第一話 雪の交差点
僕は、この日本で、特に不自由なく暮らしてきたと思う。
ご飯は出てくるし、学校にも行ける。
屋根のある家で眠れて、寒さや飢えに怯えることもない。
だからきっと、幸せな部類なんだろう。
……それでも。
死にたいと思ったことがある。
だけど、自分で終わらせる勇気もなかった。
小学生の頃、家ではよく両親が喧嘩していた。
怒鳴り声。
皿のぶつかる音。
ドアを強く閉める音。
最初は怖くて布団の中で震えていた。
でも、いつの間にか、僕が止める役目になっていた。
「やめてよ!」
泣きながら二人の間に入る。
だけど、僕にできるのはそれだけだった。
親は一瞬だけ静かになる。
でも、しばらくするとまた始まる。
僕はそのたびに思った。
(僕がもっとしっかりしていれば)
(僕がもっと大人なら)
何も変えられない自分の無力さを、何度も噛みしめた。
それから僕は、人との間に波風を立てないように生きるようになった。
怒らせないように。
嫌われないように。
空気を壊さないように。
本心を隠して、愛想笑いを浮かべる。
自分の気持ちは後回し。
いつの間にか、何が好きで、何が嫌いなのかも分からなくなっていた。
心が悲鳴を上げていたことにも、気づかないふりをしていた。
僕は中学二年生になった。
両親の喧嘩は少なくなっていた。
だけど僕は、感情を出すのが苦手なままだった。
喜びも、怒りも、悲しみも。
どこか遠くに置いてきてしまったみたいだった。
それでも毎日は続く。
学校へ行き、授業を受け、友達と話を合わせて笑う。
ただ、それだけの生活。
けれど、心の奥ではずっと思っていた。
(いつか、限界が来るかもしれない)
そしてその前に、僕の人生は終わった。
中学三年の、十二月。
雪の降る日だった。
路面はところどころ凍り、その上に雪が絨毯のように積もっていた。
世界が白く塗りつぶされていく。
受験勉強で疲れきった僕の心と体を、その静けさが少しだけ軽くしてくれた。
ただの帰り道になるはずだった。
いつも通る、人通りの少ない交差点に差しかかる。
雪で視界が悪い。
それでも信号が青なのは分かった。
一人の女の子が、横断歩道を渡ろうとしていた。
そのとき、見えた。
トラックが、スピードを落とさずに走ってきている。
きっと雪で信号も、人も見えていない。
気づいたときには、僕は走り出していた。
考えたわけじゃない。
体が勝手に動いた。
女の子に追いつき、抱きしめるように押し倒す。
そして――
衝撃。
次に目を開けたとき、知らない天井があった。
知らない部屋。
窓からは暖かい光が差し込んでいる。
わずかな薬品の匂い。
白を基調とした清潔な空間。
(……病院?)
まだぼんやりする頭で体を起こし、窓の外を見る。
満開の桜が咲いていた。
そのとき、病室のドアが開いた。
振り向くと、花束を持った女の子が立っていた。
どこかで見たことがある気がする。
けれど思い出せない。
彼女は僕を見ると、突然涙を流した。
花束を机に置き、ベッドの横の椅子に座ると、僕の手を両手で包み込む。
小さな声で言った。
「よかったぁ……」
僕は、そんな彼女に見惚れていた。
「……きれいだ」
「えっ?」
彼女が固まる。
僕も固まった。
(今、声に出てた?)
沈黙が流れる。
「ごめん」
「あ、いえ! 嬉しいです!」
「え?」
今度は僕が固まった。
彼女の頬がみるみる赤くなっていく。
そして手を握ったままなのに気づき、慌てて椅子ごと後ろを向く。
深呼吸を繰り返しているらしい。
「……かわいい」
彼女の肩がびくっと震えた。
しばらくして、彼女はゆっくりこちらを向く。
「助けてくれてありがとう」
「……え?」
「雪の日、トラックに轢かれそうだった私を、かばってくれたでしょ」
その瞬間、記憶がつながった。
(……ああ)
僕はトラックに轢かれたんだ。
「……死んでもよかったのに」
「えっ!?」
「あ、違うからね。君が無事でよかったって意味」
彼女の表情が曇る。
僕は慌てて話題を変えた。
「ここ、どうして?」
「私の親の病院なの。お見舞いに来たの」
(だから個室なのか)
「それより体、大丈夫?」
「うん、どこも異常ないみたい……だ……?」
違和感に気づく。
足の感覚が、ない。
僕は布団の中で力を込めた。
動かない。
「……あれ?」
もう一度、力を入れる。
動かない。
心臓が大きく鳴り始めた。
「ねえ……僕の足……動いてる?」
彼女の顔から血の気が引いた。
そして、僕は悟った。
僕の人生は、ここから始まるんじゃない。
――変わってしまったんだ。




