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韓流スターの妹  作者: 海之本
第1章 春
8/8

8 桜と決断

 真っ白い部屋。

 白いベット。

 横たわっている彼。

 額の大きな傷。

「これが頭ん中にあったんや」

 差し出されたガラス瓶。

 透明な液体、桜色の卵、ぷかぷか。

 彼を見る。

 痩せこけた体。

 繋がれたチューブ。

 虚ろな目。

「ねえ」

 彼は動かない。

「ねえ、私だよ?」

 動かない。

 心肺停止警報、響く、響く。

 白く濁った目、涙、一筋。

 コードを引きちぎる。

 消えない警報、響く、響く。

「会いたかった」

 耳を塞いだ。

 それでも聞こえる。

「一緒にいたかった」

 叫んでも叫んでも、煩わしい音は消えない。

 もう遅い。遅かった。

 遅かったんだ。





 目を開けると、カーテンの隙間から朝の光が滲みだしていた。硬直していたせいか、体の節々が痛い。

 一緒に暮らそう。その言葉がずっと、重たくてたまらない。だけど、まさかこんな夢まで見るなんて。

 重たい体を無理矢理引き起こし、のろのろと身支度を整え、家を出る。外に出ると、まるで私の気持ちを映し出したかのような曇り空だった。灰色の雲の下、満開の桜が儚げに揺れ、ひらひらと花びらが舞っている。空が暗いせいなのか憂鬱なせいなのか、美しいなんて思えなかった。彼なら、この空の下でも綺麗だと思うのだろうか?

  暫く考えてみるも、その答えは分からなかった。彼がいったいどういう人間で、何をどのように感じながら生きているのか私は知らない。彼の住む国のことも、家族のことも、仕事のことも。何も知らないから、彼ならどうするかなんて全く見当もつかない。なのに、どうしてこんなに私の意識の中、現れては乱すんだろう。

 悶々とする自分に嫌気がさして、足早に桜から遠ざかった。

 いつものように駅に着き、いつもと同じ時間の電車に揺られ、いつもと同じように人混みに押されながら改札口を出る。そこにはいつものように、人の川がずっと先まで続いていた。生まれて初めて蠢くこの流れを見た時、なんだか人が人とは思えず怖かった。この流れに踏み込んでしまったら、自分の存在が消えてしまうような気がした。だからいつもこの波から出来るだけ離れて歩き、時間はかかっても、遠回りをしてでも人のいない道ばかり選んできた。この人混みの蠢きに過ぎない自分を受け入れたのは、いつだったんだろう。

 流れに流され、人と同じ方向へ同じ流れに乗って同じ忙しない歩調で遊歩道を歩き始めると、ぽつり、頬に冷たい粒が当たった。その瞬間、ヨンウォンの泣き顔が浮かんだ。


「こりゃ、ヨンウォンの呪いだな」

 

 そう呟いてみて、納得した。そうだ、あの夢のせいで気づいてしまった。もうすでに、彼の存在はそれ程にまで私に食い込んでしまっているのだと。なかったことにすれば、知らなかったことにすればすべて元に戻るんだと言い聞かせても、むくりむくりとヨンウォンの悲しげな顔が脳裏に浮かぶから、堪らなくなって頭を振り、逃げるように人の流れをかいくぐって職場へ向かった。

 仕事に没頭しよう。他のことが考えられなくなるぐらいに。だから普段なら手を出さないことにも手を出して、どうでもいい場所まで意味もなく掃除をしてみたり、手伝うふりして他人の仕事まで引き受けてみた。もう昨日のことは考えないようと。

 だけど、だめだった。集中できず、浮かぶのは夢の中のあの苦い後悔と、ヨンウォンの震える温もり。考えないよう意識すればするほど、落ち着きが苛立ちに変わっていく。そのせいで手当たりしだい失敗して同僚たちに迷惑をかけた。後悔と苛立ちが渦巻き、何をしてもその苦痛は付きまとい、次第に私を追い立てた。

