少女は雪に吸い込まれる
同じ飾りはバランス良く。
同じ色も固まらないように散らして。
白い綿は枝に積もった雪に見えるよう、そっと乗せる。
大きな星は、一番上に。
「お母さーん! できたよー!」
リビングで洗濯物を畳んでいた母を呼ぶ。彼女は畳んでいる途中のセーターをそのままに、顔を上げるとこちらへ歩んできた。
「一人でよくできたね。上手、上手」
母はわたしの頭を撫でながら、笑顔で褒めてくれた。
わたしは、母が自分を褒めてくれるとき……認めてくれる瞬間が、とても好きだった。テストで満点を取ったとき。作文コンクールでクラス代表に選ばれたとき。母に「できる子」と思われたい一心で自分の活躍を報告した。母は毎回「頑張ったね」と喜んでくれた。
「実里、ツリーの横に並んで。……はい、チーズ!」
ポケットからスマートフォンを取り出した母は、わたしにレンズを向けた。両手でピースを作り、笑顔を返す。
「実里が一人で飾り付けしたんだよって、お父さんに伝えておくね」
スマートフォンを操作していた母は手を止めると、
「そういえば、サンタさんに何頼むか決めた?」
と尋ねた。クリスマスまで、あと一週間ちょっとだ。
「ううん、まだ決めてない。キラキラしたペンか、香り付きの消しゴムとかにしようかなぁ」
「そんなのでいいの? サンタさんなんだから、お小遣いじゃ買えないようなのおねだりしてもいいんだよ?」
「……新しいゲームでも?」
「いいと思うよ。実里、勉強もお手伝いも頑張ったもんね。ゲーム、どんなのが欲しいの?」
「……ええと、もう少し、考える」
「そう。決まったら、またお手紙書いておきなね」
「うん、わかった」
母に話を合わせ、しかし、サンタクロースの正体が両親だということはとっくに気づいていた。毎年母は、わたしに欲しい物を聞き出しサンタクロース宛の手紙に書かせる。わたしはその手紙を両親の目につく場所に置いておく。クリスマスの朝手紙はプレゼントとすり替わり、消えた手紙はわたしの臍の緒や母子手帳と一緒に保管されていた。
でも、まだそのことには気づいていないふりをしている。クラスメートは、みんなサンタクロースを信じている。もしかしたら今年あたり、サンタは親だよと言い出す人がいるかもしれない。そうなったら、わたしも両親に「気づいてたよ」と打ち明けようか。
母は、畳み途中だった洗濯物の山へ戻っていった。わたしも彼女の隣で一緒にタオルを畳む。
「ねえ実里、今度の木曜日、授業参観だね」
「うん」
「一人ひとり、何か発表するんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ実里も、頑張らなきゃね」
「……」
「実里……」
黙ってしまったわたしの肩に、母が手を置く。その手は、わたしを励ますように背中をさすった。
「大丈夫だって。この前宿題でやってた、水草を調べたやつでしょ? わかりやすく書けてたじゃない。色塗りもきれいにできてたし。自信持って発表してごらん」
ね? と念押しされ、わたしは仕方なく頷いた。頷くことしかできなかった。
「実里、背中丸まってるよ。胸張って」
母に言われ、慌てて背筋を伸ばす。最近、母から猫背を注意されることが増えた。気がついたら、肩を内側に丸め、下を向いている。だって、うまく顔を上げられないんだ。自分の存在が恥ずかしくて、消えてしまいたくなって、うつむいてしまうんだ。
先ほど飾り付けをしたクリスマスツリーが視界に入る。わたしの背丈より少し大きなツリーは、しっかりと枝を広げ、全身を装飾品で施され、堂々と胸を張って立っていた。
「雪が降ると静かだね」
畳んだ洗濯物を仕分けしながら母が呟く。窓の外では、本物の雪の綿がしんしんと降り積もっていた。
わたしにとって、『話す』とは当たり前にできることではない。両親とは会話できる。長野に住む祖父母とも平気だ。近所のおじさんおばさんにもちゃんと挨拶している。
だけど、学校でだけ、わたしは声を出せなくなってしまう。声は喉のずっと奥に閉じ込められ、鳴りを潜めてしまうのだ。
翌日の月曜日。昨日から降り続く雪はやむ気配がなく、着実に雪かさを増していた。道幅は狭くなり、早朝から除雪車が動いていた。
冷たくなった頬を押さえながら教室に入る。誰とも目を合わせず自分の席につくと、ランドセルを肩から降ろした。傘をさしていたのに、ランドセルには薄く雪が積もっていた。
「実里ちゃん、おはよう!」
顔を上げると、目の前にはクラスメートの歩美ちゃんが立っていた。挨拶を返す代わりにちょっとだけ笑ってみせる。すると彼女は満足げな表情をして、他の子たちのいる方へ戻っていった。
歩美ちゃんは、よくわたしに挨拶をしてくれる。たまに話しかけてくれる。言葉を返せないわたしは、ただ笑ってみせることしかできない。
ごめんね、歩美ちゃん。本当は、おはようって返したいんだ。話しかけられたらちゃんと答えて、もっといろんな話だってしたいんだ。
だけど声に出せなかった何十個もの「おはよう」は、心の中に積み重なっている。
再び一人になったわたしは、教室内の喧騒に耳を傾けた。
「土曜日、ディズニーの新しい映画観に行くんだ!」
「なにその映画、知らなーい」
あ、それ、わたしも週末お母さんとお父さんと見に行く予定だよ。楽しみだよね。
「『りゅうのどうくつ』全然クリアできねんだけど。中の扉どうやったら開くの?」
それ、もしかしてモンスターダンジョン? わたしもやってるよ。そこをクリアするためには、特別な道具が必要なんだよ。
「ねぇねぇ、算数の宿題、最後の問題解けた?」
「ううん、わたしもわからなかった」
わたし解けたよ。解き方、教えてあげようか?
