第十二話
砦の外は、静まり返っていた。
フォルたちは正門近くの拠点内に身を潜め、外の様子を監視していた。
外は一面の闇。耳を澄ませば、風が鉄壁をなでる音だけが聞こえる。
「……そろそろ時間だな」
フォルが呟く。
「すごいですね。電気系統も壊されたんだと思ってました」
ミスティアが小さく頷く。
「まぁ、今回はね。早い段階で、絞り込みたかったから」
デリアが肩をすくめた。
護衛の男が小型魔道具を取り出し、砦の壁に差し込む。
カチリ、と乾いた音。
鉄壁に沿って光が走り、淡い魔導灯の明かりが門と外壁を照らし出した。
闇を切り裂く光は心強いはずだった。
だがその明かりは、まるで「何か」を照らしてしまったような、嫌な気配を伴っていた。
「点きましたね。……でも、動いてる音がありません」
護衛の男が眉を寄せる。
デリアは端末を接続口に差し込み、手元の画面に映像を映し出した。
門、外壁、回廊——
どのカメラにも、人影はない。
整然とした静寂。
まるで時間そのものが止まっているようだった。風が吹いているはずなのに、木の影すら揺れない。
光だけが、無機質に石壁を照らしていた。
「誰もいないわね。死角に隠れてるのかしら」
「ハクさん達の所に、全員行ったんですかね……?」
ミスティアが不安げに呟く。
「デリアが狙いだって話になったんだ。そんな賭けで得するのは、こっちだけだろ」
フォルの声は皮肉めいていたが、その指先は無意識にモニターの縁を叩いていた。
カン、カン、という音だけが、この部屋で生きている音のように響く。
その時——スピーカーからノイズが走った。
カリ……ジ、ジジ……という擦れるような音。
そして、子供の歌声が混ざった。
最初は耳鳴りのように遠く、だが次第に明瞭になっていく。
まるでこの砦の中で歌っているかのようだった。
幼い声。
意味を持たない、途切れ途切れの旋律。
それなのに、耳を離れない。
聞けば聞くほど、どこか懐かしささえ滲む。
「……今の、誰ですか?」
ミスティアが問う。
「どうなってるの? 通信? そんなはずはない……今は、外部とは遮断されてんのよ」
デリアが端末を確認する。
その時、フォルの顔色がみるみるうちに変わった。
呼吸が荒くなり、額に汗が滲む。握った拳が震え、爪が掌に食い込む。
「フォル?」
デリアが声をかける。
フォルは押し殺した声で言った。
「デリア……今すぐハクたちに伝えろ。――絶対に外に出るな。――声に応じるな。――扉を閉めて、鍵をかけろ」
その異様な切迫感に、空気が凍る。
ミスティアの喉がごくりと鳴る。
「なにが起きてるんですか? 何の声なんですか?」
ミスティアが問う。
フォルは目を閉じる。
黒い森の奥。第四区域への調査が解禁された時の事。
あの日——俺は数十メートルはある木の上にいた。
夜営の見張り役として、高い木の上から周囲を見渡していた。
「その日、数千の冒険者が前へ出た。第四区域が開き、金の匂いに皆が浮ついていた。人数の多さが安全だと思い込んでいた。」
これだけの人数がいれば、大丈夫だと。
そして——歌声が聞こえた。
最初は遠く、だが徐々に近づいてくる。
「おい、待て!」
誰かがそう叫んだ——のが聞こえた。
それから悲鳴が上がり、戦闘が始まり皆警戒体制に入った
すると真っ白になった冒険者が茂みから現れ、下に居た仲間が斬りつけたが、刃が立たず引きずられ、連れていかれた。
徐々に周辺から、叫び声と悲鳴が止まらなくなった。
数千人いたはずなのに。
その日帰ってこれたのは——8人だけだった。
俺は木の上で、ただ怯えて見ていることしかできなかった。
運よく助かっただけ。
自身の無力。絶望。
生きて帰れないと覚悟した日。
フォルは目を開ける。
「"宵闇の歌姫"だ」
その名を聞いた瞬間、護衛の男の顔が一瞬で蒼白になった。何も言わず立ち上がり、走り去る。
重く沈む沈黙。
デリアがフォルを見つめる。
「……嘘でしょ。」
フォルは答えない。
視線を落とし、拳を握り締めている。
デリアは彼の表情を見て、察した。
「……そう」
「……何度か遭遇した事はある。今でも忘れられない。」
フォルが低く呟く。
「どういうこと?」
「声に誘われた者は……錯乱して導かれるらしい歌姫のもとへ」
フォルの声は震えている。
「白くなった魔物や人は……手の感触で探す。見つけたら、捕まえて連れてかれる」
「……倒せないの?」
「分からない。魔法は効かない。肉体の強度も異常に高い。あれに捕まってから抜け出せた奴は自分の足を切り落としら者だけだ。」
フォルは腕時計を見る。
「耳でも聞こえているんじゃないかって議論もある。だから、動かないのが一番だ。声に反応して錯乱すると……自ら出ていってしまう。そうなったら、助からない」
