精霊士、悪意と悪禍 1
深々と頭を下げる。
それは新卒者の彼女にとって慣れたことではない。
第一特務部に採用されて、眼前の男性に会うのは三回目だった。
「大川いちるさん。これから監察官として、がんばってください」
眉毛が濃くて太い、精悍な顔つきの男性が言った。
彼は第一特務部室長を務める高田信政だ。
「はい! 精一杯がんばります!」
「任務内容などについては、戸田課長から聞いていますね?」
「はい……!」
「任務以外の詳しいことは、先方が直に教えてくれるので心配はいりません。
――では、さっそく向かってください。
到着時間は連絡してありますので、駅に迎えが来ます」
「はい! 失礼します!」
彼女は緊張によって動きが鈍くなる手で扉の取っ手を掴んだ。
――ぐう! 開かない……! なんで? これは……もしかして!
試されてる……!
いちるは特務育成学校時代の様々な訓練を思い出した。
――自発的に行動する。
――ありとあらゆることを想定する。
――待ちの思考は万死に値する。
重厚な木製扉の前で、右脚を上げ身体を捻転した時だった。
「押すのではなく、引くのですよ」
背後から冷ややかな声がした。
「え……」
振り返ると高田室長の瞳から哀れみの感情が滲んでいる。
「急いては事を仕損じる、という言葉があるでしょう。よく考えてから行動しなさい」
――だ、騙された! 恥ずかしい……! 半笑いだし……!
「こ、これから試すところでした」
「片脚を上げて?」と、高田室長も片方の口角だけが上がっている。
「…………。すみません……」
「壊そうと考えるなんて異常です。
短絡的な思考は、任務において重大な過失を起こす可能性があります。
入室の際には普通に入ってきたのだから、その逆をすればよいだけでしょう」
「すみません……」
唇がいくらか飛び出し、床に向かって垂れた彼女の黒髪は戻らない。
「己の行動に責任を持ちなさい。もう学生ではないのだから」
「す、すみません」
「…………。早く行きなさい」
紅潮した頬に白さが戻ることもないまま、長く広い磨かれた廊下を歩きだす。
いちるが監察官として所属する第一特務部は、警察総局の管理下にある。
巨大な建物の中には第一特務部の他にも第二特務部、第三特務部、警察部、刑務部、
警護部、外件部など様々な部署が存在する。
特務部の任務内容は、世にあまり知られていないし、信じる者も多くない。
しかし、名刺の頭に警察総局という名が入るため、市民に認知されておらずとも、
虎の威を借る狐のように、その肩書は有効である。
『警察総局 第一特務部 監察官 大川いちる』
足早に出口へ向かうと、眼前に杖を携えた老人男性の姿があった。
杖は鳩尾に達するほどで、やけに太くしっかりとした造りだ。
白シャツに灰色のスラックス、年季の入った麦わらから白髪が出ている。
老人は目元にある皺を伸ばし大きく目を見開いた。
微動だにしない姿は切り取られた映像のようで、いちるをまじまじと見つめている。
――どうしたんだろう。
芯を失ったように老人の肢体が揺れた。
「おじいちゃん……! 大丈夫!? 歩けますか?」
老人へ駆け寄って身体を支える様は、介護士の一人に見えてもおかしくはない。
「ん……歩けるかって、ワシは一人で歩けるよ。身体も悪いところないしな」
「だって杖持ってるし、急に立ち止まって……。
ふらついたように見えたから。あっ、お水飲みますか?」
出入口付近にある自動販売機に顔を向けて、いちるは老人の身体を気遣う。
老人は病気などではないと言わんばかりに「水はいらんね。酒があるなら、酒がええ」
と、冗談を飛ばす。
「お酒は無いねー、ごめんね!」
「そうかい。じゃあ……これで失礼するよ」
手刀にした右手を二度ほど振って、彼女の気遣いに感謝して立ち去ろうとする。
「ちょっと、ちょっと! どこかへ向かっているんですよね?
お手伝いしますよ! 迷惑じゃなかったら……だけど!」
善意の押し売りにならないように、言葉を選んだようだが相手も断りづらいはずだ。
老人は白い眉をハの字にして、渋々といった様子で彼女の申し出を受けた。
「すまんねえ、お嬢さんの時間を奪って」
「いえ、いえ! そんなことありませんよ!
困っている人がいたら助けるのは当たり前です……!」
「当たり前のこと……か。それは、ずいぶんと難しいもんだねえ」
「そうですか? 私にとっては普通です。平均的です!」
老人の肩へ手を回した彼女は、嘯くことなく真っ直ぐに答えた。
「――お嬢さんを育ててくれたご両親、ご家族は良き人たちなんだろうねえ」
いちるは少し俯いて、間をおいてから顔を綻ばせた。
「えへへ。うん、そうだよ! あの……どこまで行きますか?」
老人が口にした場所は、広い休憩室の前にある長椅子であった。
緩徐な歩行速度で目的地へ誘導していくが、いちるに一つの疑問が生まれる。
――おじいちゃん……ずいぶん筋肉がある。
手のひらで支えた肩周りの筋肉は、弾力性を持ちながらも確かな厚みがあった。
目的地までの話題にしようかと考えたが、今日は緊張感もありながら気分が高揚している。
ついつい自身の話をしたくなった。
「おじいちゃん。わたしね、今日から働くんですよ」
「ほう……新生活か。なにを生業とするんだね?」
「うーん、言えないんです……守秘義務ってやつで。
仕事中に必要がある時だけ言っていいみたいなんだけど。
――ごめんね! でもね、願っていたことの第一歩になったんです」
いちるが老人に目を向けると、彼の視線とは合わなかった。
「そうかい……それは、よかったねえ。
しかし、人の願いは必ずしも幸福なものに置き換わるものではないからねえ。
――気をつけるんだよ」
「え……いや、いや、そのトーンで言われると、なんか怖いです!
