第五話 春になる音
僕は、病院へ向かった。
母に頼んで連れて行ってもらった。
行き先を聞かれたとき、うまく言葉にできなかったけれど、母は何も聞かずに車を出した。
窓の外の景色が流れていく。
見慣れた道のはずなのに、知らない場所みたいだった。
胸の奥が空っぽで、何も考えられない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
確かめなきゃいけない。
病院に着いたとき、足が震えている気がした。
動かないはずなのに、確かに震えていた。
受付で名前を言う。
案内された廊下は、僕が入院していた棟とは違う場所だった。
扉の前で、母が立ち止まる。
「……大丈夫?」
僕は頷いた。
大丈夫じゃないと分かっていたけど、それしかできなかった。
扉が開く。
部屋の中は、静かだった。
機械の音も、会話もない。
窓から、午後の光が入っている。
そして――
そこに、れいながいた。
白い布団の中で、眠っているみたいに横たわっていた。
あまりにも、いつも通りの顔で。
今にも「こんにちは」って起き上がりそうで。
「……れいな」
声が出ない。
喉が詰まる。
返事は、なかった。
近づくたび、胸の奥が壊れていく。
僕はベッドの横に止まり、彼女の手に触れた。
冷たかった。
その瞬間、世界が現実になった。
僕は、初めて理解した。
れいなは、もう来ない。
ベッドの横の机に、小さな封筒が置いてあった。
僕の名前が書かれている。
震える手で開ける。
中には、手紙と、見慣れた雪だるまのストラップの箱と同じ紙が入っていた。
> はじめへ
たぶん、この手紙を読んでるとき、私はもう会いに行けません。
直接言いたかったけど、きっと私は泣いてしまうから、手紙にします。
はじめ、覚えてる?
雪の日、あなたが私を抱きしめたとき、すごく温かかった。
あの瞬間、私は「生きたい」って初めて思ったの。
私ね、本当はずっと入院してたんだ。
心臓の病気で、長くないって知ってた。
外出許可の日、どうしても雪を見たくて、あの日、外に出ました。
はじめは、私の時間をくれた人です。
病室で話した毎日は、全部宝物です。
笑ってくれた日、名前を呼んでくれた日、外に出た日。
私、普通の中学生になれた気がしました。
ねえ、お願いがあります。
私の分まで生きて、とは言いません。
重くなっちゃうから。
はじめは、はじめのために生きてください。
歩けなくてもいい。
泣いてもいい。
怒ってもいい。
ただ、明日を迎えてください。
あなたが生きている世界は、きっと綺麗だから。
最後に。
私は、はじめのことが好きでした。
ありがとう。
また春が来たら、桜を見てください。
私も、同じ景色を見ていると思います。
――安田れいな
読み終えたとき、文字が見えなくなった。
涙が止まらない。
声も止まらない。
僕は彼女の手を握った。
「……遅いよ」
やっと言えた言葉は、それだった。
好きだって、伝えていない。
隣にいたいって、言えていない。
全部、間に合わなかった。
それでも。
鈴が、かすかに鳴った。
数ヶ月後、春。
僕はリハビリ室にいた。
腕の力だけで、必死に車椅子を動かす。
汗が落ちる。
息が上がる。
それでも、止まらない。
窓の外には、桜が咲いていた。
あの日と同じ景色。
僕は外へ出た。
スロープを降り、風の中に出る。
花びらが舞う。
空は、やわらかく青い。
雪だるまのストラップを握る。
小さな鈴が鳴る。
「……れいな」
空を見上げる。
君はいない。
だけど、確かに残っている。
僕は、生きている。
あの日、君がくれた時間の中で。
春はまた来る。
そして僕は、明日へ進む。
(終)