 結局、昼休みを終える頃、私は会社を早退した。


 外に出ると、小雨が降っていた。傘を持って来なかった私は、足早に駅へと向う。

 行く場所はもう決まっている。あのホテルだ。まだホテルにいるなんて保証はないが、連絡先を訊かずに逃げ出した私には、他に会う方法なんて思いつかない。いなければ、それでいい。それ以上のことは、するつもりはない。

 昼休みを終えたばかりのオフィス街に繋がる陸橋は人通りが少なく、電車にもスムーズに乗り込めた。車内は随分とすいていて、皆が思い思いの時間を過ごしている。

 会って、どうするかなんて考えてもいない。だけど自分の心に急かされるままに、電車を乗り換え見覚えのある道順をたどりホテルへたどり着く。ホテルの回転式ドアをくぐりぬけると、以前と変わらない広く高級感あふれるロビーが迎えてくれた。だがいざ来てみれば、ここからどうすればいいのか見当もつかず、大きなシャンデリアの真下で足を止めた。


「ホンマ、お世話なりますわ!」


 唐突に大きな声がロビー中に響き渡った。ロビー中の人間が振り返ったが、笑い声はやまない。


「この声・・・」


 訛った不自然な発音の関西弁とひと際大きな声。キム・ジンに違いない。声のする方へ足早に向かっていくと、彼はソファにどかりと座り、注目を集めていることなど気にも留めず、大口をあげながら携帯で話していた。傍まで駆け寄ると、目線をあげたキムは瞬時に目を見開いて驚いた。


「!?」


 息を詰まらせたキムに軽く会釈する。しばしキムは口を開けて、茫然と私を見上げていた。


「あ!いやいや、スンマせん。ちょっとベッピンさんいましてな。見惚れてしもたんですわ」


 あはははと笑ってキムは電話の相手に誤魔化しながら、私に向かって待っているようにと手をあげ合図した。ただヨンウォンの居場所さえ教えてくれればそれでよかったのだが、言われたままに隣のソファに腰をかけた。


「今日の撮影お願いしたンノモ、日本デビュー飾る重要なスタート、そちらやったらヨンウォンのイメージ、上手いこと引き出してくれるって信じとるからデッセ?今からヨンウォンとそちらに向かいますよって、よろしゅう頼んますわ」


 すぐに調子を取り戻したキムが再びがはははと笑いだす傍で、どうやらヨンウォンは今から仕事だということを悟った。このまま待っていてもヨンウォンに会えないかもしれない。それならそれでいい。諦めがつく。下ろしたばかりの腰を上げようとして、ふとキムの手に握られたルームキーらしきカードに目が留まる。じっと目を凝らして見ていると、それが四ケタの数字が書かれているらしいことと、10から始まっていることが分かった。恐らく10階にあるどこかの部屋なのだろう。

 一か八かだ。私はそっとソファから立ち上がった。電話に夢中でこちらの様子に気がつかないキムを後にし、そっとその場から離れるとエレベータホールへ向かった。

 ボタンを押すとすぐに頭上のエレベータランプが点灯したが、まだ扉は開かない。少し待ってもまだ開かない。きっとどこかの階で誰かが乗り降りしているのだろ。分かっていても、とてつもなく長い。待てば待つほどどこからかやってきた緊張が重みを増し、心臓の鼓動が速くなっていく。何度も、何度も深呼吸を繰り返した。

 永遠にも思えた時間はエレベータランプの点滅と共に終わりを迎え、目の前の扉が左右に開いた。人影が現れ、ジーンズやジャケットを来た男たちやカジュアルな姿の女性たちが降りてゆく。高級ホテルには不釣り合いに思えたが、私だって言えたものじゃない。気にも留めず、彼らが出るまで端によって入り口を譲る。

 幾人かが出たことを確認し、もう誰もいないのかとエレベータ内に視線を向けると、奥にまだ二人いた。そのうちの一人はサングラスをかけた背の高い細身の男だった。白いTシャツにジャケットを羽織り、灰色のジーパンをショートブーツの中に入れ、気だるそうに壁にもたれている。心臓が飛び跳ねた。ヨンウォンだ。

