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懐古堂奇譚 vol.2

作者: 冬月 真人

「あなた、神様は居ると思いますか」

小夜子の問い掛けに振り向いた胤篤(たねあつ)は首を傾げて天井のシャンデリアを仰ぐと「どうだろう?」と答えた。

ソファーに腰掛けて編み物をしていた小夜子はその手を止めて胤篤を見た。

そして「私は居ると思いますわ。だって命を届けて下さったのですもの」と言って愛おしそうにお腹をさすった。

「小夜子!」

胤篤は妻の名を叫ぶと文字通りに飛び上がって喜んで見せた。

「ふふ、3ヶ月ですって」

「だと・・・そうか4月、桜の頃か。男なら胤春、女なら桜子なんてどうだ」

「気が早いですよ、まだまだ時間はありますから」

小夜子はそう言って微笑むと再び編み物を始めた。

「それは何を編んでいるんだい?」

まだ残暑厳しいこの時期にと思い胤篤が尋ねると「この子の靴下を」と小夜子が答えたので「君もずいぶん気が早い」と笑った。


衣料生地の卸しを営む胤篤の家は浅草にあった。

店舗兼住宅。

倉庫は川向う、吾妻橋を渡った所に大きな蔵を買い取って在庫を置いていた。

だが最近はその在庫もほとんど無い。

上質の生地は軍が接収してしまい、残った生地も【贅沢は敵だ】のスローガンの下にほとんど動きが無い。

元々胤篤の店は海軍の制服の縫製をする工場に生地を納めていたので軍にも僅かに顔が利いた。

お陰でタダ同然よりはマシ程度の報酬は接収の際に貰えたので米英との戦時下にある今でもさほど苦しい生活はしていなかった。

それでも癒着や賄賂に近い出費が官憲相手にかさむ為、戦前のような豊かな暮らしではない。

名家ではない成金の類はそうして赤紙から逃れていた。

同じ成金でも軍需により近い者ならばその限りではなかったが胤篤程度の商売ではそうするしかなかった。


だがそれも徒労になる日が来た。

青い空と白く濃い雲が消え、どこまでも透き通るような碧空に薄い霞のような雲がかかり始めた頃。

その日、胤篤が用意した心遣いと酒宴は固辞された。

時世に似つかわしくない上等な背広を着た男達は「もう例外や特権は無い」と胤篤に告げた。

そのかわり後方の兵站に回すと約束して「済まない」と何度も言った。

出征を告げる赤紙が届いたのはそれから2ヶ月後のことだった。

きっと彼らなりに手を尽くして遅らせてくれたのだろう。

それでももう徴兵は不可避だった。

玄関での大きな呼び声に出ると郵便配達員。

「おめでとうございます!」

そう言って渡された召集令状を「ありがとうございます」と受け取った小夜子はドアを閉じたその場で崩れるように倒れた。


出征前夜。

「もうすぐですよ」

編み物をする小夜子に「どれ、楽しみだな」と胤篤が近づく。

小夜子のお腹に耳をあてると中から蹴られた。

「早くお父さんに会いたいとはしゃいでいるのですね、きっと」

小夜子は愛おしそうに大きな腹をさすって微笑んでいた。

「男なら胤春、女なら桜子だ」

「はい、いい名前です」

小夜子は溢れる涙がこぼれないように天井を仰いだ。

灯火管制で一灯を残して消えているシャンデリアが滲んで幾つもの輝きに見えた。


約束通り胤篤はフィリピンに展開する軍の兵站に配属された。

後方の補給部隊と言えば安全に聞こえるが、苛烈な米軍の攻撃の前には前線も後方も無かった。

それどころか戦闘を前提にしない補給部隊にはまともな銃火器も無い。

敵に遭遇すれば鴨撃ちの的も同然だった。

連戦連勝破竹の進撃などという本土にもたらされる報道の全てが虚構だった。

ここには皇国の勝利や栄光は無い。

累々たる同朋の屍だけがあった。

米軍の猛攻は昼夜を問わず、銃撃も爆撃も止むことは無かった。

三日三晩寝ずに走り続けた胤篤はようやく米軍の上陸地点の反対の海岸に辿り着いて友軍の輸送船に収容された。

そこで収容された人員で新たに小隊が編成されて、胤篤は転戦という形でフィリピンを離れた。

その数時間後、胤篤の乗った輸送船は米軍の駆逐艦に運悪く遭遇した。

そしてなす術も無く撃沈された。

輸送船に弾薬が積んでいなかったことは幸いだった。

船内に居た傷病者は助からなかったが、甲板や船内の上部に居た多くは海に活路を見いだせた。

胤篤も自ら海に飛び込むと沈む船の起こす渦に巻き込まれないよう必死で泳いだ。

やがて精も根も果てた頃、目の前にロープが投げ込まれた。

胤篤にはそれが昔話に聞いた蜘蛛の糸のように見えた。

ロープを身体に巻いたのは覚えている。

だが記憶はそこまでだった。


目を覚ますと不思議な日本人が胤篤を看病していた。

日本人なのか米国人なのか分からない顔。

その不思議な日本人は胤篤に気が付くと自らを「トーマス野口です」と名乗った。

日系のアメリカ兵だった。

「俺は捕虜になったのか」

胤篤がそう悔し気に言うとトーマスは「恥ですか?」と直球で尋ねた。

「家族が後ろ指を差される、死なせてくれ」

胤篤がそう言うとトーマスは首を振った。

「国のために命を懸けた人は誇りです。家族の人、あなた生きて帰ったらきっと喜ぶよ」

微妙な発音の日本語に胤篤は苦笑いしながら「伊坂胤篤だ」と名乗った。

そして終戦のその日まで胤篤は捕虜収容所に収監された。

日系人が財産を没収されて専用の収容所入れられて居ることと、アメリカへの忠誠を示す為に志願した日系アメリカ兵の多くは白人の盾として戦場で使われていることを胤篤は収容所で知った。

