私を支えてくれたままで、いじめるのも可哀想なので、話題を変えてあげた。
「それにしても、殿下、こんな時間に起きていらしたんですか?」
私はこのためにハリキって早起きしたのだが、殿下には早起きする理由はないはずだ。
「あー、いや…」
「もしかして、起きていた…とか?」
夜更かし? それとも不眠症?
「ダメですよ、ちゃんと眠らないと。今夜からご就寝前にラベンダーのハーブティーをお持ちしますから」
安眠に誘うハーブティーを強制的に飲ませること決定。
「…リーゼ、戻るぞ」
私の口が回るようになったので、回復したと思ったのか、殿下は手を離して歩き出した。
「あ、はい」
その背中に続いて行こうとして、足を止める。どうにもうまく足が運べない。まださっきの緊張が残っていて、体のコントロールがうまくいかないみたいだ。
「リーゼ?」
振り向いた殿下が、私の状態に気付いたようだ。戻って来て、私が抱えていたバラの籠を取り上げ、私の背を押す。
「歩けるか?」
「はい…」
ぎこちない動きでゆっくり歩く。殿下はそんな私を怒ることもなく、籠を持っていないほうの手で、私の手を引いてくれた。
繋いだ手から伝わる確かな温度は、この人が悪魔でもモンスターでもないと示していた。ひと睨みしただけで狼を追い払ってしまうほど鋭い眼光を放つ青と金の瞳も、時折私を心配して振り向く時には、その面影がない。
この人のこの瞳は、私をどんな風に見ているのだろう? やはり、まだ王宮の手の者だと思っているのだろうか。信用ならない間者だとでも?