 緊張で固まる私とは裏腹に、ヨンウォンはまだ私に気が付いていない。私は息を殺して、そっと壁際に身を寄せた。気付いてほしいような、気付かないでいてほしような。そして思った。もしこのまま私に気づかなければ、もう帰ろう、と。今度こそ、すべてを忘れてしまおう。

 一人が降りるのと同時に、ヨンウォンはポケットから手を出し、ゆっくりと身を起こして顔をあげた。そして数歩進み、エレベータとロビーの境目を跨いだその時、ヨンウォンの足が止まった。一瞬の静寂。

 ヨンウォンは、閉まりかけた扉をばんと手で押さえ、サングラスをはぎ取るように外した。まん丸に見開かれた目が、私を食入るように見ていた。


「エ、エイナ!?」


 気づいた。私に気づいた。内心嬉しさが湧いたが、悟られないように軽く会釈を返す。だが、心底驚いているヨンウォンは口をパクパクさせている。


「ど、どうして?」


 どうしてだろう?ずっと考えているけれど、分からない。だけど、今ここにいるのはヨンウォンを兄として受け入れたからじゃない。少なくとも、今の私は彼を兄だなんて呼ぶことは絶対にできない。だけど、どうしても目の前にいるこの存在ヨンウォンが気になってしまうのだ。今の気持ちを何と言えばいい?


「******?」


 どこからか聞こえた異国の言葉に、ヨンウォンははっと私の後ろに顔を向けた。私も振り返えって見ると、すでに降りた幾人かが怪訝な顔でこちらの様子を窺っている。ヨンウォンは一歩エレベータから出ると、彼らに向かって韓国語で何かを告げた。ヨンウォンの後ろで、エレベータが静かに閉じてゆく。一人が分かったというように手をあげると、他の者も大して気にも留めずぞろぞろと歩き始めた。スタッフなのだろう彼らを見送ると、ヨンウォンは私に向き直り、ぎこちない笑みを浮かべた。


「風邪ひきますよ?」


 ヨンウォンは自分の髪をつまんで見せ、そして私の頭を指差した。自分の髪を触ってみると、小雨など気にせず歩いてきたせいか確かに濡れていた。


「だ、大丈夫」


 こんなことで風邪を引くほど、やわじゃない。だけど、気遣われていることに気恥ずかしくなり、目を反らす。


「雨、降ってる。でも、傘、持ってないですか?」


 顔を覗き込まれ、ヨンウォンの視線を額に感じる。その目を見ることが出来ず、頷きながらさらに下を向いた。

 それでも、会えば分かると思っていた答えは、まだ何も出ていない。ふと頭の中に浮かんだのは、今朝見上げた「桜・・・」。憂鬱な雲の下でも、ヨンウォンと見れば少しは違って見えるのだろうか。


「サクラ?」


 オウム返しに言われ、自分がいつの間にか呟いていたのだと気づく。ヨンウォンがきょとんとした目で首をかしげた。これから彼には仕事があると分かっているのに、今にも一緒に見に行こうと言いだしそうになる自分に、ただ恥ずかしさばかりが募る。


「な、何でもないです。だ、大丈夫、大丈夫」


 両手を振って否定する。それでもヨンウォンは首を傾げたまま、不思議そうに私を見つめ、目をぱちくりと瞬く。かと思いきや、悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべた。


「今から行きましょうか?来てください」


 ヨンウォンは私の返事を待たずに歩き出す。


「え?ちょ、ちょっと!」


 思わず足が勝手に彼の後を追う。それでも追いつけないぐらい、彼は足早に歩く。


「ねえちょっと!どこ行くんですか!?」


 訳が分からずその背中に抗議する。ヨンウォンはくるりと振り向くと、おいでおいでと手を振る。


「早く、早く!」

「で、でも」

「年上の言うこと、聞きましょう」


 キラキラと輝いた目でヨンウォンはそう言うと、さっと私の手を掴んだ。雨と緊張で汗ばんでいることを知られたくないと思ったが振りほどくこともできず、なすがまま手を握られる。硬くて薄い、温かい手の平。手の甲まですっぽりその指に包まれ、思ったより大きな手だと思った。

