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韓流スターの妹  作者: 海之本
第1章 春
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6 霧雨

「じゃ、失礼します」。

私は用紙をつき返すと、立ち上がって荷物を鷲掴み、キムに背を向けた。


引き止められるかと思ったが、キムは何も言わなかった。そのことが一層私を苛立たせ、進む足が速くなる。


病気で苦しむことがつらいことだと、私にだって分からないわけじゃない。でも、一度も会ったことのないヨンウォンという見ず知らずの人間に、同情はできても家族に対するような感情が持てるかなんて分からない。なのに、これじゃまるでそれを強制されているかのようではないか。それにもし兄だというのなら、自分が名乗りを上げた挙句、目の前で苦しみながら死んでいく姿を見せたら、妹にどんな影響が及ぶのか考えているのだろうか。もし考えた末の行動なのだとしたら、なんという自分勝手さなんだろう。そんなことが止めどもなく頭の中を行き廻り、ふつりふつりとこみ上げる怒りが抑えられない。


苛立ちのまま、ずかずかとホールを歩く私をすれ違う人たちが驚いたように見る。その視線が私を責めているようだった。

分かっている。迷惑だと思ってしまう私の方が、自分のことしか考えていないことぐらい。つくづく自分が嫌になる。


ホテルの外に出ると、雨は霧吹きで吹きかけたような霧雨に変わっていた。深く息を吸い込めば、雨の匂いがした。心地よい冷たさが静かに私の中に沁みこんでゆき、昂った心を落ち着かせてくれる。


食堂で見せられたチャン・ヨンウォンの姿が脳裏に浮かぶ。輝いた目を持つ、中性的な顔立ちをした優男。それが写真から受ける印象だった。それ以外は何も分からない。彼が世間では知られた韓流スターだとしても、私は彼を知らない。


これからも、ずっと知らずにいたかったというのに。

会いたくはない。だけど、なぜこんなに苛立つのだろう。

私はふと、足を止めた。


これでいいんだろうか?

その問いに応えるかのように胸の奥が重くどんよりと淀み、訴えている。このまま帰ってしまえば、いつか後悔する日が来るのだろうということを。だけど、会ったところで何が出来る?このまま知らなかったことにして忘れてしまえば元に戻るんじゃないのか?それでも胸の中の重みは、晴れるどころかいっそうその濁りを増した。


「ああ、もう!」


私はくるりと向きを変え、来た道を駆け出す。駆ける足がぴちゃぴちゃと水を弾くたび、体がふんわりと霧雨に包みこまれ、凝り固まったままの心の奥に沁みこんでいく気がした。


駆け戻ってきた私を不思議そうに見ているドアマンを尻目に、回転する入り口に飛び込んだ。ロビーを急ぎ足で横切り、テラスにちらりと目をやると、キムの姿はもうどこにもなかった。かまわず足早にエレベーターに向かい、ボタンを押すとすぐに扉は開いた。急いで乗り、最上階のボタンを押す。動き出した正方形の鏡張りの空間に、静寂が訪れた。汚れ一つない扉の鏡に、息切れをした自分の姿が映し出されている。

別に会いたいわけじゃない。そもそも自分が妹だと言う気はない。他の客の振りをして、こっそり顔を見たらもうそれでいい。すぐに帰るんだ。


ドアが開くと目の前に、淡い照明で彩られたレストランの正面が迎えた。店内は、橙色の柔らかい光りに包まれており、広いホールに白いテーブルクロスがかかった席が幾つも並んでいるが、まるで閉店後のように客の姿が一人も見当たらない。店員らしい人影もなかった。


場所を間違えたのだろうか?いや、でも確かにキムは最上階と言っており、言われた通り最上階まで来たのだ。この階は、このレストラン以外何もないはずだった。私は恐る恐る店内に足を進め、辺りを見回した。