言葉はポンポン浮かんでくる。話したい。話すことさえできれば、友達ができて、クラスの人気者にだってなれるかもしれないのに。
「アニメの映画だよ。プリンセスいっぱい出てくるんだよ!」
「え、本当に!? 絶対観たい! 何ていうタイトルなの?」
「その洞窟、アイテム必要なんだよ。街にいるおじいさんがヒント言ってくれるよ」
「そうなんだ! 帰ったらやってみるよ! ありがとう!」
「最後の問題、あたしできたよ!」
「本当!? すごーい! 教えて教えて!」
また今日も、何も言えなかった。行き場のなくなった言葉は心に蓄積し、もう飽和状態だ。こんな日常、いつまで続くんだろう? いつになったら、わたしは“普通”になれるんだろう?
「実里、実里、ちょっとおいで」
帰りの会の準備中、担任の佐賀先生がわたしを手招いた。教室前方の先生のデスクへ向かうと、彼女はさっと周囲を見渡し小声で話始めた。
「実里のお母さんから、木曜日の発表、実里に一人でやらせてほしいって言われてるんだけど……、できそう?」
わたしは唇を噛みしめ下を向いた。
無理だよ。できっこないよ。だって、今まで学校で一言も喋れたことなかったじゃない。
でも、やらなければ、変わらなければ、母を失望させてしまう。そのうちわたしへの希望も捨て、失望すらしなくなってしまう。
どうすればいい? どうすれば、わたしは変われるの?
「先生は、無理することはないと思うよ。でも、実里が少しでも頑張りたいと思ってるなら、全力で応援する」
顔を上げると、先生は微笑んだ。
「どうする? 発表、一人でやってみる?」
いやだ。できない。やりたくない。
……でも、やらなきゃいけない。
わたしは、小さく頷いた。
「よし、先生と一緒に頑張ろう! 今日、さようならしたら家庭科準備室においで」
胃が、ツキンと痛む。とんでもない課題を、自分に課してしまった。
でも、先生は「一緒に頑張ろう」と言った。一緒にとは、どういうことだろう?
「帰りの会始めるよー」
先生は教壇に立ち、疑問を残したままわたしも自分の席に戻った。
わたしが話せなくなったのは、保育園入園時からだ。朝、送ってくれた母と別れ後、大泣きをした。しばらくして泣き止み、トイレに行きたくなったわたしはそのことを先生に伝えようとした。声が出なくなったのは、その時からだった。それっきり、保育園でも小学校でも、声が出せたことは一度もない。
なぜ話せないのかなんてわからない。話そうとしても、声が出ないのだ。声の出し方がわからない。まるで、声を封じ込める呪いをかけられたかのように。
その呪いは、どうやら自宅に帰ると解けるようだった。家では話すのに保育園では話さないことを知った大人たちは、「なんで喋らないの?」「声を出してごらん」と言った。わたしだって声を出そうとしていた。だけど出なかったんだ。話したくないから話さないんじゃない。話したくても話せないんだ。両親や先生がそのことをわかってくれているのかどうか、未だにはっきりしない。
保育園に通うのは、楽しみだったはずなんだ。両親や祖父母からお友だちがたくさんできるよ、と言われ、期待に胸を膨らませていたんだ。だけど、言葉を発しないわたしに友達などできるはずもなかった。話せないことで不自由な思いや嫌な経験をたくさんし、保育園もその後の小学校も、通うのがただただ苦痛だった。
小学校の入学式は、新入生は壇上で一人ひとり呼名され、「はい」と返事をして校長先生と握手をする。入学式の数日前から、母に「ちゃんと『はい』って返事するんだよ」と何度も言われていた。わたしは頷いた。決意があった。焦りがあった。自分が周りのみんなと違うことには気づいていた。このままではいけない、なんとかしないといけないと考えていた。ここで声が出せれば、きっと“普通”の小学生としてスタートできる。だから頑張ろうと思っていた。
入学式直前、教室で先生から式の説明を受けていると、先生に「実里喋れないよ」と報告する男子児童がいた。彼は、同じ保育園に通っていた男子、彰くんだった。
「知ってます」
当時の担任の先生は毅然とした態度で答えた。そして彼女はその場で、みんなの前でわたしに優しく言った。
「実里さん。名前を呼ばれたら、手を挙げるだけでいいからね」
チャンスを潰された。そう、感じた。
逃げ道を提供されたからって、無視して決めた道を進めばいい。ここで逃げたって、問題を先延ばしにするだけだ。わかってた。わかってはいたんだ。
先生は、わたしが声を出すことを期待していない。クラスメートも、わたしが返事の代わりに挙手をすることを予測している。
決意が揺らいだ。わたしが「はい」と返事をしたら、逆に変な目で見られてしまう。喋らない方が異常で目立つのに、喋って注目されることの方が怖かった。
壇上で順番に呼名されるのを待つ間、わたしは最後まで葛藤していた。返事をしなくても許される。でも、本当にそれでいいの? 母の顔が浮かんだ。返事をしなかったら、彼女は怒るだろうか。悲しむだろうか。
やっぱり、言おう。ちゃんと返事をしよう。
「高崎、実里さん」
担任の先生がわたしの名前を呼んだ。わたしは口を開き、発声を試みた。
声は、出なかった。声帯は堅くロックされ、ぴくりとも震えてはくれなかった。結局、わたしは少し遅れて手を挙げただけだった。「おめでとう」と言って握手する校長先生とは、目を合わせられなかった。