 ヨンウォンに引っ張られるまま、足早にロビーを横切る。キムたちの横を通り過ぎたその時、顔をあげたキムと目が合った。

 あ、見つかった。そう思った。私たちを追い掛けるその視線と顔が、まるでスローモーションのように動いて見える。

 ヨンウォンもキムが見ていることに気がついたのか、さらに歩く速度をあげた。それでも力を入れていない私の右手は、ヨンウォンにしっかりと握られたまま、離れそうにもない。汗ばんだ手を、よくこんなにしっかりと握れるものだ。そんなことを思いながら、速度に追いつけず小走りになった私の足音が、ぱたぱたと広いロビーに響き渡る。きっとこの音で、キム以外の人間も気がついてしまっただろう。

 それでもヨンウォンはすたすたと歩き続け、握られる力は変わらない。握り返してなどいないのに、繋がれた手が離れてしまわないことが不思議だった。

 昨日の少女も、こんなふうに握られていたのだろうか。幼い兄妹の後ろ姿が蘇える。妹を庇った小さな腕。全く似ていないというのに、私の手を握る大きな手があの少年の腕と重なる。

 その時、回転ドアの中へ先に入ったヨンウォンに引き込まれ、その背中にぶつかりそうなった。狭い空間の中で迫る背に、つま先に力を入れなんとか踏みとどまるが、ヨンウォンのジャケットで視界がいっぱいになった。ロビーでの音楽は消え、静寂が満ち、初めて会ったあの時と同じ香りが微かに鼻をかすめる。手の汗ばみが増した。それを悟られるのが嫌なのに、しっかりと握られた手を無理やり振り払うことはやっぱり出来ない。


「****!」


 後ろから扉越しに小さく声が聞こえ、振り向くと、訝しげな顔をしたキムがこちらに向かって走ってくるのがガラス越しに見えた。たぶん、キムはヨンウォンがしようとしていることを見抜いているのかもしれない。きっとこのままヨンウォンを引き留め、連れて行ってしまうのだろう。だがキムが追いつくより早く、引っ張られるようにして外に出ると、ヨンウォンは目の前に止まっているタクシーの窓を叩いた。


「え?乗るの!?」


 思わず声をあげた私にお構いなくドアが開くと、ヨンウォンは手を繋いだまま私を先に乗り込ませ、自分も続いて乗り込んだ。ヨンウォンの向こう側で、キムが慌てたように回転ドアの扉を押している姿が見える。


「行ってください!とにかく出て!」


 ヨンウォンが急かすと、ドライバーはドアを閉め急発進した。その時、トランクルームからぼんぼんという音が聞こえ、振り向くとキムが凄い形相で追掛けている。後部を叩かれたようだったが、ドライバーは気にも留めずあっという間にキムを置いてきぼりにした。頭を抱えたキムの姿が、どんどんと小さくなる。その様子を後ろの窓から覗き込むように見ていたヨンウォンは、悪戯が成功した少年のように得意げに声を上げて笑った。


「YEY!」


 ヨンウォンは繋いだ二人の手を優勝者のように肩の上まで振り上げた。イエーイじゃない。いったい今からどうするつもりだと不安しかない私をよそに、ヨンウォンは嬉しそうに笑っている。


