1 すべての始まり
25歳、独身。社会人5年目。毎日、その日一日をそれなりに過ごして、それなりに今日までやってきた。どこにでもいる、平凡な背格好をした、ありふれた人間。それが、私。
その私に今、奇想天外な発言をしているのは、真っ黒い髪を後ろに撫で付け、高そうなベルベットのジャケットに身を包んだ異国の男。無精髭と相まった細く鋭い目が彼を柄の悪い人間に見せている。歳は恐らく40代中頃。肌つやはいいが、どこか疲れた印象を与えるのは、彼が終始気の抜けた笑顔を浮かべているからだろう。
「あんた、イモトォやないですか?」
思わず眉を寄せた。意味が分らない。それは名前か?関西なまりの言葉が混じり合った、彼の独特な発音にもどこか違和感を覚える。
「イ・モゥ・ト!」
反応のない私を見て、再び男は大きく口を動かし、ゆっくり言い直す。
「い、妹・・・?」
今度ははっきりとそう聞き取れたが、余計に意味が分からなくなった。思わず頬が引きつる私を尻目に、男は満面の笑みでテーブルの上に身を乗り出した。
「そや!あんたがイモトォや!チャン・ヨンウォンの妹や!!」
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ほんの数分前。社員食堂兼、休憩場でのこと。
今日は、会社の健康診断を受けていた為、遅めの昼食を取ろうと、ここへ来た。
昼休みはとっくに終わり、いつもなら他の社員たちがまったくいないはずのない時間帯に、背広姿の男たちが4人、窓際の席に向かい合って座っていた。商談なのか会合なのか、にこやかな雰囲気の中にも、どこか腫れ物に触れるかのような気の遣い方が窺える。こんな平社員専用の食堂で、珍しいこともするもんだと思いはしたが大して気にもとめず、それでも昼休みぐらいは仕事を忘れたいと、出来るだけ彼らから離れたテーブルに席を取った。
今日の昼食は健康診断を終えたご褒美だと、普段はただの肉うどんのところを卵入りの肉大盛り特性うどんにした。それを頬一杯に頬張りながら、なんとなく彼らを観察する。こちら側から顔の見える白髪の紳士が、どこかで見たことのある顔だった。どこだったかと記憶を巡っていると、つい昨日の朝礼で、あの温厚な顔を見た覚えがある。そうだ、社長だ。企業パンフレットに載っている写真と同じ顔だ。
でもなぜ、社長がこんなところに?
この5年間、社長を食堂で見かけたことは一度もなかった。そもそも食堂に来る事自体、あり得ないことだと思っていたのだが。少し硬い肉をうどんとすすりながら、暇つぶしがてらに観察し続けていると、彼らは席から立ち上がり、互いに満面の笑みを浮かべながら固く握手を交わしあった。どうやら、上手くいったようでにこやかな雰囲気のまま、彼らはゆっくりとその場から歩き出した。
と、ふいにこちらに背を向けていた客人が振り返った。思いがけず目があってしまい、慌てて目を反らし器をトレーの上に置いて口を拭う。
ずっと傍観していたことがばれてしまっただろうかと不安になったが、彼は背を向けて歩き出した。安堵したのも束の間、男は数歩あるいたかと思うとガバッとこちらを振り返り、再びその場でじっと私を凝視した。な、何だ?何だ?男はずんずんとこちらへ向かってくる。もしや彼は私ではなく、私の後ろの何かを目差しているのだろうか。そう思い後ろを振り返るが、あるのは薄汚れた壁で、それらしき人も物も何もない。
男は私の前で立ち止まると、右横、左横と私を観察し、仕舞いには私の周りを一周しだした。見知らぬ中年男の、その意味の分からない行動に固まるしかないだろう。しかも、遠くから様子を窺っていた社長までもが、どうしたのかと、こちらに近ずいてくる始末。や、やめてくれ。私の心休まる昼食タイムを壊さないでくれ。必死に胸中の叫びを呑みこんでいると、男は呟いた。
「*****ソラモト、エイナ**?」
思わず男の顔を凝視した。耳慣れない言葉と共に、自分の名前が確かに呼ばれた。
「*******?」
別の方向から、異国の言葉が聞こえた。いつの間にそこにいたのか、長身の男が、この挙動不審の男に何かを尋ねているようだ。だが彼は返事すらまともにせず、ずっと驚いたように私を見ている。
そして弾かれたように振り向いたかと思うと、
「***!**********!!」
興奮気味に長身の男に何かを告げた。すると長身の通訳者は、一度驚いた表情を浮かべたもののすぐに営業スマイルを取り戻し、社長に向かって言った。
「キム社長は、そちらの方とお話したいそうです」
社長は、少し驚いたように私を見る。だがそれ以上に私の方が驚いている。何故に今初めて会ったばかりのこの男は、私の名前を知っているのだ?社長の客人とはいえ、何者か分かったものじゃない。社長、お願いだからこの男を近づけないでくれ!と心で叫ぶも虚しく、社長は満面の笑みで答えた。
「調度私も、これから緊急会議で至急支店に向かわなければいけなかったのでよかった。我が社の事や日本の事、お知りになりた事があれば、この子が答えてくれるでしょう」
笑顔が凍りつくのが自分でも分かった。胸中で、何も知らないから!会社の上っ面しか知らないから!そう声にならぬ叫びに気づく人はいない。会話はにこやかに続けられ、社長は、私に視線を向けた。
「君は、どこの部署かな?」
「あ、はい。私は会計の空本と申します 」
動揺を何とか抑え込みながら、自己紹介をする。
「では服部マネージャーの所だね。こちらは、今度私たちのCMにでてくださる韓流スター、チャン・ヨンウォンさんのプロダクション社長、キム・ジンさんです。チャン・ヨンウォンさんは、知ってるかな?」
社長直々にそう聞かれ、恐る恐る、「お名前は、よく・・・」と濁した。
どこかで聞いたことはある、と思う。だが、実はどんな顔をしているのか全く見当もつかない、なんてこの場で正直に言えるわけがない。そもそも世の中のことに疎い私が、流行を熟知していることの方が珍しいというのに。社長はキムに言った。
「ヨンウォンさんが私たちのイメージとなってくださるなら、心強い。私も期待しているんです。」
そして私に視線を戻すと、
「キムさんたちと今後のことを色々と話し合っていたのですがね、私はこれから直ぐに失礼しなければならない。それで、キム社長がお帰りになられる少しの間、私の代わりに必要な情報を教えて差し上げて頂きたいのですが、お願いできますか?」
社長の軽やかな笑顔が、逃げ腰の私にプレッシャーを加えた。良いわけがない。そこら辺の取引相手よりも面倒な、いや重要な人物を入社5年目といえども、まだまだヒヨっ子の私に委ねるきなのか?と社長に問いたい。だが、断る理由も思いつかず、断れるわけもない。私は、努めて笑顔を浮かべた。
「はい、承知致しました」
「ありがとう。悪いね。私から、服部君には言っておくので、会社のことや日本のこと、何でも教えてあげてください」
社長にそう優しく微笑みかけられると悪い気はしない。思わず、「はい!」そう力強く返事をしてしまう。
「では、キムさん。私は、ここで失礼させて頂きます」
社長は恭しく挨拶を残し、食堂から出ていく。と、キムの真剣な声音が響いた。
「ワテは、スコしなら日本語が話せますよって、スワテ、話しまへんか?」
私は勧められるまま、席に座わった。キムも向かいの席に着くと、通訳者に席を外すよう合図を送る。彼はすぐに一礼し、食堂を静かに出て行った。
そして、私とこの怪しい男は2人きりになった。