母は、わたしが返事をしなかったことについて何も言わなかった。怒ることも悲しむこともなかった。……初めから、わたしが声を出すことなんて期待していなかったのかもしれない。
入学式で返事ができなかったわたしに待っていたのは、喋れない小学校生活だった。小学二年生になった今でも、変わらず話せずにいる。喋れないだけじゃなく、表情や態度での喜怒哀楽の表現すらも上手くできない。
もし返事ができていたら、わたしの学校生活は変わっていただろうか。入学式以来、何度も考える。たった二文字の言葉が言えなかったために、わたしはまた苦しい生活を割り当てられた。元々、保育園でなぜ話せなかったのかはわからない。ただ、今では話すのが怖い。声を聞かれることを恐れてしまう。話したいけど、声を聞かれたくない。相反する気持ちが両立していた。
こんな日常、嫌いなんだ。言いたいことがあるんだ。話したいんだ。なのに、どうしてわたしだけ話せないの? どうしてわたしだけみんなと同じことができないの? どうして、どうしてわたしだけ……。
ほとんどのクラスメートは、わたしを対等に扱おうとはしない。年下の世話を焼くように、どこか上から目線で接する。他のクラスの名前も知らない人から「あの子だよ、喋らない子」と指をさされる。上級生に囲まれ「自分の名前言ってみてよ」と要求されることもあった。
顔を上げられなくなり、うつむくことが増えた。猫背を注意されるようになったのは、小学校に上がり、周りの目が気になるようになってからだ。
放課後、佐賀先生に言われたとおり家庭科準備室へ向かう。鍵は空いていた。雑然と備品が置かれた室内で、先生を待つ。
廊下を誰かが悲鳴と笑い声を上げながら駆けていった。遠くから男の先生の「廊下は走るなー!」という怒鳴り声が聞こえる。「ねぇ知ってる?」「クリスマス会しようよ!」「冬休み遊び行こうぜ!」廊下には、様々な声が溢れていた。
いいなあ。みんな、普通に喋れて。
わたしも、友達がほしい。
友達と話すための、声がほしい。
ガラガラッと準備室の扉が開く。佐賀先生だった。手には、なぜか算数の教科書を持っていた。
「実里、おまたせ」
先生は部屋の隅にある丸椅子を二つ持ってくると、一つに腰かけた。わたしも促され座る。
「木曜日の発表、実里が一人で頑張るって決めてくれて先生も嬉しかったよ。だから、先生も精一杯サポートしたいんだ。木曜日まで、声を出す練習を一緒にしてみない?」
一緒に頑張ろうとは、そういう意味だったのか。一人で頑張らなくていいんだ。傍についていてくれる人がいるんだ。
その時わたしは、肩の荷が下りたように気持ちが楽になった。
わたしが頷くと、先生はホッとしたように微笑み、「さっそく始めようか」と言って算数の教科書をパラパラとめくった。
「じゃあまずは、ここから読んでごらん」
先生が指差したページは、最初に「千の位のおはなし」と見出しがついていた。
先生と二人きりなら、きっと大丈夫。さっそく読み上げようと、声を出そうとした途端、胸がドキドキし始めた。呼吸が浅くなる。
「焦らないで、自分のペースでいいからね」
先生の声かけを聞き、一度深く息を吸ってみる。少しだけ、気持ちが落ち着いた。しかし話そうと試みても声は出ず、再び不安が勝ってしまう。タイミングが掴めず大縄に入れないときのように、言おう言おうと思っても声は出て来なかった。
文章量とか、言葉の言いにくさは関係ないんだ。声が出るか出ないか、ただそれだけなんだ。
「最初は先生と一緒に言ってみようか。実里も無理に声を出そうと考えなくていいから、口だけ動かしてみて。……せーの、せんのくらいのおはなし」
続きの文章を読み進める先生についていくよう、声を出しているつもりで口を動かす。口元を動かしていると、息が漏れるのを感じた。なんとなく、話せそうな気がしてきた。一段落目を読み終えると、先生はそこで一旦切った。
話せそう。今なら、声が出せそう。
この感覚を失いたくなくて、わたしは自ら口を開いた。
『せんの、くらいのおはなし』
やっと、初めて学校で言葉になったのは、声にならない声。息だけの声だった。
「実里、声出たね!」
先生はそんな無声音でも“声”と認めてくれた。
「まずはささやき声でいいよ。その調子、その調子」
コラムなど文章量の多いところを選択的に読んでいく。ささやき声を出すことに、抵抗もなくなってきた。先生はどこか嬉しそうに、うんうんと頷きながら聞いてくれていた。そして、十分ほど経ったころだろうか。先生は次の課題をわたしに与えた。
「そろそろ、本当の声出せそう?」
再び、千の位のおはなしに戻る。
息を吸って、吐いて、吸って……。口から出たのは、ささやき声だった。もう一度、もう一度、と繰り返してもささやき声しか出ない。声帯は、震えてくれない。
おかしい。佐賀先生と二人なら、声が出せる気がしたのに。なんで話せないの? 話さない理由なんてないのに。
鼻の奥がツンと痛くなり、視界に涙の膜が張った。
「今日はここまでにしようか。明日もまた練習しよう」
先生はそう言うと、わたしの肩に手を乗せた。
「焦らなくていいなんて言って、先生が焦らせちゃったね、ごめん。……実里、今日はよく頑張ったね。ささやき声でも、実里の声が聞けて嬉しかったよ」
本当に嬉しかった? 結局話せなくて、ガッカリしてない?
