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3.

 芽菜はぼんやりと、思いを漂わせ、外に目をやった。

 外ではまた雨が降り出していた。天気予報では今日一日雨と言っていたから、皆、傘を持っている。

 いまいましそうに空を見上げる中年の男。何もなかったように傘をさし、待ち続ける女。傘があちこち行き交う。

 それぞれの人が別の人と、同じ時間、同じ場所で会おうとしている。そう思うと、芽菜の心はまたきゅんと引き締まる。それは、言葉にできない感覚だった。そして、その感覚は、なぜか芽菜を虜にするのだった。

 遠目にいてさえ、待つ人の心の渦が伝わってくる。心許なく、不安で、期待が混じっていて、自分の求める照準を探し、彷徨う視線。

 その視線、思いが交錯する場所では、もっと強く、人の間に流れる思いの綾が感ぜられる。待つ人の気持ちが織りなす綾の中にいたい、絡め取られたい、と、芽菜は切に願った。

 祥吾がいないと分かっている日は、そうやって外に出て、ただ待っている人の中で過ごす。そんな生活を始めてもう二年が過ぎようとしていた。


 その日の帰り、宮崎台の改札口で、珍しくばったり祥吾と一緒になった。

「やっぱ、君だったのか」

 祥吾は、眼鏡を通して、細い目をいっぱいに見開いた。

「偶然ね」

「どこに行ってたの?」

「渋谷」

「ふうん…」

 祥吾が、タータンチェックの傘をぱっと暗い空に開いた。

「だれと?」

「一人」

「ふうん…」

 芽菜がサーモンピンクの傘をぱっと開いた。

「君さ、このごろ、いつも家にいないだろ」

「だって、家にいてもつまんないもん」

「さっき電話したんだぜ、固定電話に答えないからケータイにもしたのに…、なんで出ないの?」

 外出先で電話の受け答えをするのが苦手で、芽菜はいつもケータイの電源をオフにしてしまうのだ。祥吾になんと答えたらいいのかわからなくて、芽菜は自然とうつむいた。

「ね、俺に言えないことしてる?」

「ま、まさか…」

 思いがけず、祥吾がじっと芽菜の目を見据えて

「なら、いいけどさ」

 と笑った。

 それから家までの道のり、言葉は無し。

 それがいつものスタイルだった。

 十二階建てのマンションの三階。エレベータ。二人で並んで乗り込むと、やはり言葉は出て来なかった。

 玄関に先に入った祥吾が、電気をぱっと点け、まるでそれで閃いたように、芽菜が言った。

「ね、明日、早く帰るって言ってたよね。どこかで待ち合わせしない?」

「外食ってこと?」

「まあ…、そうなるかな」

「俺、外食したくないな」

「そう…」

 この日の会話はこれで最後だった。

 滅多に家で食事をしないので、帰る時には必ず電話をくれる。帰れない日の日程もきっちり教えている。その点だけはマメだった。

 祥吾が夕食に帰る日は帰るで、まあ張り合いはあった。誰かが食べるなら、夕食も作る気がするというものだ。翌日、芽菜は、鼻歌まじりに、四時くらいから夕飯の下準備を始めた。祥吾の好物のロールキャベツにしようと、大きな鍋に水をかけたところだった。

 固定電話が鳴った。

「あ。俺。悪い。今日、帰れなくなった」

「夕飯は?」

「帰れないから、外で食べるよ」

「外食したくないって言ったのに…」

「しょうがないよ。仕事がらみだもん」

(連絡があっただけいいじゃないの)と、芽菜は思った。

「明日は?」

「うーん。わからないな」

「そう」

 と、受話器を置いて、ふうとため息をつく。

 待ち合わせする人の中が恋しい。一人でいると心が分散していく。芽菜は食事の支度をやめて、ただぼんやりとキッチンのテーブル席に座っていた。

 今日はもう簡単に夕食を済ませて、今作っているものを明日の夕食にしようか…。

 そのままやる気がなくなり、ただただ時間が過ぎていく。

「ああ、待つ人の所に行きたいな」

 芽菜はつぶやいた。

 こんな日、ぽっかり心に穴があいてしまったような日にこそ行くことが必要なのに…。

 芽菜はキッチンのテーブルに頭を乗せてみた。ひんやり冷たい。その冷たさが身に染みた。

 

 それから数日後、祥吾はまた出張と缶詰生活とで一週間も帰れないという。渋谷に出る日が月曜日から三日続いた。出かける時間はだんだん早くなり、その水曜日は、ランチを済ませると午後一時には待ち人の中に紛れていた。

 休日よりはぐっと人が少ないけれど、毎日だれかしら違う人が待っている。同じ風景の中に違う人が動いている。その人の中にいると安心する。そのままただこの場所で時間が過ぎるはずだったのに…。

 午後四時を過ぎた頃、待っている人のいない芽菜の前に男が立ちはだかった。

「失礼します」

とべったりした整髪料で髪をなでつけて、うしろでお団子にしている細い男が、やけにていねいにおじぎした。光沢のある濃いグレーのスーツを着込んでいる。

「あの、ぼく、さきほど一時間くらい前にもここを通ったんですけどね、あなた、ずっと待っているっしょ」

男は細い鋭い目で芽菜を刺すように見つめた。芽菜はぐっとつばを飲み込み、目をぱちくりしていた。

「それが! 昨日も見かけたんですよね。あなた! やっぱりずっと待ってたっしょ」

 いったい、何を言いたいのか、なんと返事したらいいのかわからず、芽菜はただ固まっていた。

「ねえ、そんな、君のような美しいひとを毎日待たせる男は、放っておきましょう」

 と、男は芽菜のほうにぐっと顔を近づけ、耳のそばで

「そんな男より、ぼくと遊びましょう」

 と言うと男は悪びれもせず、芽菜の腕をぐっとつかんだ。

「あなたのことが気になってしかたがなかったんすよ。昨日から! それが! 今日も会えたなんて奇跡っす。もう、これは運命に近いっす」

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