「なかなか、手ごわそうなお父さんですね」


 前方から声をかけられバックミラー越しに運転席を見ると、人のよさそうな体格のいい中年ぐらいのドライバーが、バックミラー越しに笑いかけてくる。


「そうなんですよ。二人、反対されて逃げてきました」


 おいおい、と非難の視線を送る私に、ヨンウォンは笑顔でウィンクする。


「じゃあ、今から逃避行ですか?」


 そう言って、かっかっかっと笑う運転手。


「ばれちゃいました?」


 ヨンウォンも同じように笑った。


「あ、そうだ!」


 ヨンウォンは何かを思いついたように私の顔を見る。


「エイナの住んでる町に行きたいです」


 私は一瞬顔をしかめてしまっただろう。ここは首都圏。私の住む街は隣の県。タクシーで行けばいったい幾らかかってしまうことか。


「ここから遠いですよ?」

「構いませんよ?お二人のためなら、何処までもお供しますよ」


 ケロリとした声で答えたのはヨンウォンではなく運転手だった。内心、お金が入るんだからそりゃそうだろ、と毒づきながらヨンウォンに言った。


「行ってどうするんですか?何にもないですよ?」


 ヨンウォンは、んーと首をひねる。


「サクラ」

「はい?」

「サクラ。エイナ、本当は一緒に見に行こう、誘いに来てくれました」

「別に、そんなこと、は・・・」


 だって私は「桜」としか言っていない。なのに、それだけでヨンウォンは気づき、だからこんなことをしたというのか?

 その時、携帯のバイブ音が鳴りだした。私のじゃない。ピクリとヨンウォンの手が強張るのが、まだ繋いだままの手から伝わった。ヨンウォンはそっと私から手を離し、ジーンズのポケットを探りだした。汗で濡れた手の平が、空気に触れてひんやりとする。手が解放されたことにほっとしながらも、どこか寂しいような気がした。それを隠すように、右手を自分の足の上に引き寄せる。

 ポケットからスマホを取り出したヨンウォンは、その画面をじっと睨んだ。きっとキムだ。驚きと困惑を浮かべたキムの顔が浮かぶ。ところがヨンウォンは、電源を切るとそのままポケットにしまってしまった。


「出ないの!?」


 思わず声を上げてしまった私に、ヨンウォンは不思議そうに目を丸くした。


「エイナと同じことしただけです」

「同じこと?」

「エイナはさっきどうしてホテルにいましたか?まだお昼。なのに、どうして?仕事休んだ、ですね?」

「ち、違う!早退し、た・・・」


 はっとした。休んだわけではないが、休んだようなものだ。そうまでして私が会いに来たことを、彼は気づいていたのだ。ヨンウォンはにっこり笑った。


「そうですか。じゃ、オアイコ!」

「おあいこって…」

「エイナ、自分の仕事より、私とサクラ見たいと言いました。私が行かない理由、ないです。だから、私も同じことする。大丈夫。気にしない、気にしない。これのことも」


 ヨンウォンはスマホをしまった胸ポケットをぽんと叩いた。気にするなと言われても、キムがあんなに念を押していた撮影だ。たぶん、後で大変なことになることぐらい素人の私にも想像がつく。


「今日見れなかたら、今度いつ会えるか分からないです。それに、エイナ、もう会いに来てくれなくなる」


 そう言われ、どきりとする。その通りだった。たぶん、もしあのままヨンウォンがキムと撮影に行っていれば、きっともうヨンウォンに会わなかっただろう。


「大切なものと大切なもの。同じぐらい大切、でも選ぶのが一つなら、私は今しかできないこと、エイナとサクラ、見たいです。だから今から行きましょう」


 '今しかできないこと'

 来年もまたヨンウォンが桜を見れるという保証はない。そんなこと言われたら、もう何も言えなくなった。代わりに私の脳裏に浮かんだのは、街のはずれにある桜並木。きっと桜の名所と呼ばれるところはたくさんあるだろうが、私にはそこしか思い浮かばなかった。


「今ならどこも満開だ。お嬢さんのお気に入りの場所、外国の彼に見せてやったらどうです?」


 ずっと黙って様子を窺っていた運転手に、そう追い打ちをかけられしぶしぶ重たい口で街の名前と大体の場所を告げた。


「そこなら、1時間ぐらいで着きますよ?」


 運転手は嬉しそうに言った。ヨンウォンも、両拳を軽くあげて喜ぶ。


「よろしくお願いします」


 にこにこと笑うヨンウォンを後目に、いったい料金は幾らになるのだろうと考えるだけで恐ろしくなった。だがここはやはり言いだした方が何とかしてくれるに違いない。そう自分にきかせて私は、背中を座席にあずけた。