「お疲れさま。暗くなる前に、気を付けて帰るんだよ」
軽く会釈して、部屋を出ようとする。そこでふと思い立ち、もう一度先生に向き直った。
喉の奥が閉塞したように息がつまる。しかし、思いの外すぐに開通してくれた。
『さようなら』
先生は一瞬驚いた表情を見せたが、パッと笑顔になった。
「さようなら!」
机にレターセットを広げたものの、サンタクロースへの手紙は何も書けずにいた。
欲しいゲームソフトがあった。今年の秋に発売され、当時はどこのお店も品切になるほど売れていた人気作だ。クラスにもそのゲームをプレイしている人はたくさんいて、よく教室で話題になっている。
わたしも同じシリーズの前作のソフトを持っている。とても面白くて好きだ。だから新作も欲しいと思っていたのだが……。
クラスメートの話を聞いていると、新作はどうやら通信プレイに頼るところが多いらしい。もちろん個人プレイでも楽しめる。しかし通信することで新たなキャラクター、シナリオが追加されるようだ。クラスメートはよく、放課後に通信やろう! と話し合っていた。
そんなゲームを買ってもらっても、一人で遊んでいたら惨めになるんじゃないだろうか。手に入らないキャラクターやシナリオを考え、友達さえいれば、喋ることができれば、なんて自分にないものを恨んでしまうんじゃないだろうか。純粋に楽しめる自信がなかった。
背後から、コンコンと扉をノックする音がした。扉は開けていたが、母がわざわざ音を鳴らしたようだ。
「実里、夕飯のお手伝いしてくれる? ……あ、宿題やってた?」
「ううん、終わったよ」
鉛筆を投げ出し、手紙を教科書の下に隠す。
「今日の夕飯なに?」
「お蕎麦だよ。この前おばあちゃんたちが送ってくれたんだ」
「おばあちゃんちでいつも食べるお蕎麦かな。あれ大好き」
「ね、お母さんも大好き」
母と一緒にキッチンへ向かう。子供用のエプロンを、母がつけてくれた。
「大根サラダ作りたいから、大根から切ってくれるかな。切り方覚えてる?」
「うん、わかるよ。薄い板みたいにすればいいんでしょ?」
「そうそう。ちなみにそれ、短冊切りって言うんだよ」
「たんざく?」
「七夕の時、お願い事書いたでしょ? あれが短冊」
「あ、そっか。あの紙みたいに細長くて平たいから、短冊切りなんだね」
「そうだよ。おんなじ形してるでしょ」
そうか、これも短冊だったんだ。ペタペタと大根を薄く切りながら思う。七月の学活の時間に、七夕飾りと短冊を作った。お願い事、何書いたっけ。意地悪な亜希ちゃんが、何も書けていないわたしの短冊を見て
「喋れるようになりたいってお願いしないの?」
と言った。歩美ちゃんが、
「実里ちゃんのお願い事は、実里ちゃんが自分で決めるからいいんだよ」
と反論して、亜希ちゃんと歩美ちゃんが喧嘩しちゃったんだっけ。先生が介入して、亜希ちゃんは別室で先生とお話していた。小さな騒動の中心だったはずのわたしは、一言も発せずやりすごした。そうそう、結局「全校テストで百点とれますように」って書いたんだ。笹にくくりつけたわたしの短冊を見た歩美ちゃんが、「きっと百点とれるよ!」と笑顔で声をかけてくれた。実際、漢字テストも計算テストも満点だった。
七夕は願いを叶えてくれた。どうせなら、亜希ちゃんの言うとおり喋れるようになりたいとお願いすればよかったな。
大根を切り終わると、今度はきゅうりを渡された。きゅうりも短冊切りにしていく。
「そうそう、お父さんね、金曜日に帰ってくるんだって」
「ほんと!?」
「うん。もう一日早ければ、実里の授業参観も一緒に行けたのにね」
「……」
「お父さんに、実里が頑張ったこと報告できるようにしようね」
「……うん」
一ヶ月出張に行っていた父が久々に帰ってくるのは嬉しいが、授業参観を思うと気が重くなる。
今日の先生との練習では、声が出る気配もなかった。母と話すときは何も考えずに発声ができているのに、それが先生の前では考えてもわからなくなってしまう。
途端に口数が減ったわたしを見て、母はそれ以上授業参観の話は引っ張らなかった。何年も先、大人になって、当時は母なりに娘への対応に迷いや焦りがあったのだろうな、と思いを馳せることができる。母は母で、苦しんでいたことだろう。しかし幼いわたしは、母の焦燥感に潰され身動きが取れにくくなっていた。
火曜日の放課後、佐賀先生が持ってきたのは国語の教科書だった。
今日は、ささやき声はすぐに出た。しかし、声を出そうとしてみても、昨日とおんなじ。何度挑戦してもささやき声しか出ない。