デリアが息を呑む。
「……朝まで?」
「ああ、朝まで耐えれば、去っていく。今回は……運が良かった。壁は金属製だ。鍵も閉まってる。だから、朝まで絶対に動くな」
フォルが腕時計を見る。
午前2時。
(……夜明けまで、あと4時間)
モニターに、外門前の影が映った。
ミスティアが画面を凝視する。
一人の男が、ふらつきながら立ち上がっている。
「……あの人、何してるんですか?」
その周囲で、盗賊たちが唖然としたように見つめている。
数人が駆け寄り、男の肩を掴んで口を動かしている——何か叫んでいるのだろう。
だが、男は止まらない。
盗賊たちを振り払い、何かを見上げてゆっくりと両腕を上げた。
まるで——「誰か」を呼んでいるかのように。
男の口が動く。何かを叫んでいるようだが、音声は聞こえない。
名前を呼んでいるようにも見える。
デリアが眉をひそめる。
「……何してるの、あいつ」
盗賊の一人が銃を構える。
「やめろ!」
誰かが叫んだようだが、遅かった。
銃声。
男が崩れ落ちる。
だが——次の瞬間、飛び散った血が空中で止まった。
「……え?」
ミスティアの声が震える。
血の粒が、宙に浮いたまま動かない。まるで時間が止まったように。
透明だったはずの何かが、さらに赤黒く染まっていく。
モニターの画面が歪み、ノイズが走って映像が乱れた。
だが、映像の乱れの向こうに——何かが見えた。
人の形をしていない。色も、輪郭も定まらない。
ただ、「そこに在る」ことだけが分かる。
周囲の盗賊たちも、その異常に気づいて動きを止めた。
全員が固まっている。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
ただ、宙に浮いた血を見つめている。
沈黙。
その時——背後から、何かが現れた。
ぎこちない動きの、白い魔物。
いや——魔物ではない。
何かが違う。
色が完全に抜け落ち、真っ白になっている。
動きがぎこちなく、まるで操り人形のように。
白い魔物が、固まっている盗賊の一人を掴んだ。
悲鳴。
盗賊が引きずられていく。
血が止まった場所へ。
他の盗賊たちが、ようやく我に返って逃げ出す。
血の粒が、ゆっくりと形を変え始めた。
一つ、また一つ。粒が集まり、糸のように伸びていく。
糸が蠢き、まるで生きているかのように宙を漂う。
そして——逃げる盗賊たちへ向かって伸びた。
すると透明な触手が、次々と盗賊を捕らえていく。
まるで、見えない何かが手を伸ばしているかのように。
盗賊たちは抵抗するが、触手は離さない。
一人、また一人と引きずられていく。
血が止まった場所へ。
血の糸が死体の周りを漂い、死体の口、耳、鼻、目——全ての穴に這い込んでいく。
ミスティアは吐き気を堪える。
死体が痙攣し、手足が不自然に曲がって背骨が軋む音が聞こえる気がする。
そして——死体が立ち上がった。
首が後ろに折れ曲がったまま。腕が逆方向に曲がったまま。
糸に操られた人形のように。
ミスティアは口を押さえた。
血の糸が集まり、形を取っていく。
最初は輪郭だけ。だが徐々に——「それ」が見えてきた。
人の形。
顔がない。のっぺらとした頭部から、長い髪のような触手が無数に伸びている。
触手が蠢き、捕らえた盗賊たちを弄ぶ。
そして——「それ」が浮き上がった。
地面から離れ、宙に浮いている。身長は2メートルほど。
フォルは小さく呟いた。
「……魔物じゃない。次元が違う」
ミスティアは凝視する。
その身体——様々な色が混ざり合っている。
赤、黒、青、緑、紫……無数の色が渦巻き、溶け合い、どす黒く染まっている。
まるで、無数の「何か」が混ざり合っているかのように。
そして——その身体の中に、何かが蠢いている。
ミスティアは目を凝らすが、何なのかは分からない。
ただ、何かが動いている。
影のようなもの。形のようなもの。
それが、内側から押し出そうとしているかのように。
ミスティアは息を呑む。
(……何、あれ……)
「それ」が、ゆっくりと周囲を散策し始めた。
手——というより、赤い糸が地面を這い、何かを探すように動いている。
岩の隙間へ触手が入り込む。
木の根元へ触手が伸びる。
荷物の山へ触手が這っていく。
まるで、隠れている者を探しているかのように。
すると外の地面に、光の陣が走る。
「よりによって、このタイミング……」
デリアが息を詰める。
次の瞬間、閃光。
爆音と共に画面が白く弾け、ノイズを吐いて映像は完全に途切れた。
沈黙。
歌声が止まった。
その瞬間、空気が変わった。
次の瞬間——理解不能な言語が、頭の中に流れ込んだ。
「それは音ではなかった。思考の地盤に、異国の“文法”が打ち込まれる。意味は最後まで届かない。」
