4 予想外の出会い
会社を出ると、もうすでに雨が降り始めていた。
しとしとと降る雨粒と、ぴちゃぴちゃ水溜りを歩く音。ビニール傘から見える曇り空は、私の気持ちを映し出すように暗い色だ。
私の出生と重なる子供。その話が嘘でないにしても、それが自分だとも思えない。
きっと何かの間違いだ。そう思えてならない。だから、キムから連絡があったとしても結果なんて聞くつもりはなかった。
気にならないと言えば嘘になるが、知らない方がいい。そう思った。
なのに、キムが会社に変な申し出をしたばっかりに、雨の中わざわざ’出張’しなければいけないのだ。何だか気が重い。
仕事を昼過ぎで引き上げ、会社からそのまま電車に乗り、慣れぬ都心を右往左往すること一時間弱。やっとたどり着いたのは、キムが指定した都内でも有数の一流ホテル。
爽やかな笑顔のドアマンに誘導され、回転式の入り口をくぐりぬけるとそこは、見るからに豪華なホールが広がっていた。
ホールケーキを何段か重ねて逆さにしたような大きなシャンデリア。黄金色に煌めく天井や柱は鏡のように磨かれ、金の刺繍が施されたふかふかの絨毯が敷き詰められている。その柔らかい生地に沈む自分のノーヒール靴が、安物に見えた。ま、安物なんだけど。
ロビーのシックな雰囲気に溶け込んだ、細部に至るまで装飾された壁時計を見上げると、幾分早めに出てきたせいか、約束の時間よりずいぶんと早かった。
まだキムの姿もない。
静かで美しいメロディーが心地よい程度に流れ、見るからに上質のコートをまとった客が、あちらこちらで思い思いの時間を過ごしている。
だけど私は、場違いな場所にいるせいでどうにも落ち着かない。
どこか落ち着ける場所はないだろうかと見回すと、ふと、ガラス張りのテラスが目に入った。その空間は自然の色合いのままに明るく、人気もない。
私はそのテラスに向かった。
足を踏み入れると、その場所は少し冷んやりとしていた。ガラス張りの天井や壁面に、雨がちょろちょろと幾筋も流れ、雨音はしないのに、しっとりとした雨の気配が漂っている。まるで外の景色は、大きな泡の中から水中を見ているように滲んでいた。
他に客の姿はない。
静かなテラスの中、ゆったりとしたピアノの音色が響いている。
奥の席につこうと進んでいくと、幾つものテーブルが並ぶその先に、男が一人、窓際に座っていた。
皺一つない紺色のスーツを着た、30代位の商社マンと言ったところか。髪は短く切りそろえられ、ふわりと立ち上がった毛並みは柔らかそうだ。そして、伏せた眼と皺のよった眉間。筋の通った鼻や結ばれた口。
どこかで会ったことがあるような気がした。
少しめくり上げた袖から出ているしっかりとした腕。休むことなく忙しく動いている指。時折何かを考え、さらさらと走らせているペン。
思い出せそうで思い出せない。だけど、どうにも記憶の何かに引っかかる。
どうしてだろう。雨で日差しなんて無いはずなのに、なぜか眩しい。
不意に彼は手を止めると、顔をあげた。
つぶらな目と視線がぶつかる。
きょとんとした目とぽかんと開いた口。
それが、あまりにも無防備だったため、まるで小さな少年のように見え、私は思わず口元が緩んだ。
たったそれだけのことなのに、緊張で強張っていた心が和んだ。
すると彼は、はっと表情を変え、立ち上がって足早にこちらにやってくる。
目の前に立つ彼の姿は、思いのほか背が高く、見上げなければ顔が見えなかった。
「空本永奈さん、ですか?」
その澄んだテノールは、誠実な印象を抱かせる爽やかな響きがあり、私は直感的にこの声に好感をもった。
だが、やはり誰なのか思い出せない。
私は恐る恐る、そうだと頷いた。
すると彼の顔はパッと明るくなり、クシャと目を細め、大きな口から白い歯をこぼした。その笑顔はまるで悪戯っ気のある、キラキラした輝きで溢れた子供のようだった。
「私は、カン・ジウンと申します」
そう言いながら、肘のあたりを押さえ、右手で私に向かって名刺を差し出す。
名前を聞いて始めて彼が日本人ではないことに気が付き、驚いて受取った名刺をまじまじと見た。確かに名前は「姜志應」と日本名ではない。
「覚えて、いらっしゃいませんか?