それでも先生は、小説を一つ読み上げたわたしを「頑張ったね」と褒めてくれた。たとえ結果にならなくとも。頑張っていることを頑張っていると認めていいのだと、先生はわたしの自己肯定感を高めてくれた。
そして、本番前日の水曜日。この日の練習に使われたのは、明日の発表資料だった。
発表は、一人ひとりが生き物や植物について図鑑などで調べ、それを新聞形式にまとめたものだ。わたしは浮草について書いた。一文字一文字丁寧に書いた。絵も色塗りも綺麗にできた。何度も見直し、上手に仕上がったと自負がある。しかしそれは、作品として見ればだ。親たちは、掲示された新聞ではなく、授業参観での発表を見て評価する。発表ができなければ、評価対象にすらならない。
『わたしは、浮草について調べました』
発表したい。クラスのみんなに、母に、わたしの成果を見てもらいたい。
ささやき声で一通り読み終え、声を出そうと試みる。しかし、出ない。何か考え込むように黙って聞いていた先生が、ゆっくり口を開いた。
「実里は、話せるようになりたいって思う?」
その問い掛けに、ドキリとして息が詰まった。
先生は、わたしが声を出すつもりがないと疑っているの? 母や先生に言われて、嫌々練習しているだけだと思っているの?
違う。違うよ。話せるようになりたいって、本気で思っているよ。確かに、発表は怖いよ。できることなら、恐怖も苦労もなくやり過ごしたいよ。でもこのままじゃ、逃げてばかりじゃ、永遠に恐怖につきまとわれるってわかっているんだ。だから、毎日頑張っているじゃない。先生も、頑張ったねって褒めてくれるじゃない。それとも、結果を生まない努力はやっぱりなかったことになるの?
先生はわたしの目をじっと見つめている。
話せるようになりたいよ。話したいよ。話したい。話したい。話したい。
『話し、たい』
つっかえながらも、なんとか伝える。先生はふっと綻んだ。
「そっか。うん、そうだよね。実里の気持ち、実里の言葉で聞けて良かった」
先生は椅子をわたしの向かいから隣に移動させると、背中をさすってくれた。
「怖がらなくていいよ。時間かかってもいいよ。……わたしは実里にとことん付き合うからね」
先生の手は、温かかった。
すっと息を吸う。しかし、吐き方がわからなくなる。声は出ないのに、涙だけが込み上げてくる。先生は何も言わず、背中をさすり続けた。
応えたい。母にも、先生にも、歩美ちゃんにも。声を、届けたい。
いつの間にか浅く速くなっていた呼吸に気づき、一度深呼吸をしてみる。そして、手にもつ新聞のタイトルに視線を落とした。
喉が、震えた。
「うきくさ、の、しくみ……」
初めて学校で発せられたわたしの声は、小さく、細く、少し裏返り、今にも消えてしまいそうだった。しかしそれは、紛れもないわたしの声だった。
眼瞼に溜まっていた涙が、瞬きと同時に零れ落ちた。
「実里! すごいじゃん!」
先生は本当に嬉しそうにわしゃわしゃとわたしの髪をかき混ぜた。そして、目元を指先でそっと拭ってくれる。
言えた。声が出た。
歓喜に、心が震える。
「わたしは、浮草について、調べました。浮草は水草の仲間で、」
声帯を振動させて出てきた声は、徐々に声量を増し安定を得た。一通り読み終える頃には、声を出すことへの抵抗感はなくなっていた。咽頭のつっかえが、消えていく。
声が出せるって、話せるって、こんなに快感だったっけ。
「うん、すごく良かったよ。……ねぇ、もう一度、読んでくれないかな」
先生は人差し指を立て、小首を傾げた。頷いて、最初から読み始める。先生はまるで音楽に聴き入るかのように、目を閉じて時々頷いていた。
「うん、うん。上手だよ。実里の声、みんなにちゃんと届くよ。……明日、一人で発表できる?」
クラスメートと保護者の前に立つ想像をし、足がすくむような感覚に襲われる。“みんな”は、わたしを拘束し、閉じ込める存在だ。わたしにとって、学校での敵なのだ。これまでは打ち勝つ術もなく、抗うこともしなかった。
しかし、呪いは解けたのだ。五年間封じ込められていた声を、わたしは取り戻した。もう、恐れるものは何もない。
「一人で頑張る」
しっかりと返事をしたわたしに先生は微笑み、「明日の昼休み、最後の練習をしよう」と言った。
宿題を終え、教科書の間から白紙の手紙を引っ張り出す。サンタクロースへの手紙だ。
【サンタさんへ
サンタさん、去年のクリスマスはプレゼントをありがとうございます。もらった手ぶくろは、今年も使っています。かわいくて、とてもあたたかいです。歩美ちゃんにも「かわいいね」って言ってもらえて、うれしかったです】