 それからというもの、色々な質問をなげかけてくる運転手の相手をヨンウォンに任せ、適当にはぐらかされたその会話を、ぼうと窓の外を眺めながら聞いていた。灰色の空と、雨に濡れた車や、物憂げなビルや人。そんな景色をぼんやり眺め、タイヤに弾かれた水音の響く車内に揺られているうち、眠たくなってくる。どれぐらい、うとうととしていたのだろう。ふと目を開けると、タクシーは見慣れた街並みを走っていた。

 四車線の車道。その並びに続く10階建てのマンションや店。車内からは、桜なんてどこにも見当たらなかったがもう近くまで来ている。ファミレスやラーメン屋を過ぎると、学校の門構えが見え、すぐにここだと言って運転手に停めてくれるよう頼んだ。運転手は路肩に車を寄せ停車した。

 ヨンウォンが支払いをしている間に、先に車から降りた。雨はいつの間にか小雨になっていて、霧吹きのようなミスト状の雨が頬を湿らせる。その感覚は逃げるようにホテルを飛び出した時と同じ、体の奥に沁みこんでいくような柔らかくて冷たいものだった。

 あの時、霧雨の中戻らなければ、私は今頃、ヨンウォンに会わなかったことを後悔していただろうか?ふとそんなことが頭をよぎる。

 そんなことはないと、言いきる自信はない。その反面、会ってしまってよかったのかどうかも未だ良く分からない。この先、あの日のことも今日のことも、懐かしいと思う日がくるのかどうかさえ。

 パタンとドアが閉まる音に、びくりとして振り向くと、すぐ後ろでヨンウォンがタクシーに手を振っていた。


「これ、あの人くれました」


 ヨンウォンは嬉しそうに笑って、ビニール傘を掲げて見せる。気の利いた運転手だ。

 あっという間に走り去るタクシーを見送りながら、急にヨンウォンと二人きりだという現実に落ち着かなくなる。


「こっちです」


 私は、先に歩いた。目の前には、車道に面した公園があり、その横に車一台がやっと通れるほどの道が続いている。そこに入っていくと、すぐ、公園から顔を出した桜が私たちを出迎えた。


「おお、サクラ!」


 ヨンウォンは見上げて指を差す。


「この桜から続いている、この先の並木が綺麗なんです」


 私は前方を指差して、先を促した。公園を過ぎた辺りまで来ると、ふいに車の音が聞こえなくなり、人影がまったくなくなった。そして、道のわきの下方に、水かさの少ない川が流れており、同時に車道からは見えていなかった桜の並木が姿を現した。長い腕をアーチ状に川へ伸ばした枝が、道の上に桜のトンネルを作ってずっと先の方まで、丸々とした花房をゆらゆらと揺らしている。


「おお!」


 ヨンウォンは感嘆の声をあげた。


「すごいですね!とてもキレイだ」


 ヨンウォンの言った通り、霧雨の中、何処までも続く濡れた桜が大きな房を揺らし、ひらひらと花びらを散らす姿は幻想的だった。アスファルトの上は、ピンク懸かった花びらが雪のように積り、踏みしめるたび、雨を吸って柔らかくなったそれはまるで雲の上を歩いているような気持ちにさせる。木の下には濡れた芝生が広がり、その向こう側にどこかの社宅が立ち並ぶ。それでも人の姿がまったくなかった。まるで、世界には私たち二人だけしかいないような、そんな錯覚。小鳥がどこかで鳴き、風が吹くたび生い茂った草木や竹の葉が揺れ、さわさわとさざ波のような音が聞こえた。

 私たちは言葉もなく、ただゆっくりと、桜を見上げ歩く。桜のトンネルから見上げる空は、朝の憂鬱さなどどこにもなく、白く、淡く、花房の隙間から洩れる桜色の光は何ものにも染まらない眩しさがあった。手を伸ばせば、ふわりとした感触が伝わってきそうだ。ちらちらと花雪が舞うたび、張りつめていた気持ちがどこかに消えていく。