先日、キム社長と中央会社を訪れた際、空本さんとお会いしてるのですが…」
私はそうだっただろうかと、首をひねる。
「キム社長との通訳を勤めさせて頂いておりました」
「ああ!」
そこで、やっと思い出した。
あの時は、キムにばかり気を取られていたが、確かに、キムと社長の間に入って談話を助けていた人物がいた。
「あの時の方だったんですね」
ジウンは、そうなんですと照れたように笑った。その笑顔には、彼の親しみやすい人懐っこさがにじみ出て、見る者の警戒心を解きほぐしていく。
「日本語が流暢なんですね」
そう言うとジウンは、ますますはにかんで笑った。
「ありがとう。日本の方に日本語を褒められると嬉しいな」
素直に喜びを表すジウンに、なんだかいい事をしたような気持ちになる。
「まさかこんな所でお会いするとは。もしや、キム社長とお約束ですか?」
ジウンはにこやかに笑いながら尋ねる。
「そうなんです。でも、ちょっと早く来すぎちゃった見たいで」
「ならいかがでしょう?私もちょうど、次の仕事まで時間を持て余しているんですが。
暇つぶしにでも、よかったらお約束の時間まで、一緒に世間話でもしませんか?」
彼は、にこりと笑った。
緊張を紛らわせたかった私は、喜んで一緒に彼の座っていた席へ向かいあって座った。
「飲み物はいかがです?」
ジウンはメニューを差し出した。
ああ、ここは喫茶なのか。そう納得すると同時に、急に口の中がからからに乾いていることに気がついた。
私が、何にするか決めたのを見計らったように、彼はすぐ軽く手をあげボーイを呼んだ。
「私は、コーヒーをおかわりしようかな。
空本さんは?」
ジウンはボーイが来るまでの、ほんの数秒のうちに私の望むものを聞きだし、それを注文した。この無駄のないやり取りに、ジウンがキムの下で働いているのは、単に語学に優れているからだけではないのだろうと思った。
会社で見かけた限り、ジウンはキムにとって単なる通訳者というより、むしろ秘書のような重要な役割を担っているように思えた。
「そういえば、キム社長。あの日あなたとお別れしてから、こんな偶然はないとおっしゃっていたのですが、以前からキム社長とはお知合いだったんですか?」
「え?ええ、まあ。知り合いというか…」
わざわざジウンを席から離したキムは、あれからどうやら何も話していないらしい。ということは、他言無用と念を押された私としては、下手のことを言わない方がいいのだろう。
「でもあの日のキム社長の驚きようは、普通じゃなかった。波多野社長を差し置いて、あなたの元に駆け寄ってしまうし。今日の予定も、突然キャンセルした理由についてキム社長は何も言いませんが、余程のことがあったんだと私は思っています」
ジウンは急に、まじめな顔をして私を見すえた。どうしてそんなに真っ直ぐ私を見るのか不思議に思った。
もしかして変な誤解をされているのか!?
「いやいやいやいやいや!」
私は顔と手をめいいっぱい横に振った。
「誤解です!誤解ですから!あんな蛇みたいな目のおじさん、父親なわけないじゃないですか!」
ジウンは目を丸くしたかと思えば、突然、
「うははははは!」
爆発したようにお腹を抱えて笑いだした。いや、笑い転げていると言った方があてはまるほど、大きな口を開け、あはははと腹を抱え笑っている。
「し、失礼しました」
謝りながらも苦しそうに腹を抱え、息を切らしている。
「ただキム社長が、あなたを引き抜きたがっているのかと思っただけですよ。でも、確かにあのぎょろりとした細い目とは似てませんね」
そう言いながらも、まだ身もだえしている。
先ほどのボーイがやってくると、ジウンは椅子からずり落ちていた腰をあげて座りなおし、口に手を当て、なんとか笑いを押し殺した。それでも肩はまだ揺れていた。
微笑の仮面をつけたボーイが湯気のったったコーヒーカップと、ティカップをそれぞれの前に置いて去っていく。
勘違いをして変なことを言ってしまった自分が恥ずかしい。何も言い訳することができず、まだ肩を震わせているジウンを横目で見ながら、熱いお茶を口に含んだ。
ふいにジウンの携帯バイブ音が鳴る。
「あ、すみません」
ジウンはまだ笑いを押し殺した声でそう言うと、胸ポケットから携帯を取り出した。
話し始めた瞬時に彼の口から流れ出した異国の言葉。初めてまともに耳にしたその独特の言葉に、これが韓国語なのかと、しばし聞き入ってしまった。
私には何が話されているのか、さっぱり分からない言葉。それを滑らかに話すジウンは、やはり異国の人なのだと改めて思う。
すっかり真剣な顔つきに変わったジウンを横目で見ながら、お茶を飲み続けた。
仕事で何かあったのかもしれない。
その横顔はペンを走らせている時と同じ、近寄り難くも見続けてしまう何かがあった。
私はなんとなく、話し終わるまでずっとその顔を眺めていた。
ジウンは携帯を切ると、
「お誘いしておきながら申し訳ないのですが、どうやら今すぐに向かわないといけない状況でして」
そう申し訳なさそうに言った。
「あ、それと、キム社長はああ見えて悪い人じゃないですから、あまり緊張しなくても大丈夫ですよ?」
そしてジウンは照れくさそうに笑うと、両手でガッツポーズをした。
「ファイティン!」
韓国では「ファイト」をそんな言い方するのか、と思いながらも、大の大人だというのにジウンが可愛く思えてて、顔がほころぶ。
去っていくその後ろ姿を見送りながら、近いうち、また会えたらいいのにと思った。
その時は、緊張する私を気遣ってくれた今日のことを感謝したい。そうしたら、また彼の笑顔が見れるだろうか。




