Morgen Licht 1
何の前触れもなくやってきたヴェロニカは、普段の貴族の令嬢らしい気品と落ち着きよりも、やや焦りを募らせているようだった。
「どうしたの?」
部屋に招き入れて尋ねれば、「大変よ!」と彼女は言った。
「王宮で事件よ。エーリッヒ殿下がお倒れになったの。お茶に毒を仕込まれたのですって」
「えっ…!?」
言葉を失った私に、ヴェロニカはさらに状況を説明する。
「しかも、その犯人はルートヴィッヒ殿下だと目されているらしいわ」
「……そんな、まさか……。だって、ルーイ様はグラウ城へお帰りになって…」
ルーイ様の妹姫ツェツィーリア姫の誕生日を祝う舞踏会で、ルーイ様の兄君で王太子であらせられるエーリッヒ殿下の妃候補が発表されて、何故だかその候補者の一人に選ばれてしまった私は、エーリッヒ殿下の指示で実家に留まっていた。けれど、ルーイ様は舞踏会の数日後には既にグラウ城に戻っている。
王宮にいないルーイ様がエーリッヒ殿下に毒を盛るなんて、不可能だ。
「確かにルートヴィッヒ殿下は王宮にはいらっしゃらないけれど、人を使えば可能でしょう」
私の思考を読んだのか、ヴェロニカが諭すように言った。私よりも彼女のほうが何倍も冷静なようだ。
「でも、ルーイ様はそんなこと、なさらないわ」
あの人は、心の優しい人だ。兄君をそんな目に遭わせるわけがない。
「噂では、お気に入りの侍女をエーリッヒ殿下に盗られた腹いせにって…」
「ルーイ様は、そんな浅はかなことをなさる方じゃないわ。それに、あれには事情があって、エーリッヒ殿下のお考えは、ルーイ様もご存知よ」
「ええ、もちろん、私も犯人がルートヴィッヒ殿下だなんて思っていないわ。だからこうして、来たんじゃないの」
ヴェロニカは抑えていた声をさらに潜めた。
「これは、ギュンターの指示なの。ギュンターはエーリッヒ殿下のお側を離れられないし、下手に動けないから、私にあなたに知らせるように頼んだのよ」
「……エーリッヒ殿下はご無事なの?」
ヴェロニカがルーイ様を疑っていないことを知って、いくぶんか落ち着いた私は、やっとエーリッヒ殿下を気遣う言葉を口にできた。
「…さあ、わからないわ。それについては、ギュンターは教えてくれなかったの。もし万が一のことがあれば、軽々しく口にはできないでしょう?」
一国の王太子の一大事は、国を揺るがす大事件だ。それを、王太子の侍従であるギュンターは簡単には漏らせないのだろう。
「それで、これはギュンターからの伝言よ」
落ち着いて聞いてね、と前置きして、ヴェロニカは言った。
「一部の貴族たちが、ルートヴィッヒ殿下の凶行に黙っているわけにはいかないと言いだして、軍を動員したそうよ。じきにグラウ城へ向かうらしいわ」
それは、ルーイ様を反逆者として断罪するつもりということなのだろう。そんなことになれば、王宮に味方を持たないルーイ様の立場は、酷く弱い。唯一の味方とも言えるエーリッヒ殿下の容体はわからないし、これは非常にまずい状況だ。
「ルーイ様にお知らせしなくちゃ」
グラウ城にも衛兵はいるが、一応城としての体裁を保てる程度のものだ。人数も少なければ、戦闘能力も国の精鋭が集められた軍とは比較にならない。今、ルーイ様の身を守るには、逃げるしかないのだ。それに、軍などに攻め込まれたら、城の使用人たちもただでは済まない。
「早馬を用意させたわ。早くお行きなさい。女なら、多少は目こぼしされるはずよ」
ギュンターがヴェロニカを使いに立てた理由がわかった。下手に王宮に関わる男が動けば、立場を異にする相手に感付かれてしまう。それが女となれば、多少監視の目は緩む。例えエーリッヒ殿下の妃候補とされたヴェロニカや私だって、男が動くよりは安全だ。
それに、私には目立たなくなるという裏技がある。クローゼットから街娘の衣装を取り出して着替え、私は鏡を確認した。そこには、もう伯爵令嬢リーゼロッテの姿はない。市井の娘の、ただのリーゼだ。家計を助けるために、身分を隠して街の食堂で働いていた時の衣装は、私を街に溶け込ませて目隠ししてくれるだろう。
