7 食事と歌
どれぐらい、そうしていたのだろう。ふと気がつくと、いつの間にかヨンウォンの背中をあやすように叩いている自分がいた。慌てて体を引き剥がすと、大して力を入れたつもりもないのに、ヨンウォンはよろよろと後ろへよろめき、寂しげに顔を俯かせるものだから少し胸がチクリとする。
「空本、さん?」
突然、背後から聞こえた声に驚いて振り返ると、そこには長身の男が立っていた。
「じ、ジウンさん!?」
目を瞬かせながら私とヨンウォンを交互に見るジウンは、軽く会釈して見せた。
「ど、どうしてここに?」
見られていたのかと、恥ずかしさのあまり顔が熱くなる。
「ヨンウォンに通訳して欲しいと頼まれたのでここへ来たのですが」
ジウンは言葉を選びながらゆっくりと口を開き、そして確認するようにこう言った。
「空本さんが、ヨンウォンの妹さんだったんですね?」
その問いかけにすぐには頷けなかった。ちらりとヨンウォンを見ると、泣き腫らした赤い目と目が合う。その不安げな視線の前で、あからさまな否定も出来ずに私は俯いた。だが、ジウンはそれを肯定と受け取ったようだった。
「そうでしたか、あなたが・・・」
ジウンはどこか優しげな目で私を見つめた。
「知っていたら、キム社長の隠し子なんて言わなかったのにな。キム社長より、ヨンウォンの目元にそっくりですよ」
ジウンはそう言いながら、どこか嬉しそうに視線をヨンウォンにも向けた。
「*******?」
ずっと黙っていたヨンウォンの口から響いたのは、擦れた弱弱しい声ではなく、少し低いテノールの韓国語だった。ヨンウォンが予想外の発言をしたようで、ジウンは驚いたように返答した。私には分からないやり取りが暫く続いた後、ジウンは納得したように頷くと、私の方へ向き直った。
「本当は、私があなたとヨンウォンの'言葉'になるつもりだったんですが、ヨンウォンは空本さんと二人だけで食事がしたいそうです。いかがですか?」
「え?」
そうだった。キムにヨンウォンと食事をしてくれと言われていたことをすっかり忘れていた。さらさらそんな気なんてなかったのだが。
「初めて兄妹が一緒に食事するんですから、やはり部外者はいないほうがいい。それに、ヨンウォンも少しなら日本語を話せますし、彼、聞くことならかなり出来るんですよ?」
二人の期待のこもった視線に抗えず、こうなってしまった以上仕方がないと、私は頷いた。
「では」と言ってそうそうに退出するジウンの背中を心もとない思いで見送りながら、ヨンウォンに勧められた席へと座った。不意に沈黙が落ちる。流れるピアノの優雅なメロディが響いているが、落ち着かない。こっそり顔を見るだけのつもりが、まさかこんなことになってしまうとは。
ヨンウォンが軽く手を上げて合図をすると、どこに隠れていたのか、気配すらしなかった店の奥から一人のボーイが現れた。微笑の仮面をつけた彼は、キザなほど恭しく前菜を差しだしグラスに水を注ぐ。何か呑むかと尋ねられたが、首を振って断った。ヨンウォンもいらないと答えるとボーイは静かに身を引いたが、これほど丁重に扱われたことのない私には、緊張というやっかいなものが残された。気を紛らわせるために外に目をやれば、いつの間にか空を赤く染めあげている夕日が、ビルや街を色づけていた。
メニューを見るふりをしながら、向かいに座っているヨンウォンをちらりと盗み見ると、メニューを見ている顔は、目も鼻も真っ赤にしてくしゃくしゃに泣いていたのがウソのように澄まされている。整えられた眉や乱れ一つない髪、肌目の整った滑らかなその頬に夕日が差していた。大して歳は離れていないはずなのに、ずいぶん大人びて見える。何がそうさせるのか分からないけれど、適当に生きてきた私にはないものを彼は持っている、そんな気がした。