一昨日は一文字も書けなかった手紙は、今日はすらすらと鉛筆が動いた。
両親のお手伝いを頑張ったこと、テストで百点をたくさんとったこと、作文コンクールでクラスの代表に選ばれたことを報告する。そして……。
【学校で、佐賀先生と話せるようになりました】
そこまで書いたところで、一旦鉛筆が止まる。どうせなら、明日の発表のことも報告したい。そう思い、数行空けてからプレゼントの要望の話に続けた。
プレゼントは、最初から欲しいと思っていたゲームソフトをお願いすることにした。大丈夫、話せるようになれば友達ができる。友達ができれば、通信プレイだっていくらでもできる。わたしは明日から変われるんだ。変わるんだ。
頭の中では、クラスメートの中心で楽しそう笑っている自分を想像していた。
木曜日。昼休みの終わりが近づくと、一人、また一人と誰かの保護者が教室へやってくる。着席したクラスメートは、ちらちらと後ろを振り返り、自分の親を探していた。
わたしは、午前中に先生から返却された新聞に目を落としていた。母が来ているかは気になる。しかし母を見つけたところで、クラスメートの前では表情を上手く変えられないのだ。母に固い表情を見せたくなかった。
チャイムが鳴り、佐賀先生が教壇に立つ。今回の課題の新聞作成について保護者に簡単に説明し、すぐに発表に移った。この授業内で全員が発表するには、急ぎ足でいかないといけないのだ。
発表は、廊下側に座る児童から席順に進む。窓際のわたしは、後半だ。
ペンギン、アザラシ、ニホンザル、ツキノワグマ。動物について調べた人がほとんどで、植物は少数派だ。さらに植物の中でも他は花ばかりで、水草のような地味なものを選んだのはわたしくらいだった。
大きな声で堂々と発表する人、おもしろおかしく冗談を交える人、自信なさげに小さな声で早口になる人、様々だ。たまたま選んだ動物が被っても、内容までは同じにならない。三十人近くいるこのクラスに、全く同じ人なんていない。……わたしも、その中の一人なんだ。みんな違うんだから、みんなと違って当たり前。多数派に当てはまらない特徴を持っているからって、異常じゃない。
でも、異常じゃなくたって、周りから受け入れてもらえたって、自分で自分のことを認められないんだ。わたしは、学校でクラスメートと話せるようになりたいんだ。
前の席の男子が立ち上がった。教卓の前に立ち、発表を始める。次だ。次が、わたしの番だ。心拍数が上がる。今発表している男子の言葉は、全く頭に入ってこなかった。
大丈夫。やれる。やれるよ。昼休みに練習した時だって、ちゃんと声が出せた。だから、大丈夫。絶対に、やらなきゃいけないんだ。
いつの間にか彼の発表は終わっていたようで、教室の人たちはみんな拍手をしている。佐賀先生と目が合う。彼女は小さく頷いた。
新聞を持って、立ち上がる。デスクで椅子に腰かけたままの佐賀先生に気づいた彰くんが、「実里、自分でやるの?」と首を傾げた。このような発表や発言の場では、いつも先生が隣で代弁してくれていた。
教卓の前に立つと、教室全体が見渡せる。クラスメートは、全員顔を上げわたしに注目していた。教室の後ろ、廊下側に母の姿を見つける。目が合うと、母は自分の両肩に手を置き、胸を開く仕草をした。どうやら猫背になっていたらしい。背筋を伸ばし、胸を張る。母は微笑み、『がんばれ』と口を動かした。
まずは、「高崎実里です」と名乗るところから始まる。息を吸って、「た」の発音の準備をする。……しかし。
次の瞬間、視界に約八十個の目が映り込んだ。
声は、ひゅっと喉の奥に引っ込んでしまった。
あ、まずい。この感覚は何度も経験したから知っている。声を出そうと思っても出ないときの、あの感覚だ。
早く、言わなくちゃ。高崎実里です、って。時間が経てば経つほど、言い出しにくくなることはわかっている。
ほら、教室がざわつき始めた。後ろで誰かのお母さんたちが、口元を隠しながらヒソヒソ話している。「なんであの子黙ってるの?」「知らない? あの子、普段から全く喋らないのよ」聞こえるはずのない言葉が、耳を介さず伝わってくる。
言わなきゃ。話さなきゃ。早く。高崎実里です。高崎実里です。高崎実里です。
心臓がうるさい。鼓動はどんどん速さを増し、頬に熱が上った。指先は冷たく手汗が滲み、こめかみを一筋の汗がつたる。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。みんな、こっちを見ないで。わたしを見ないで!