お前の未来真っ暗になるよ、みたいで……怖いから!」
「おや……これはすまんねえ。
優しい子には、優しい未来が待っていてほしい。そう言いたかったんじゃ」
「えー、本当かなー。あっ、そこの長椅子でいいですか?」
指差した先には褐色の長椅子が老人を待ち構えている。
「どうも、ありがとねえ」
「いえ! じゃあ、失礼します! またね!」
小さく手を振り、別れの挨拶をしたと同時に、顔見知りが奥の角から現れた。
――第一特務部室長、高田信政。
先程の粗相を思い返し深く頭を下げた。
顔を上げると、踵を返し逃げるように歩き始めた。
*
第一特務部を出てから二時間近く経過していた。
いわゆる無人駅に降り立って、まだ日の浅い緑の香りを鼻腔から吸い上げる。
――いい香りだなあ……。気持ちいいなー。
天日の国、関東某所。
様々な息吹が最盛期を目指すであろう田舎町の駅前に人の気配は無い。
田舎町は自動車が主流であるから、人の気配も駅前になにがあるということもない。
駐車場には古ぼけた軽トラックが一台、黒光りする四駆の一台だけがある。
寂しさの中で桃色の旅行鞄を隣に置いた。
彼女は迎えが来ると聞いていたから、スマートフォンを確認する。
そういえば、先方の連絡先を知らない。
相手は知っているのかな、と疑問を浮かべつつ五段あるコンクリートの階段を下りた。
引き締まった臀部に黒のスラックスが少しばかり食い込む。
右に目を向けると、退色したベンチに青年の姿がある。
黒髪を中央で分けて、顔の色は白く、爽やかな印象を持つ彼はすっと立ち上がった。
「――監察官の大川いちるさんでしょうか?」
「あっ……はい! お迎えのかたですか?」
「はい。神天山……神天村へのご案内をいたします。
照元陽翔と申します」
――イケメンだ……。
陽翔の瞳は、どことなく少年の雰囲気を漂わせ人としての温かさが洩れている。
いちるが彼のことを見上げていて、彼女より頭二個ほど背が高い。
「初めまして、大川いちるといいます!
好きなことは食べること、特技は読唇術です!
好きなタイプは爽やかで優しい人です!
嫌いなタイプは、オラオラしてる人とかイキってる人です!
あと……礼儀を知らないバカもだいっきらいです!」
はきはきとした彼女の言葉に、陽翔は満面の笑みで何度か頷いた。
「丁寧な自己紹介、ご配慮いただきありがとうございます。
電車でのご移動、お疲れではありませんか?」
「はい! ずっと窓の外を見て、動体視力を鍛えていたので退屈しなかったです!」
「動体視力ですか……」
――ヤバい! 変人だと思われる……!
「あ、遊びです! 遊び……というか訓練のくせが抜けないので!
変な趣味とかではないので安心してください!」
「ああ、特務育成学校の訓練ですか。
――あちらにお車の用意がありますので、どうぞ」
陽翔に促されて向かった先は黒の四駆がある。
彼は助手席のドアハンドルを引いてから、どうぞ、と右手を伸ばし車内へ導く。
――えっ……見た目だけじゃなくて、中身も紳士なの!?
静かな田舎道を走り出した自動車は、すれ違う車両と比較して安全運転である。
速度は一定、ブレーキングも滑らかで心地よく進んでいく。
「すみません、これから一時間ほど走ることになります」
「全然、大丈夫です!」
「動体視力を鍛えられますね」
いちるはぎくりとした。
「さ、さっきのは冗談みたいなものですよー! 特学の笑いみたいなものです!
――そう、そう、陽翔さんは若そうですけど、何歳なんですか?」
「二十歳になります」
「あっ、年下なんですね!」
「そのようですね。ぼくには敬語でなくて大丈夫です。
大川さんは、監察官でもありますので」
「はい……! うんと……じゃあ、タメ口でいくね」
いちるは春起こしを終えた田んぼをフロントドアガラス越しに眺めていた。
都会では見ることの少ない自然が早送りで流れていく。
右側へ視線を移すと、前方をしっかりと見据えた陽翔へ質問する。
「これから行く場所って、どんなところなの?」
「自然が豊かで、とても綺麗なところですよ」
「へー、この町もすっごく綺麗で素敵だと思うけど」
自然が豊かとはいえ、先程まで走っていた国道には様々な店が並んでいて、
有名なチェーン店も何店舗か出店している。
都会で生まれ育った彼女からしてみれば、緑が続く道は田舎町に変わりない。
自動車は山のほうへ向かっているようで、自動車の往来も少なくなっていた。
民家もそれほど多くない。
「少し寄りたい場所があるのですが、寄ってもいいですか?」
「うん、いいよー」