意味は分からない。だが、「感情」だけが伝わってくる。
飢え。渇望。憎悪。悲しみ。絶望。怒り。
チグハグな感情が、一度に押し寄せてくる。
まるで、無数の感情が混ざり合っているかのように。
徐々に周囲の視界が変わってゆく。
天井の白い魔導灯が、黒く見える。
いや——黒く染まっていく。
影が赤く染まり上がり、壁が脈動しているように見える。
デリアの顔が歪んで見える。
いや——歪んでいるわけではない。
だが、何かがおかしい。
何もかもが、ずれている。
(……何、これ……)
幻覚のような、現実のような。
次元が、ずれているような。
ミスティアの身体が震える。
吐き気がする。頭が割れそうだ。視界が揺れる。床が傾く。
立っていられない。
だが——その中に、何かが混ざっている。
懐かしい感覚。
温かい感覚。
ミスティアは記憶を辿る。
誰かの声。
優しい声。
歌ってくれた声。
(……この歌……)
似ている。
いや、違う。
でも——
「……兄さん……?」
ミスティアの目が虚ろになる。
「……ミスティア?」
デリアが呼びかけるが、反応がない。
ミスティアは一歩、扉へ向かって足を踏み出した。
「っ……!」
フォルが即座に動く。
ミスティアを抱き寄せ、壁際に押しつけて片手で口を塞ぎ、もう片方で身体を固定した。
「……落ち着け。俺やデリアがいる」
声は低く、穏やかで——震えていた。
外に"それ"がいる。声を上げれば、確実に見つかる。
ミスティアの呼吸が徐々に落ち着く。
虚ろだった目に、少しずつ焦点が戻ってくる。
(……私、今……)
ミスティアは震える手で、フォルの服を掴んだ。
フォルは小さく息を吐き、思考を沈める。
(落ち着け。落ち着け。対処法は間違えていない。今は、何もするな。息を潜めていれば――やり過ごせる)
胸の鼓動が耳の奥で鳴る。冷たい汗が首筋を伝う。
(……あの時、俺は何もできなかった)
フォルはミスティアを抱き締める力を強める。
(……今度は、やり過ごす)
外の爆風が壁を震わせ、照明が一瞬明滅する。
フォルは小さな声で言った。
「……朝まで、絶対に動くなよ」
砦の外から、音が響いた。
低く、震える唸り。
それは「声」ではない。頭の中に、直接入り込んでくる。
室内の光が、黒く滲み始めた。影が、赤く染まり壁が溶けていくように見えていく。
ミスティアは息を呑む。
その瞬間、異臭が漂ってきた。
血の匂い——いや、違う。何かが腐ったような、吐き気を催す匂い。
ミスティアは息を止める。
壁が叩かれた。
ドン。
鈍い衝撃音。
もう一度。
ドン。
連続して響く。
ドン、ドン、ドン。
空気が粘つくように重くなる。肌を糸のような何かが這いずるような感覚。
ミスティアの腕に、鳥肌が立った。口の中に、鉄の味が広がる。
灯の明滅に合わせて影が脈動した。
デリアがかすれた声で問う。
「……入ってくる……?」
「……分からない。だが、鍵は閉まってる。金属の扉だ。簡単には入れない」
フォルは答えるが、その声は震えていた。
ただミスティアを抱いたまま、扉を睨んでいる。
(黒い森で調査を難航させた。岩の隙間や木の上に逃げて、何度もやり過ごした)
光がひとつ、消えた。また一つ。また一つ。
赤黒い影だけが、ゆっくりと伸びていく。
扉を叩く音が、激しくなった。
ドン、ドン、ドン、ドン、ドン——
金属の扉が軋む音が響く。
あと、どれくらい持つだろうか。
歌声が再び聞こえてきた。
——何かが違う。
最初は一つだった声が、今は複数に聞こえる。
子供の声、大人の声、老人の声……様々な声が、全て同じ旋律を歌っている。
ミスティアは震える。
(……何人で歌ってるの……?)
まるで、合唱のように。だが、不協和音のように。
美しいのに、恐ろしい。
時間が遅く感じる。1分が、1時間にも感じられる。
光が、また一つ灯が落ちる。闇が、迫ってくる。
――
午前4時。
まだ、扉を叩く音は続いている。
ミスティアは震えながら、フォルにしがみついている。
デリアは壁にもたれ、目を閉じている。
誰も、言葉を発しない。
ただ、耐え続けるだけ。
フォルは時計を見る。
(……あと2時間)
歌声が、また変わった。
無数の声が重なり、美しくも恐ろしい旋律を奏でている。
フォルは目を閉じる。
光が、また1つ闇に侵食された。
もう、ほとんど残っていない。
闇が、すぐそこまで迫っている。
だが——フォルは動かない。
ミスティアを抱き、デリアを守り、ただ朝を待つ。
外では、歌声が続いている。
美しく、恐ろしく、悲しい歌。
誰かを呼ぶ歌。
誰かを求める歌。
だが、その声は——誰にも届かない。
フォルは目を閉じ、ただ耐えた。歌は止んでも、耳のどこかがまだ合唱の呼吸で上下していた。
――




