番外編皇太子と妃の日常1
メアリアンがサミュエル皇太子の正妃になってから、一年が経っていた。メアリアンは年齢が二十二歳になっいて側妃として後宮に入ってから三年が過ぎている。だが、側妃になっていた間は皇太子に手をつけられていなかった。今でもそれは同様だった。サミュエル皇太子は何のつもりでいるのだろうか。メアリアンにはわからなかった。
形ばかりの側妃として迎えられた他のご令嬢方は国内の独身の貴族や他国の王などに下賜された。アンと仲良くしてくれていたスージーはヴェルナード公国筆頭公爵家の一つ、イフリーズ家の長男に嫁いだ。長男は名をアレクセイと言い、年は二十四歳だと聞いた。
スージーはこの時、十八歳になっていた。アレクセイは栗色の髪に淡い水色の瞳が印象的な青年でなかなかの美男らしい。
周囲からは羨ましがられたり、嫉み妬みの感情を持たれたとか。女官のシンシアが後で教えてくれたが。
アンは刺繍に専念しながら窓ガラスの向こうの青い空を眺めた。彼女は既に、サミュエル皇太子との間に長男のシグル公子と長女のカタリナ公女をもうけている。
シグル公子は二歳になったばかりでカタリナ公女に至ってはまだ、生まれて半年であった。
幼い子供の面倒はアンもできうる限り、見ているが。どうしても、時間が取りにくかったりする。仕方なく、乳母を四人ほど雇い、彼女らに任せていた。
「…あら、アン様。刺繍をなさっていたのですか?」
部屋に側妃時代から仕えてくれているイザベルが入ってきた。アンは刺繍の手を止めて上を向いた。
「…ああ、イザベル。シグルとカタリナはまだ、泣いたりしていない?」
「ええ。お二人とも、お昼寝の最中ですから。泣いたりはしていられませんよ」
「そう。なら、良かった。今、八重桜の刺繍をしていたから。サミュエル様にお渡ししようかと思っていたのだけど」
「…あら。殿下のためになさっていたのですね。お渡ししたら、さぞお喜びになると思います」
イザベルはにっこり笑顔でそう言った。アンもつられて笑う。
春真っ盛りの日が射し込む中で正妃の部屋では和やかな時間が流れていた。
あれから、半日が経った。メアリアンは八重桜の刺繍に没頭していたが夕暮れ時に染まりつつある空の色に気づいた。進めていた針を止める。
「…アン様。もう、夕食の時間です」
侍女のカトリーヌが声をかけてきた。メアリアンは後ろを振り返る。
「…え。もう、そんな時間なの?」
「…はい。もう、五時を過ぎています」
「そう。じゃあ、シグルとカタリナも起きているわね」
はいとカトリーヌが答える。メアリアンは糸を鋏で切り、針を針山に戻した。刺繍はだいぶ、仕上がっている。メアリアンは椅子から立ち上がるとカトリーヌのいる所まで歩いた。
「アン様。お急ぎください。今日は皇太子殿下も夕食を一緒にしたいと仰せです」
「わかったわ。今から行きます」
頷いてメアリアンはカトリーヌと共に正妃の間を出た。晩餐の間へと向かったのだった。
晩餐の間に着くとカトリーヌがドアを開けてくれる。中へと入ると既に皇太子ことサミュエルと大公と公妃の三人が揃っていた。メアリアンは大公陛下と公妃殿下に一礼をする。「…大公陛下。それに公妃殿下。遅くなりまして申し訳ありません」
メアリアンがそう言ったが大公陛下は困ったように笑い、頭を上げるように告げた。
「…アン殿。謝らなくていいから頭を上げなさい」
メアリアンはおそるおそる頭を上げた。大公陛下は怒っておらず、むしろ苦笑いをしている。公妃殿下ことレイチェルも困ったように笑いながらこちらを見ていた。
「アン殿。また、刺繍に夢中になっていたのね。けど、シグルとカタリナの事も考えてあげてちょうだい」
ちくりと言われたが大公陛下ことウェルシスはまあまあとレイチェルを宥める。
「…レイチェル。アン殿に怒らなくてもいいよ。一時間近くも遅れていたら少しは言うべきだろうけど。今日は十分遅れたくらいなんだから大目に見ても良いのではないか?」
「…まあ、それもそうですね。アン殿、今度からは気を付けてください」
レイチェルからはやんわりと注意されたのでメアリアンは頭を上げて頷いた。二人のやり取りが終わるとサミュエルが声をかけてくる。
「…父上、母上。注意はそこまでにして、早く食事を始めましょう。アン、こちらへ来なさい」
「…わかりました」
メアリアンがサミュエルの隣まで歩くと壁際に控えていた侍従が椅子を引いてくれた。それに礼を告げて座る。
遅れてウェルシスとレイチェルも座った。
「…では、いただくとしようか」
ウェルシスが言うと同時に侍従や侍女たちがスープやパンの皿を机に並べ始めた。ナフキンを膝に敷いてメアリアンはスプーンを手に取る。
スープはオニオンとコンソメが効いたものだった。それを口に運びながら食べているとサミュエルが話しかけてきた。
「…アン。今日の晩餐が遅くなったのは刺繍に没頭していたと聞いたが。今回は何の紋様に挑戦しているんだ?」
「…えっと。八重桜という花の紋様です。今の季節には合うだろうと思ったんです」
「へえ。八重桜か。それは楽しみだ」
「…あの。サミュエル様のためにとは言っていませんよ?」
メアリアンが少しきつめに言うとサミュエルは肩を竦めた。
「わかっているよ。何、言ってみただけだ」
「…そうですか。でしたら、サミュエル様の分のハンカチは無しになりますね」
メアリアンはそう言いながらスープをまた口に運んだ。サミュエルは慌てて弁解しようとする。
「…わ、わかった。アン、からかった私が悪かった。そんなに怒らないでくれ」
「おわかりになったのだったらそれで良いです。でしたら、サミュエル様の分も作っておきますね」
スープを掬う手を止めてメアリアンはにっこりと笑った。サミュエルはふうと息をつく。
「…君には敵わないな。今日も兄君たちに絞られたっていうのに。少しは労ってくれても」
「…泣き言は聞きません。サミュエル様、スープが冷めてしまいますよ」
メアリアンは冷たく告げた。息子と娘を生んでからは彼女は変わった。以前はおとなしく儚げな雰囲気だったが。今はたくましくなった。あくまで精神的にだが。
サミュエルはまた、ため息をついた。ああ、神よ。もし、願いを叶えてくださるのならば、あの可愛らしい妻をもう一度と言いたい。
今日も今日とて皇太子サミュエルは正妃のメアリアンに主導権を握られていたのだった。