’あと、一年しかないねん’
ふとキムの言葉を思い出す。その時、メニューを見ていたヨンウォンが、不意に視線を上げた。しっかりと目があい、見ていたことが知られ、ばつが悪くなる。だが彼はニコッと笑い、どうしたのかと言いたげに首を傾けた。キラキラと輝くその目の縁はまだ赤かったが、それすら彩りに変えるその笑顔は花が咲いたようにパッと明るくなり、惚れ惚れするほどだった。彼が多くのファンを引き寄せている理由が分かったような気がする。
「エイナ?」
急に呼ばれ、「はい!?」声が裏返える。
「そう呼んでもいい、ですか?」
「え?」
そういえば呼び捨てにされているな、と今頃になって気がついたが、断ればまた泣かれてしまう気がしてこくりと頷いた。
「私のことは、ヨンウォンと呼んでください」
ヨンウォンは自分を指差す。そんな気なんてさらさらなかったが、社交辞令だと再び頷いてみせた。するとヨンウォンは嬉しそうにハニカンで笑った。華やかな、それでいて今度は純粋で素朴な笑顔だった。これしきのことでそんなに嬉しいのかと胸がずきりと痛むから、誤魔化すために話を変えてみる。
「日本語、上手ですね」
ヨンウォンの日本語はきれいな発音で訛りがないから、そう素直な感想を述べると、ヨンウォンはまた嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「日本語、あー、勉強してます。なぜなら、あなたに、会うため」
恥ずかしげもなくそう告げるヨンウォンのまっすぐな目を見ることができず、視線をテーブルに向けた。やはり言っておいた方がいいのかもしれない。言わずにいたかったけれど。誤魔化すべきじゃない、そう思い、意を決して口を開いた。
「正直に話していいですか?」
「正直?」
私は頷いた。
「さっきDNA鑑定見ました。私たちは間違いなく血が繋がっているって。でも、まだ信じられないっていうか、受け入れられないっていうか。自分の気持ちが良く分からないんです。これは空本家を傷つけることでもあるんです。しかも単に傷つくだけじゃない。今まで築いてきた色んなものが崩れて、皆が大切にしてきたものが壊れてしまう。それだけは絶対にしたくないし、私は空本家を守りたい。そのことだけは自分でもはっきり分かるから。だから、ヨンウォンさんが求めていることに私は応えられないと思うんです」
ヨンウォンは何も言わず、ただ静かにテーブルを見ていた。
「自分勝手で、すみません。でも、今の私には、やっぱり、空本が大切だから・・・」
歯切れの悪い言葉の最後に続くのは「あなたより」。だけど、どうしてもそれだけは言えなかった。彼を酷く傷つけてしまいそうで。いや、もうきっと傷ついているだろう。眉間に皺を寄せたままヨンウォンはずっと黙っている。でもどうしろというのか?これが本当の気持ちだ。
これ以上何を話せばいいかのか分からなくなり、私も黙った。重たく静かな時間の中、暫く息を潜めるようにじっとしていたが、すぐに居たたまれなくなって、私は前菜に手を伸ばした。味なんて、よく分からない。口の中で、冷たいものや温かいものが、固かったり柔らかかったりするのを感じるだけ。話す代わりに麻痺した思考のまま、ただ食べ続ける。
それをヨンウォンが見ていることは、額に感じる視線で分かった。意識してしまうせいで動かす手がぎこちなくなるのに、彼はきっと私の姿をその目に焼き付けているんだろう、そう思うと顔を上げられなかった。だから私は気づかないふりをしてひたすら食べた。
一つの皿を平らげれば、すぐに次のメニューが用意される。だからまた食べた。味が分からなくても、胃に入れば皿の上の料理はどんどんと消えていく。その間ヨンウォンは一度も、料理にも水にさえ口をつけることなく、ボーイに皿を下げさせていた。それでも構わず私は食べ続ける。そしてデザートを食べ終わる頃には、窓の外には夜が広がり、街の灯りで夜景が煌めいていた。