「実里、大丈夫だよ。落ち着いて」
声をかけてくれたのは、佐賀先生だった。いつの間にか隣に立っていた先生は、屈んでわたしの背中をさすった。
「練習を思い出してごらん。昼休みも、ちゃんと話せたでしょ。あのときの感覚を思い出してみて」
先生の言葉に従い、目を閉じ家庭科準備室を思い浮かべる。先生と二人。わたしは声を取り戻した。怖くない。話せる。声を出せる。
ゆっくり目を開ける。目の前には、四十人以上の人間。家庭科準備室の想像は一瞬でふっ飛んでしまった。
再び、息が詰まる。
「声を出すのが難しかったら、ささやき声でもいいよ。それでも、ちゃんとみんなに届くから。……すみません、みなさん、お静かにお願いします」
教室は静まり返った。ヒソヒソと会話をしていたクラスメートも保護者も、全員がわたしに注目していた。
正直、心が挫けた。喉の奥が閉塞する。ダメだ。喋れないよ。
胃がキューっと痛くなり、涙が滲んだ。
先生は、困ったようにわたしの顔を覗き込み、そして教室を見渡した。
「実里、先生と一緒に発表しようか。……せーの、『高崎実里です』」
結局、いつもと同じく先生が代わりに読み上げていった。
これまでになく、喋れないことが恥ずかしいと感じた。喋れるようになったと思って、クラスメートと楽しく会話する自分も想像して、自信を持ってこの場に立って……。全然ダメじゃん。ささやき声すら出せない。変わりたくて、変われると思って、今日は決心して意気込んで来たんだ。なのに、何もできなかった。何も、変われなかった。
「『浮草は、葉っぱの中に空気を溜める空洞があり、水に浮くことができます。葉っぱを水に浮かせる理由は、』」
先生の声に合わせて口を動かす。徐々に顎が重くなり、上手く動かせなくなっていった。教室を出ていく母の背中が見えた。
お母さん。
練習、たくさんしたんだよ。先生と二人なら、ちゃんと声を出せたんだよ。お話もできたんだよ。今日も、一人で発表するって決めていて……
ごめんなさい。恥ずかしい思いをさせて、居づらくさせて、ごめんなさい。お父さんに報告できなくさせて、ごめんなさい。
先生も、約束守れなくてごめんなさい。
先生が最後まで読み上げ、拍手が起こった。これは、一体なんの拍手だろう。次の人と入れ違いに自分の席に座る。先生に顔を向けることができなかった。発表を聴きながら、わたしは机の上の新聞を睨み付けていた。
字も絵も丁寧に書き、内容もわかりやすくまとめたと自負していたその新聞は、もう誰にも見せたくないと思った。ビリビリに破りたい衝動に駆られる。新聞と一緒に、わたし自身も切り裂かれ、消えてしまえばいいのに。
なんで、なんでわたしはこんなにもダメなんだろう?
意志が弱いからだよ。そもそも、本当に声を出す気があった?
勇気がないからだよ。勇気を出して、思い切って言ってしまえば良かったんだ。この、臆病者。
これは誰の声? お母さん? 佐賀先生? 亜希ちゃん? 保育園や小学校の先生、話しかけてくれたクラスメート、たくさんの顔が思い浮かぶ。彼らはみんな、わたしを責め立てているように感じた。
授業の後、新聞は回収された。しばらくの間、教室の後ろにでも掲示されることになるだろう。
「実里、図工の作品見たいな。工作室だったよね、案内してよ」
帰りの会が終わり、PTAの懇親会までは三十分程時間が空いていた。この間、保護者は工作室や廊下の壁に展示された児童の作品を見て時間を潰していた。
発表の途中でいなくなった母は、帰りの会が終わって廊下で会った時にはいつもどおりだった。怒っていないし、悲しんでもいない。少なくとも、わたしにはそう見えた。
しかし、工作室の方を指差したわたしに、母は冷たく言い放った。
「ちゃんと言葉で説明して」
指差した手は、震えながら下に落ちた。周囲を見渡し、こちらに意識を向ける者がいないことを確認する。
「あっちの廊下の突き当たり」
情けないほどに小さな声だった。そんな声でも母は聞き取り、「じゃあ、行こっか」と微笑んでくれた。
「実里は何作ったの?」
「……鳥」
「鳥?」
「うん。落ち葉を貼って鳥の巣を作って、絵の具で鳥の親子を描いた」
その時だった。わたしたち母子の会話に邪魔が入ったのは。
「あー! 実里が喋った!!」
思わず後ろを振り返ると、彰くんが驚いた表情をしてわたしを指差していた。
「え、本当に!?」
「本当だよ! お母さんと話してた!」
「わたしも声聞きたい!」
「もう一回喋って!」
わらわらとクラスメートが集まってくる。想定外の事態に、わたしは身体が動かなくなった。
「実里って喋れたんだ」
意外そうに呟く彰くんのその言葉は、わたしにとって酷くショックだった。みんな、わたしのことなんて、何もわかっていないんだ。当然だ。理解されようとしてこなかったんだから。話すというコミュニケーションツールを放棄してきたのだから。