私はヴェロニカにお礼を言って、彼女が用意してくれた馬へと走った。貴族の馬だとわからないように、ただ鞍が乗っただけの馬だけど、駿馬なのは一目でわかる。私は馬に飛び乗り、すぐに走り出した。貧乏だったことが、こんな時に役立つなんて。普通、貴族の子女は馬車で移動するから、馬になど乗れない。乗れたとしても、たしなみ程度の乗馬だ。私のように本気で走らせることはできないだろう。私は、護衛を付けられない代わりにと、弟と一緒に武術を習っていた時に、馬術も、馬上での戦い方も教わっていた。
グラウ城へ向かう途中、森の入り口付近で軍の一隊を見かけた。彼らが進む道を確認して、それとは異なる道を選ぶ。この森をよく知らない人は、最も開けたあの道しか知らないだろう。最初に私がグラウ城へ行った時の道だ。
それに比べて、私が通っているのは、うっそうと木々が茂る細い道だった。何度かルーイ様と馬車で通った道とはまた別の、さらにもっと細い道だ。馬車は通れず、馬しか通れない。時折城からルーイ様と馬で散歩に来たことがある。そしてこの道のほうが、城へは近道だ。
私がグラウ城へ着いた時、軍はまだ到着していないようだった。息つく暇もなく、私は慌ただしく城へ入り、ロゲールを見つけてルーイ様のもとへ案内してもらう。
「大変です、ルーイ様!」
実家にいるはずの私が突然現れたので、ルーイ様は驚いた様子だったけど、私の血相に非常事態を読みとってくれた。
「何事だ?」
落ち着いた低い声にわずかに緊張が混じる。
「エーリッヒ殿下が毒を盛られてお倒れになったそうです」
「兄上が…!? ご無事なのか!?」
「わかりません。そして、さらに悪いことに、その犯人をルーイ様だと言い出した者がいるそうです」
私は一部の貴族たちが軍を動かし、その一隊がこちらへ向かっていることを報告した。 ルーイ様は眉間にしわを寄せ、青と金の瞳に厳しい光を宿らせた。
「……なるほど。兄上を亡きものにし、その罪を俺に着せて断罪すれば、王位継承権第一位と第二位がまとめて片付くという寸法か」
ルーイ様の拳がギリリと音を立てそうなほどにきつく握られる。そんなに強く握っては手が壊れてしまうと、私はその手を取った。
「逃げましょう! まだ汚名を雪ぐチャンスはあります」
「…だが、軍まで動かせる相手に、どう対抗するというんだ?」
「少なくとも、この件を教えてくれたギュンターは味方です。方法など、後からいくらでも考えればいいんです。大事なのは、まずはルーイ様がご無事でいることです」
「わたくしもそう思います。お逃げくださいませ」
一緒に話を聞いていたロゲールが後押ししてくれた。
「しかし、俺が逃げたら…」
「城の者たちのことはご案じなさいますな。必ずわたくしが逃がしましょう」
自分が逃げたと知ったら、城の使用人が軍に酷い目に遭わされるのではないかと心配するルーイ様にロゲールは「執事の名に掛けて、使用人たちはお守りいたします」と誓った。
「…わかった。そうまで言うなら、リーゼの言う通りにしよう。ロゲール、皆のことは任せた。いざとなったら、北の塔を使え」
主と主が認めた者にしか立ち入りが許されない北の塔。その昔、城の主が愛妃を閉じ込めたという塔は、難攻不落の塔でもある。通常、使用人は掃除の時以外は入ることが出来ない。その使用許可は、ルーイ様の皆への気遣いだ。
「お気遣い、いたみいります。お任せくださいませ」
一礼したロゲールはルーイ様に、年長者らしい余裕の笑みを見せた。
私はロゲールに頼んで、なるべく地味な服を用意してもらい、ルーイ様を着替えさせる。そしてルーイ様の馬の中でも選りすぐりの駿馬を二頭選んで、城を抜け出す。ちらりと心配そうに城を振り返るルーイ様の視線の先では、グラウ城がいつものように静かな威容を見せていた。今頃、ロゲールが使用人たちを集めて安全な場所へ逃がす手配をしてくれているはずだ。