私の前には水の入ったグラスが、ヨンウォンの前には湯気を絶やしたコーヒーが置かれたまま。これが私たちの最初で最後の時間。そう思うと残念なような、どこかほっとしたような何とも言えない気持ちになる。よく分からない自分の気持ちを振り払い、ナプキンをテーブルの上に置いた。
「そろそろ・・・」
ここを去ればたぶん、もう会うことはない。だからちゃんと別れの言葉を言おう、そう思ったのに。
「エイナ!」
ヨンウォンは遮って声をあげた。その目はまっすぐに私を見、少しも反らそうとはしない。何か重大なことを言われる、そう直感した。
「私とあなた。一緒に、暮らしませんか?」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。一緒に?暮らす?なぜ?ヨンウォンの目は、私を射抜いた時と同じ光を宿している。ああ、彼は本気なんだ。そう思った。
「あなたと私。やはり兄妹、です。だから、やっと、それでも」
ヨンウォンの声がだんだんと震えだす。
「한번만・・・少しで、いい。兄として、あなたと一緒にいたい」
私を見る彼の目から、静かに涙が落ちた。なぜ彼は私の前でこんなに泣くのだろう。その涙のせいで、心がかき乱され、どうすればいいのか分からなくなるというのに。
「考え、させてください」
そう言うのがやっとだった。さっきの決意はなんだったのだろう。胸が苦しくてたまらない。すがるような視線を感じながら、私は鞄とコートを手に取った。そして、挨拶もろくにせず、彼の前から逃げるようにレストランを飛び出した。
エレベータに乗りこむと、訪れた静寂にふっと肩の力が抜ける。倒れ込んでしまいそうで、壁に体を預け、溜め息がもれるのも構わずぼんやりとした。ほんの数分前の出来事だというのに、まるで夢でも見ていたかのように現実味を感じない。
「お兄ちゃん、か・・・」
今日はキムに迷惑かけたと詫びてもらい、後々、笑い話にでもするつもりだったのだが。予想に反した出来事の大きさに、どっと疲れを感じた。
扉が開き、目の前に現れた広いロビーを、思考が停止したままの頭を揺らして歩く。ただのろのろと足をナメクジみたいに引きずって。オレンジ色の光に包まれたロビーをゆっくりと横切り、回転するドアをくぐりぬけると、夜の冷たい空気が体にまとわりつき、濡れたアスファルトの匂いがした。
雨はやんでいた。帰宅するサラリーマンやOLたちが我先と駅へ向かうその流れの中、とぼとぼと駅に向かい、電車に乗る。ドアにもたれながら窓の外を見ていると、夜の街並みの中にさっきまでいたホテルが見えた。あそこから私を見つけるなんて不可能だと分かっているのに、あの最上階からヨンウォンが見ているような気がして、たまらず窓に背中を向けた。
それから自分がどう帰ったのか、あまりよく覚えていない。ただ、来た道をそのまま戻り、終始ぼおと意識だけがどこか遠い場所へ行っていたように思う。
家に帰ると、いつものように過ごし、いつものように眠りに着いた。
次の日の昼休み、韓流好きの同僚たちに、ヨンウォンを知っているか尋ねてみた。韓流のことについてテレビで取り上げられる程度のことは知っているが、ヨンウォンについては全くの皆無。正直、私が知らないのならきっと「それなりに」売れてる程度の人気なのだろうと思っていた。だが、実際にはかなりの知名度を持つのだということは、彼女たちの反応からすぐに分かった。
「何て言ったっけ?あの、この間までやってたドラマ」
「‘半透明の眠り’でしょ!?」
「そうそう!あの時のヨンウォン、たまに見せる笑顔がすんごっく可愛いのよ!」