あるのは、テーブルと椅子が整然と並ぶ広いホールと、ガラス張りの向こうに広がるぼんやり浮かぶ白い街。


ふと、視界の端で黒い影を見たような気がした。

見ると、奥の窓際のテーブルに、スーツを着た若い男が座っている。テーブルの上で組んだ自分の手を、じっと睨みつけている。その口元は微笑を浮かべているようにも、苦痛に歪んでいるようにも見えた。

ぎくりとする。その男がすぐに、チャン・ヨンウォンだと分かったからだ。


彼は、私の知っているどの人間とも纏っている雰囲気が違った。何をせずとも、目を引くものがある。

少し長めの髪を軽く撫でつけて耳にかけているその角度や、皺ひとつない白いシャツとスーツ。ボタンを開けたノーネクタイの首元や、胸元のポケットチーフの色合いとその出し具合。目に入る彼の纏うすべてのものが、人から見られることを計算しつくされたものであることは、ファッションに疎い私にもその完璧さで充分理解できた。

もしこれらが、彼自身がそろえた身だしなみだとしたら、ヨンウォンという人間は自分のこだわりを強く持っており、おそらく私のスタイルを見た瞬間に、彼の頭の中で手直しするべき点が、次から次へと見えてくるに違いないだろう。そう思うと、自分の格好が恥ずかしく思え、思わず上着の位置を直した。

だがその時、衣擦れの音で気がついたのか、彼ははっとしたように顔を上げた。

しまったと思った時にはもう遅く、どこかに隠れようにも誰もいない店内、ヨンウォンの目が真っ直ぐに私をとらえた。


目を見開いたかと思うと、見る見る間に彼の眉間には深い皺が刻まれていった。その目の力強い光は、まるで喰らいついたものから二度と離れないライオンの目のようにも、喰らいつかれてもなお逃れようともがき続けるインパラの目のようにも見える。それは真剣で、必死で、偽りのない本気を露わにした目。それでも死にそうな程怯えてもいる。

無言の内に投げつけられた心の塊に、私は圧倒されその場から動けなくなった。


「エ、イ、ナ?」


消え入りそうな、だけどはっきり聞こえる声で、確かめるように、ゆっくりと名前を呼ばれる。

今すぐ逃げ出したかった。なのに、なぜか動けずに、口を開くことも、否定する言葉も出てこない。


ヨンウォンの目が次第に滲みだし、そして雫がぽつり。眉間の皺を一層深めながらも、彼は自分が泣いていることにさえ気づついていないようだった。それでも私から目を反らしはない。


ヨンウォンは恐る恐る立ちあがり、こちらへ向かってくる。私は全ての機能が停止したかのように全く動けないままだというのに、じりじりと距離は縮んでいき、そしてもうすぐそこに白いシャツの胸元が迫ってきたかと思うと、視界が塞がれた。柔らかな香水の香りが、鼻孔に広がった。


何が起きたのかと思ったのも束の間、背中に回された腕が強く私を捉えた。掴まれた後頭部からその肩に額を押しつけられ、肩に熱い手の感覚が伝わる。とっさに離れようと試みるが、私を覆う腕はびくともしなかった。押しつけられた額の固い布の感触に、今絶対彼のスーツに私の化粧がついてしまっている。なんてどうでもいいことを思いながらも、驚きと混乱で、頭からつま先まで硬直していた。


と、視界が揺れた。自分が痙攣でも起こしたのかと思ったが、私の体は震えていない。どうやら、目の前のシャツから振動が伝わってくる。そのうち次第に揺れは大きくなり、背中に回された腕までが震えだした。


「ミアネヨ」。


頭上から、擦れた声が降ってくる。


「ミアネ・・・ミアネ・・・」。


何度も、何度も私の髪をか弱く撫でる手は熱く湿っていて、まるで小さな子供に弱々しく追いすがられているようだった。


「ミ、アネ・・・」。


降り絞った、苦しげな嗚咽混じりの声が、分からないはずの言葉なのに、なぜか‘ごめん’そう言っているのだと分かった。

不思議だった。雨に濡れた、気持悪いはずの肌に張り付く湿った服の感触が、今は嫌ではない。しっとりと静かに沁みこんでゆくそれは、外の霧雨のようだと思った。


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