 どうしてだろう。綺麗だと思える。それが嬉しくてたまらない。

 頬に視線を感じ、横を向くと、楽しげにキラキラと輝く瞳とぶつかった。その目の端が少し滲んでいるように見えた。気のせいだろうか。


「その歌は、なんて曲?」

「え?歌?」


 ヨンウォンは頷く。


「今、歌ってた」


 どうやら、いつの間にか鼻唄を歌っていたようだ。無意識に、それもヨンウォンの前で。私は恥ずかしくなった。


「ええと、これは・・・永奈による、永奈のための、永奈だけの歌」


 ヨンウォンは目をぱちくりとさせる。


「じゃもう一回、歌って?」

「ムリだよ。即興だもん。もう歌えないよ」


 そう言うと、ヨンウォンは面白がって笑った。桜を仰ぎ見ながら笑うその横顔に、胸の中で少しの罪悪感と小さな信頼感がふわりと広がる。この笑顔の向こうで、彼はどれだけの苦労をしたのだろう。私は、自分の気持ちを確かめるように、花びらをゆっくりと踏みしめ、そして気がつく。ああ、私はずっとヨンウォンを試していたんだ、と。再会できるかどうか、私の存在に、願いに、気づくかどうか、そしてその上で何を優先するのかと。

 ヨンウォンという人間の中で、私の存在がどこにあるのかを知りたかった。自分は彼を兄とも呼べないくせに、なんて我儘なのだろう。それでも、ヨンウォンは幸せそうに笑っている。自分が試されていることなど、露程にも知らないように。だけど、彼はきっと気がついている。私が会いに来た本当の理由を。だからこそ、今、ここで、私と歩いているのだろう。


「あのサクラ、大きいですね」


 ふいにヨンウォンが指差した場所には、ひと際大きな桜が並木の途切れた少し先に生えていた。遠くから見ても大きな枝が枝垂れ、その下には桜色の絨毯が広がっている。あそこまで行こうと言うヨンウォンの誘いに応じて、桜のトンネルを抜けると、空が開け今まで以上に顔が霧雨に包まれた。

 ポンという音が聞こえ、振り向くとヨンウォンが傘を広げ、私の横に並んだ。透明なビニールが頭上で広がり、雨も遮られた。


「アイアイガサ、ですね?」


 ヨンウォンは首をかたむけて見せる。


「そ、そうですね」


 相槌を打ちながら、狭い傘の中で顔を覗きこまれ、どぎまぎする。


「あー、でも少し小さい。エイナ、ちゃんと入ってますか?」


 ヨンウォンは、傘を私の頭上だけに来るよう差し出す。


「だ、大丈夫!ヨンウォンさんが濡れてしまいます」


 ヨンウォンの手を押し戻すと、彼は目を丸くし照れたように笑った。その反応に、こちらまでますます恥ずかしくなり俯いた。

 無言のまま二人でぎこちなく歩く。言葉の代わりに花びらがハラハラと落ちる。


「おお!サクラの家だ」


 ふいにヨンウォンが声をあげた。見ると、桜に寄り添うようにして建つ古い小さなアパートが建っている。古いトタンの屋根を覆う桜の枝と、雪のようにつもる花びら。その枝の間から覗く窓。きっとあの窓から手を伸ばせば、簡単に花に触れられるだろう。


「すごい・・・」


 まるで桜の木と一体になっているかのようなその姿に、思わず感嘆する。


「ここに住ん出る人いいな。こんなに近いところから、毎日桜が見られる」

「じゃ、今日からここに住みましょう?」


 目を輝かせたヨンウォンが、そのアパートを見上げながら冗談めかして言った。その言葉に、一緒に暮らしたい、そう告げたヨンウォンの泣き顔が蘇える。私は言葉に詰まった。

 私は自分の家族を思った。愛され、守られ、その温もりの中で何も知らずにいたけれど、血の繋がりがないと知った今でさえ、そんなことはどうでもいいと思えるほど家族を愛している。これからもそれは変わらない。だけどヨンウォンが私に会いたいと思ったのは、死ぬ前に家族の温もりを感じたかったからなのだろうか。

