3話 魔王軍主任研究者
会議が終わると、娘に会いたい気持ちを抑えフラウのいる研究室へと足を向ける。
エリザに見ていてくれるよう頼んでおいたので心配はいらないのだが、やはり自分の目の届かない所にいる時はなんとなく落ち着かないものだ。さっさと仕事を終わらして部屋に戻ろうと、廊下を進む歩を速める。
彼女の研究室は地下の一室にある。
地下層に続く階段を下りると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。この地下スペースは主に倉庫や牢屋などに使われているが、廊下の突き当たり、端の一室が彼女の研究室としてあてがわれている。その入り口までの廊下には、彼女の発明品の一つである魔導ランプが定間隔で備え付けられ、日光も入らない地下層を明るく照らしている。
目当ての部屋の入口に辿り着き扉をノックしてみるが、反応はない。
入り口をそーっと開けて中を覗き見ると、乱雑に器材などが置かれたテーブルの向こうに、なにやら必死に紙にペンを走らせる彼女の姿を見つけた。
中に入ると、足場に気を取られてしまうほどに物が床に散乱している。
(相変わらず汚いな…)
部屋の中ほどまで来てみるが、彼女は一向に此方に気付く気配はない。
痺れを切らして、彼女の背中に声を投げる。
「おい、様子を見に来たぞ」
「ん?」
高速で何かを書き殴っていたペンを止め、彼女はやおら此方に振り返った。
長く黒い艶のある髪がふわっと宙を泳ぐ。
風に乗って、何か花のような香りが鼻孔をくすぐった。
「ああ、君か。久しぶりだね、どうしたんだい急に」
そう言って、彼女は目尻を下げた。
「今日会議を休んだだろう?心配になって様子を見に来たんだ」
彼女は「ああ」と納得したように頷いて、それから「心配無用だよ」と付け加えた。
「ちょっと手が離せない研究があったんだ」
彼女が指し示した先には、器材がごちゃごちゃに置かれたテーブルが見える。何か実験でもしていたのだろうか。そんな痕跡も見えなくはないが、自分には散らかっているようにしか見えない。
視界の端には積み上げられた彼女の服や、無造作に置かれた彼女の発明品の数々が目に映り思わずため息が出てしまう。
「…もう少し片づけたらどうだ」
「これでいいの。散らかっているわけじゃなくて、ちゃんと在るべき場所に置かれているんだ」
「………」
部屋の中を見渡しても何ら規則性を見つけることはできなかったが、まあ天才を理解しようとするのは愚策だろう。彼女には彼女のルールがあるらしい。
「エリザも最初来た時は整理しようとしてくれたんだけど、やっぱりこの感じが落ち着くから断ったんだ」
満足そうな笑みで、フラウは周囲を見渡して悦に浸る。
「ああ、そういえばあいつとはどうだ?最近忙しいから代わりに行かせてたんだが…」
先日からエリザをフラウの世話役としてこの部屋に派遣していた。世話役と言っても、滅多に部屋から出てこない彼女の生存確認をするだけなのだが。
マメで綺麗好きな彼女がこの部屋を見たら言葉も出ないだろう。
「彼女もこの部屋を理解できないようだったけど、最後は渋々諦めてくれたよ。僕もこの部屋だけは譲れないからね」
「そ、そうか…」
どうやら、エリザの潔癖よりフラウの執念の方が勝ったようだ。
「でも、その代わりによく僕を水浴びさせたがる。服を洗濯してくれるのはありがたいんだけど…」
「そんなに匂うかなあ」と呟きながら、くんくんと体のにおいを嗅いでいる様子は最早一人の女性の姿としては残念としか言いようがない。
だが、以前はこの部屋のようにじめじめした匂いがフラウからしていたのに、今日は何か花の香りを漂わせているのには驚いた。きっとエリザから貰った石鹸を使っているのだろう。
「体を流すのは当然だ。最低でも湿らせた布で拭うくらいはしなさい」
「めんどくさいんだよねえ…体綺麗にしてもどうせ誰にも会わないし」
「今会ってるだろう」
「君は別だよ。長い付き合いでしょ?お互い気なんて遣わないじゃないか」
「おまえな…そりゃそうだけど、友人からカビた臭いがしてきたらやっぱり気になるだろ」
「え、うそ、そんなにおいする?」
慌てて再び体のにおいを嗅ごうとするのを頭を振って否定する。
「前の話だよ」
「なんだ、びっくりした」
「今は、花の香りか?何の花だかわからないが、いい香りだな」
「あ、わかる?エリザが花の香りがする石鹸をくれたんだ。何の花だったけかなあ…」
彼女は腰まで伸びた後ろ髪を手で鼻に近づけると、クンクンとにおいを嗅いでいた。
難しい顔で唸っていたが、諦めたように「わかんない」と言い手を放すと、それはサラサラと手からこぼれ胸元へと落ちていった。
そんな様子をぼんやりと眺める自分を余所に、「ああそうだ」と手を叩いて彼女は部屋の隅から何かを取り出してきた。
「君に頼まれたものだけど、隙間の時間に作っておいたよ」
そう言って取り出したのは、子供用の玩具である。実は先日彼女に時間の空いた時でいいからと頼んでおいたのだ。
「おお…!いい出来じゃないか!ありがとう!」
「この貸しは大きいよ?」
「いつも世話になっているからな。おれができる事なら何でもしよう」
「ほんと?じゃあ考えとくね」
彼女は子供っぽい笑みを浮かべた。
「また来る。飯はちゃんと食えよ」
「うん。アイちゃんにも宜しくね」
「ああ」
そうして、おれは研究室をあとにした。