トーマスの言葉が重く感じた。


1月の半ばを過ぎた頃に最初の便りが届いたが、もうそれきり。

胤篤からの音信は1通で途絶えた。

そんな小夜子のもとに訃報が届いたのは2月の末だった。

後日懇意にしていた軍関係者が「遺体は確認されていないから希望を」と気休めにもならない励ましを言って来たが小夜子は抜け殻のように生返事を返すだけだった。

家の外では熱狂的な愛国者が英霊となった胤篤に万歳と叫んでいる。

(死んでない死んでない、あの人は生きている!)

小夜子は耳をふさいで頭を左右に振ると心で必死に叫んで小さくしゃがみこんだ。

気が触れそうな小夜子だったがその度にお腹が蹴られて我に返る。

「大丈夫」

まだ見ぬ我が子にそう言われているような気がした。


3月10日。

深夜に鳴ったサイレンに起きた小夜子が防空壕に避難しようと外に出ると空が赤く燃えていた。

空襲警報が鳴った時にはもう東京は炎の海に沈んでいた。

4発のプロペラのこもるように反響する音が焼夷弾が空気を切り裂く音に紛れて聞こえる。

B-29だ。

高度1万メートルを飛ぶこの爆撃機を墜とせる戦闘機は日本には無い。

しかしその高高度を飛ぶ爆撃機が今夜はリベットが見えるほどに低く飛んでいた。

その数百機の大編隊が東京の上空を我が物顔で飛行する。

遊覧の途中でゴミを捨てるかのように焼夷弾をばらまいて行く。

夜空に幾条にも伸びる炎の線がまるで雨のようだった。

その火の雨が街を、人を焼き尽くした。

全てを呑み込んだ炎が天をも焼き尽くそうと火炎の竜巻となった。

竜巻はまるで生き物のように縦横に暴れまわり地上に地獄を描いた。

通りは小路に至るまで火の粉の川となり、灼熱から逃れようと辿り着いた隅田川は炎の運河となっていた。

もう逃げ場は無かった。


蝉しぐれの中、戦争が終わった。

焦土と化した日本が無条件の降伏を受け入れたのだった。

手続きや引き揚げ船の順番待ちで胤篤の帰国は1946年の春だった。

帰国前、胤篤は小夜子に手紙を宛てた。

着いた港で小夜子を探したが見つけることが出来なかった。

胤篤は真っすぐに浅草の自宅に向かった。

まだバラックの建ち並ぶ中を川や橋、駅や通りの名を頼りに我が家を探した。

ようやく探し当てた我が家には何も無かった。

かろうじて残った石造りの門の土台が片方だけあった。

胤篤はその門から中に入りかつて玄関があった辺りに立つとポケットから小さな鍵を取り出した。

目を閉じて見えないドアに差し込んで回す。

ノブを回してドアを開ける。

「あなた、神様は居ると思いますか」

頭に響くように、耳元に囁きかけるように聞こえた。

ハッと目を開けるがそこにはただただ荒れ地とバラックがあるだけだった。

「居やしねぇよ、そんなもの」

胤篤はその場に崩れて泣いた。


大量のヒロポンを打って冷たくなっている胤篤が自宅の跡地で見つかったのは翌朝だった。

手には組紐に結わえられた鍵が強く握られていた。




(せい)さん、本当にこのままで良いの?」

ドールハウスを覗き込んだ沙綾が怪訝そうに尋ねる。

「いいんですよ。この場所が彼らの家なのですから」

「沙綾、誠一郎さんは彼らにとって一番良い方法をしてくれる・・・でしょ」

眞綾は沙綾にそう言ったあと、確認するように誠一郎を見た。

「自分たちで納得してから旅立つのがきっと良いのだと思います」

誠一郎はそう言って二人の頭を撫でた。

金細工のような髪が揺れた。


「もうすぐですよ」

ドールハウスの居間のソファーに編み物をする若い女が居た。

「どれ、楽しみだな」

上品な仕立ての背広を脱いだチョッキ姿の男が女の腹に耳をあてた。

大きく膨らんだ女の腹が動いて見える。

「早くお父さんに会いたいとはしゃいでいるのですね、きっと」

女は愛おしそうに大きな腹をさすって微笑んでいた。

「あなた、神様は居ると思いますか」

女の問い掛けに男は優しく笑った。

「ああ、居るさ。私のもとに君とこの子を連れて来てくれたんだもの」





                                     

                ー了ー


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