第三話 名前を呼ぶ距離
退院は、思っていたよりあっさり決まった。
「自宅での生活訓練に移りましょう」
主治医の言葉に、母は嬉しそうに頷いた。
僕はというと、少しだけ怖かった。
病院には、彼女がいたからだ。
ここでは毎日、放課後になるとドアが開く。
それが当たり前になっていた。
でも家に戻れば、彼女はもう“日常”じゃなくなる。
退院の日、病院の玄関前に車椅子で出たとき、春の匂いがした。
風はまだ少し冷たいのに、光だけがやわらかい。
そこに、彼女がいた。
「間に合った!」
少し息を切らしている。
制服のまま、鞄を肩にかけていた。
「……学校は?」
「抜けてきた」
「だめでしょ」
「だって今日、退院だもん」
当たり前みたいに言う。
僕は、うまく返事ができなかった。
代わりに、彼女の名前を呼んだ。
「……安田」
彼女は、きょとんとした顔をしたあと、少し笑った。
「れいな、でいいよ」
心臓が、変な鳴り方をした。
今までずっと“彼女”だった人に、名前が与えられる。
それだけで、距離が急に近くなった気がした。
「……れいな」
口に出すと、妙に恥ずかしい。
でも、彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、分かった。
(ああ)
僕は、この人のことが好きだ。
家での生活は、想像より大変だった。
段差。廊下の幅。トイレ。風呂。
今まで意識もしなかった“普通”が、全部壁になった。
何度も物を落とし、何度も母に手伝われる。
そのたびに、胸の奥が重くなった。
「ごめん」
つい口に出る。
「謝らなくていいの」
母はそう言うけれど、分かってしまう。
僕はもう、“守られる側”になったのだと。
学校にも通えなかった。
復帰の目処は立っていない。
時間だけが増えた。
そして、考える時間も。
そんなある日、チャイムが鳴った。
ドアを開けると、れいなが立っていた。
「来ちゃった」
手にはコンビニの袋。
中にはプリンとジュースが入っていた。
「病院じゃないから、追い出されないでしょ?」
そう言って、当たり前のように部屋へ入る。
それから彼女は、週に何度も来るようになった。
宿題を持ってきて、僕に説明させる。
テレビを見て笑う。
くだらない話をする。
その時間だけ、僕は“普通の中学生”に戻れた。
六月のある日、彼女は庭に出ようと言った。
母に手伝ってもらい、僕はスロープを使って外に出た。
風が、少し湿っている。
空は薄い青だった。
「外、久しぶり?」
「……うん」
「ね、新木くん」
「はじめでいいよ」
彼女は一瞬だけ黙って、それから小さく言った。
「……はじめ」
名前を呼ばれただけで、胸が苦しくなる。
息が詰まるような、でも嫌じゃない痛み。
彼女は僕の隣にしゃがみ、庭の花を見ていた。
「私ね、前から思ってたんだ」
「なに?」
「はじめは、もっと怒っていいと思う」
「……怒る?」
「うん。悔しいとか、悲しいとか、言っていいんだよ」
僕は答えられなかった。
言葉にしようとした瞬間、胸の奥が崩れそうになったからだ。
代わりに、違うことを聞いた。
「れいなは、ないの? 怖いこと」
彼女は少し空を見上げた。
「……あるよ」
「例えば?」
少しの沈黙。
そして、彼女は笑った。
「内緒」
その笑顔は、いつもと同じなのに、なぜか遠く感じた。
その帰り際、彼女は小さな袋をくれた。
中には、鈴のついたストラップ。
雪だるまの形だった。
「お守り」
「どうして?」
「冬に会ったから」
僕はそれを握りしめた。
そのとき、不意に思った。
この時間は、ずっと続かない。
理由は分からない。
でも、なぜか確信に近い感覚があった。
夕暮れの中、彼女は手を振って帰っていく。
その背中が、やけに細く見えた。
僕は初めて、はっきり願った。
(歩きたい)
もう一度、立ちたい。
彼女の隣に、同じ高さで立ちたい。
そのためなら、痛くてもいい。
苦しくてもいい。
あの日、死ねなかった理由が、ようやく分かった気がした。
僕は、彼女と生きたい。