 ’ 今しかできないこと’ それを彼はして見せてくれた。今度は、私が応えるべきなのだろう。もう、あれこれ考えるのはやめよう。

 私は覚悟を決めた。


「住んじゃいます」

「ん?」


 ヨンウォンは振り返って私を見る。


「一緒に、住んでみます」


 すぐには兄だと呼べないけれど、私なりに彼の存在を受け入れてみようと思う。


「今、なん、て?」


 ぽかんとした顔で、ヨンウォンは私を見ている。ひら、ひら、と白い花びらが、ヨンウォンのさすビニール傘に舞い落ちた。


「だから、その、私たちまだ会ったばかりだし、お互いのことまだよく知らないし。だから少しの間、一緒に暮らしてみて本当に兄妹だって思えるようになったら、そうしたらこれからのこと考えてみませんか?」


 ヨンウォンはぎゅっと唇を結んだ。そして、持っている傘を私に差し出した。なぜ渡されるのかよく分からなかったが手に取ってみると、ヨンウォンはさっとその場に片足を立てて跪いた。それは、いわゆる王子様がお姫様の前で跪くポーズ。一体何をしようとしているんだ?今度は私が固まる番だった。そんなことなどお構いなしにヨンウォンは私の手をとり、両掌で優しく包みこんだ。体温が右手にしっとりと伝わってくる。太陽なんて出ていないのに、ヨンウォンは眩しそうに眼を細めて私を見上げた。


「とっても、大事にします。幸せにします。ずっと、仲良く暮らしましょ?」


 まるでプロポーズのような言葉だった。


「え?あの!ちょっと!」


 こんなところ誰かに見られたら誤解されるに違いない。そう思った矢先、曲がり角から3人の女子高校生たちが現れた。手を離してくれと思うのに、ヨンウォンはそんなことお構いもなく、王子様体勢を少しも変えず私から目をそらさない。案の定、高校生たちはわざわざ足を止めてこちらを面白そうに眺めだす。


「ホントにあんなことやる人いるんだ。初めて生で見た」

「すごいね」


 違う!違うんだ!これはただの兄馬鹿行動だから!内心叫びながら、手をブンブンふってもヨンウォンは離してくれない。もう顔から火が出るほど恥ずかしい。


「わ、わかりましたから!ヨンウォンさん!立って下さい!人が見てます!」


 ヨンウォンが、え?と言って後ろを振り返ると、女子高生たちはそそくさと去って行ったが、その後も顔を見合わせて笑いあっていた。ヨンウォンは私に顔を戻し、しょうがないと言わんばかりに肩眉をあげて見せた。


「恥ずかしい?」

「相当!だからもう立って!」


 こっちは真剣に言っているというのに、ヨンウォンは嬉しそうに笑いながら立ち上がった。私が差す傘の高さでは低く、ヨンウォンは首をすぼめて傘の中に立つ。ヨンウォンのジーンズの膝元が、地面に着けられたせいで水を吸い、色が黒く変わっていた。それでも軽く払うだけでたいして気にも留めず、私の代わりに傘を持った。

 桜の余韻に浸りながら、ぎこちない距離の中、住宅街を抜け大通りに出るとヨンウォンは声を上げた。


「あの人・・・」


 ヨンウォンがそう言って指さす方を見ると、車道の向こう側にあるコンビニの駐車場で休憩をしている、さっきの運転手がいた。


「あっ!行きましょ!ヨンウォンさん!」


 渋るヨンウォンを急かしながら運転手のもとへ行くと、またタクシーに乗せてもらうことにした。

 ヨンウォンは私を家まで送ってから出なければ帰らないと言い張るものだから、渋々私は送ってもらい、10分もかからず家の前に着くと、大した家でもないのにヨンウォンは開いたドアから顔を覗かせて、しみじみと眺めていた。


「電話します。待っていてください」


 そう言って、ニシャっと歯を見せて笑い、ヨンウォンは両手を振った。きっとホテルに戻ればキムに怒られるだろうに、ヨンウォンの顔は嬉しくてしょうがないと言っていた。窓から顔を出して子供のように手を振り続けているヨンウォンを見送りながら、正直、そう悪い気持ちはしなかった。

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