動けないでいるわたしに代わって、母が前に出て屈んだ。
「そうだよ。実里、本当はお話できるんだけど、ちょっと恥ずかしがり屋なんだ。それでも仲良くしてくれると嬉しいな」
母の言葉に、クラスメートたちは素直に頷いていた。やめて。余計なこと言わないでよ。それに、恥ずかしがり屋という言葉にも違和感を覚える。保育園の頃、町の保健センターにつれて行かれたことが何度かあった。積み木で遊びながら、両親と保健師さんの会話を聞いていた。幼いわたしには理解できないことが多かったが、人見知りや恥ずかしがり屋といった言葉はたびたび耳にした。そんな言葉が、自分には当てはまらないと感じる。保育園の先生は、他の子と遊びたがらないわたしのことを引っ込み思案と連絡帳に書いた。それもなんだか違うと思える。引っ込み思案だから喋らず一人でいるんじゃない。喋れないから引っ込み思案になってしまうんだ。
わたしはその場から早く離れたくて、母の服を引っ張った。母は小さくため息をついて上体を起こし、工作室へ歩きだした。
「みんな、実里のこと気にしてるじゃない。きっと、仲良くしたいって思ってくれてるよ」
「……」
そんなわけがない。一緒にいても楽しくない奴と、友達になんてなりたいわけがない。ただ、わたしが喋ったことが珍しかっただけだ。彼らの反応は、クラスメートに対するそれじゃなかった。校庭に野良犬が紛れ込んだとか、教室で育てているサボテンに赤い花が咲いたとか、そんなちょっとした非日常が起こったときの反応に近かった。
「そういえば、サンタさんにお手紙は書いたの?」
「……まだ、途中」
手紙は、今日家に帰ったら書き上げるつもりだった。空白の数行を埋めるはずだった。……でも、書くことはなくなった。書けなくなった。
「そう。プレゼント、決めた? ゲームソフトが欲しいんだよね?」
「……いらない」
「え?」
「何も、いらない」
「……実里?」
「わたし、先に帰る」
「え、ちょっと、」
手首を掴もうとする母を振り切り、廊下を引き返す。母は、追ってこなかった。振り返りはしなかったが、おそらく立ちすくんでいたことだろう。
廊下を歩む足は徐々に速くなる。苦しい。息苦しい。学校が水槽なら、わたしたちは金魚だ。みんなはエラを使い上手に酸素を取り込むが、喋れないわたしのエラは体にべったり貼り付いて動かない。早く、エラを剥がして。呼吸ができないんだよ。誰か、助けてよ。
今日も、朝から雪が降り続いていた。連日の降雪で、道路脇の雪壁はわたしの身長を優に越している。
側溝は溢れ、道路は足首の高さまで冠水していた。じゃぶじゃぶと、長靴で水をかき分けるように進む。長靴に穴が開いていたのか、それとも上から雪が入ったのか、足先が濡れ感覚を失っていった。
大通りから外れると、辺りは途端に真っ白な雪景色に変わる。消雪パイプのない農道は、少し前に除雪車が通ったらしい。硬く敷き潰された雪の上に新雪が薄く積もっていた。
とても静かだった。雪は、音を吸い込む。喧騒を掻き消し、静寂をもたらす。
圧雪された路面で足を滑らし尻もちをつく。お尻を押さえながら立ち上がると、涙が零れた。雪で詰まった側溝のように、行き場のなくなった涙は止めどなく溢れ出た。
足の裏で地面を掴むように、雪をしっかり踏みしめながら進む。流れ落ちる涙はそのままに。鼻が詰まり呼吸が荒くなり、吐く息は白さを増した。
教卓の前に立つわたしを見つめるクラスメート。
ヒソヒソ話をする保護者。
目を見開きこちらを指差す彰くん。
隣で新聞を読み上げる佐賀先生の、残念そうな横顔。
ニヤニヤしながらわたしを取り囲む上級生たち。
授業中、わたしに無理やり答えさせようとした非常勤教師。
わたしが何も言い返さないのをいいことにいじわるをする亜希ちゃん。
返事をするまで連絡帳を返してくれなかった保育園の先生。
そして、俯いて教室を出ていく母の背中。
わたしに対する、様々な人の反応が思い起こされた。喋れないことで異物のように見られ、人を苛つかせ、そして悲しませる。最低だ。こんな自分、大嫌いだ。
奥歯をギリッと噛み締める。
サンタさん、ゲームなんていりません。でも、本当にサンタさんがいるのなら、プレゼントをくれるのなら、わたしに声をください。学校で使える声をください。友達が欲しい。“普通”が欲しい。そのためには、声が必要なんです。お願いです。誰にも奪われることのない、封じ込められることもない、自由な声をください。
「あああああっ、あああっ、あああああああ!!」
ほら、わたしはこんなにも声が出せる。どうして、学校はわたしの声を奪うの。どうして、奪われなくちゃいけないの。
たくさんの「おはよう」。「はい」という返事。会話に入れず発せられなかった言葉。
声に出せず積もり積もった言葉は、叫び声となって雪崩落ちる。
「あああああああーーーーーー!!」
わたしの声は、涙は、真っ白な雪に吸い込まれていった。