急激に熱くなる彼女たちをよそに、私はただそうなのかと頷くしかできなかった。
「何?空本さん、見てないの?じゃあ今度録画したもの持ってきてあげるから、見なさいって。本当、泣けるし面白いし、ヨンウォン可愛いんだから!」
どんどんとヒートアップしてく彼女たちについていけなくなったが、チャン・ヨンウォンが韓流スターだというのは本当だったのだと改めて思い知った。暫く彼女たちの会話を傍聴していると、ヨンウォンを可愛いと言った近藤さんが思いだしたように言った。
「そういえば、先週CDの発売日じゃなかった?西藤さん、買った?」
「買っちゃったわよ。貸してあげよっか?」
「いいの?ありがとう!」
どうやらヨンウォンは日本で歌手デビューもしたらしい。色々と幅広い活躍をしているものだ。その時は、そう思う程度だった。
だが、仕事を終え帰宅するその道中、駅の小さなレコードショップの入り口で、大きなポスターと共にずらりと並べられたチャン・ヨンウォンのCDを見た時、思わず足を止めた。ポスターの中の彼は挑発的にこちらを見ていて、レストランでの顔しか知らない私には、こんな表情もするのかと別人のようだ。だけどその目はどこか悲しげに見え、真っ赤に泣きはらした顔を思い出させる。
どんな歌声なのだろう。ただ、そう思っただけなのに、気がつけば私はそれを手に持っていた。
夜、私は家族には知られないよう、こっそりベットの中で彼の曲を再生した。ギターの音色が静かに流れ始め、しだいにクラシックロックのような曲調へ。それから寂しげな歌声が聞こえた。柔らかで優しい心地の声音。ああ、頭の上から降ってきたのと同じだ。そう思った。
忘れられない存在への苦しみを叫びながら、それでも前へ歩きたいと願う歌。その詞に、レストランで震えていたヨンウォンの姿を思い出さずにはいられなかった。曲が終わり、イヤホンから何も聞こえなくなっても、耳の奥で歌声が響き続けている。その声が胸をざわつかせるものだから、その理由を知りたくて、それを確かめたくて再び再生ボタンを押す。それでも、聞けば聞くほど耳の奥、頭の髄に沁みこんでいくのに、答えは分からない。私は眠りに着くまで、何度も、何度も、繰り返しその声を聞いていた。
次の日も、同僚たちはチャン・ヨンウォンの話で再び沸いた。彼女たちのはしゃぐ姿を見ながら、今自分たちが話題にしている人物と私が実は兄妹なのだと知ったらどう反応するのだろうと思った。いや言ったところで、きっと冗談としか、あるいは私が自分たち以上の行き過ぎたファンになってしまったとしか思わないだろう。それが普通だ。私だって、今だ信じられないのだから。
仕事を終え、いつものように駅から家路を歩いていると、前方に7歳ぐらいの男の子と5歳ぐらいの女の子が仲良く並んで歩いていた。お使いの帰りなのか兄は手にビニール袋を提げ、反対側の手で妹の手をとり、二人で歌を歌っている。決してうまくはない舌足らずな歌声が可愛らしく、思わず微笑んでしまう。
そこへ自転車が一台、スピードを出しながら下り坂を下ってきた。自転車はそのまま勢いよく二人に近づいて行き、あぶない、そう思ったその時、小さな兄は自分の小さな両腕を広げ妹を守るように抱き締めた。自転車は速度を緩めることなくすれすれに通り過ぎていったが、彼らは無事だった。
だけど私にはそれが、酷く胸に突き刺さった。‘あなたを守ることすらできずに’
そう告げる悲しい歌声が蘇える。彼もあの子のように、私を守ろうとするのだろうか。もし入れ違いになることがなければ、私たちは今頃当たり前のように家族として暮らしていたのだろうか。
ふいに目の奥が熱くなり、慌てて幼い兄妹から目を背け、無我夢中で二人の幼い声が聞こえなくなるまで走り続けた。
その晩、私は嫌な夢を見た。




