序章 2
両手が止まった。疲弊したようには見えない。
血糖値が上がる昼下り、うつらうつらとする職員は鈍くなった頭で日報を打ち込む。
その時のことだ。霞んだ思考は爆音によって瞬時に覚醒した。
建物内には爆音が続き、緊迫した声が長い廊下を走り抜けていく。
――緊急警報。
「繰り返す! 緊急警報……! 襲撃の可能性あり! 総員戦闘用意!」
天日の国、関東某所の山中にある特別措置拘置所、黒いスピーカーから繰り返される声。
刑務室では怒声が飛び交っていた。
「おい、牢のほうはどうなってる……!」
「全員収監! 異常ありません!」
「絶対に外へ出すなよ! 奴らを出せば、とんでもないことになるぞ!
特に……第一級犯罪者の九十七番!」
「さっさと配置につけ! 戦闘部隊は現場へ急行!
他の部隊も新たな敵襲に備えろ!」
「所長! 監視カメラに侵入者の姿あり! 侵入者があります……!」
「なに……数は!」
「その数……九人です!」
「所長、九人となると……あれの残党かもしれません」と、刑務長が眉間に皺を寄せた。
侵入者は目にする機会がほとんどない小袖に羽織、武者袴という出で立ちで、
その色は葬儀に参列するような漆黒だ。
侵入者は刀を手挟んで、映像には抜刀した姿も映し出されていた。
「第一ゲート、第二ゲート、すでに突破されています!
ゲートを閉めていますが破壊され……恐ろしい速さです!」
特別措置拘置所は、天日の国に対し武力や思想で反逆した者が囚われている。
外患誘致、国家転覆、要人暗殺、政治犯、殺人などを行った人物が名を連ねていた。
それらは表沙汰にならない事件である。
秘密裏に囚われているため、公になっている者はいないし、裁判されることもない。
収監された人物の中には司法取引に近い形で手腕を国家に貸す者もいる。
収監されている人数は、およそ三十人。
特殊な訓練を受けた刑務官の数は、その五倍以上である。
その刑務官の一人。
春に職務を開始した伊藤は瞬きを繰り返す。
彼は特務育成学校出身である。
他の刑務官が駆け回る風圧と身体への衝撃が廊下に佇む彼の瞬きを加速させた。
「おい……! お前! なに突っ立ってんだ! 今すぐ戦闘準備に入れ!」
「あ……あ、あ、はい……!」
刑務室では新たな問題が発覚する。
「所長! 監視カメラに奴が……奴が牢から出た模様です!」
「なに!? 奴の牢は何重にも囲んだ堅牢だ……!
セキュリティも世界最高峰のはず! まずい……まずいぞ」
所長の顔と脇が冷ややかに濡れていく。
彼にとっては天下り先として選んだ職場で、実務は優秀な部下が担当していた。
安楽椅子に揺れているだけで、月に何百万もの金が手に入る。
此度の件で豪遊生活を失う可能性、上層部からの追及も免れない。
拘置所に侵入してきた賊と収監されている一人によって。
このような不測の事態、自身が責任を取る怒りを机にぶつけた。
――クソが! クソがっ! どうなる? 責任は、どうなる? 俺なのか……?
いや、いや、こいつらが不甲斐ないからだろう!
そうだ、刑務官と刑務長が悪いのだ……!
俺には……なんの落ち度もない! 全部、こいつらが悪い!
保身に走る彼が額の汗を手のひらで拭った時だ。
「刑務官の皆さま、こんにちは」
その声に反応して、刑務室に詰めていた刑務官が一斉に振り返る。
端正な顔立ちの青年が立っていた。
二重瞼の奥にある憂いを含んだ瞳、鼻筋は綺麗に通っている。
輪郭もすっきりとした美青年であって、年の頃は二十代半ばだ。
左耳にかけた片側の黒髪は肩ほどまであって、もう片方は艷やかに顎下まで垂れている。
囚人服は草臥れた灰色であるが、彼の雰囲気には気品と妖しさがあった。
「お、お前……! どうやって、ここに……どうやって牢から出た!」
と、震えた指先で青年を差す所長は動揺している。
「あのようなものは、ぼくにとって監獄になどなりえません。
傷を癒やし、力を戻す……そして、力を練っていた場所です」
奥歯を噛み締めた所長の太い血管が浮き上がる。
それを見た青年は微笑を浮かべ、少しばかり揶揄する言葉を吐いた。
「今までお世話になりました。長年の労り感謝いたします。
――先程から聞こえる戦闘音……我が同志も力をつけてきたようですね」
「やはり……侵入者は、お前の仲間か!」
「ええ、今日という日を示し合わせたわけではないですが。
――あなたがたと争う気はない。心ばせ人は傷つけません」
「なんだと……」
所長の身体が僅かに緩まった。
「しかし……あなたがたは一般の民ではない。
当然、己が選んだ、己の職務を全うするはずです。
そうでなくては、天日の民として『義』と『誇り』に欠ける。
互いに目的遂行のためであれば致し方ない。それに……どうやら心ばせ人でもない」
「総員構えろ! 油断するなよ……!」
と、刑務長はじりじりと後退しながら激を飛ばす。
この刑務室には、およそ五十名が待機している。
残りの百余名は、各々の持ち場にて侵入者と対峙しているはずだ。
特別措置拘置所は有事の際に使用する銃火器が備えられていた。
ゴム弾など相手を制圧するものはなく、すべて実弾だ。
侵入者に対して繰り出す絶え間ない銃声がそれらを物語っている。
万が一にも脱獄や反乱が起きた場合、制圧するのではなく殺傷することが最優先される。
生死など問わない、それほどの危険人物たちがいるからだ。
「――さあ、互いに今ある『義』をかけて戦おう。もはや、問答はいらない。
己のすべてを賭けて向かってこい……」
刹那で世界は変わる、時が止まるほどに。
刑務官の一人が後に語った。
張り詰めた緊張の糸……誰が動いたか、誰が動けなかったか。
その瞬間は、まるで音の無い世界に紛れ込むようであった、と。
本来なら銃声と断末魔にも似た声が聞こえるはずだ、と。
唯一、明瞭とした音は、窓の外にある桜木に止まった鳥の囀りだったという。
鶯の囀りは飛ぶ前に聞こえたのか、飛んだ後に聞こえたのか。
その日、特別措置拘置所の白い壁は血飛沫によって簡単に模様替えをした。
死者こそでなかったが、拘置所内は重傷者で埋め尽くされることになる。
一人の刑務官を除いて。
「見ない顔だ。今年度から入った新人かな?
失礼、ぼくは……きみのところでいう九十七番だ。きみの名を教えてくれないか」
穏やかに微笑む青年は、敵意が無いことを示している。
「え、え……い、伊藤……です……」
生きている心地も安心できる場も消え失せ、血の気が引いている伊藤は呼吸が浅い。
「伊藤くん、恐れがあるというのは決して悪いことではない。
向かう者、見る者、逃げる者……きみのように戦わない選択をしたことも一つの勇気だ」
「え、え、あ……あの……」
空気を重くする威圧感によって伊藤の身体は極度の緊張状態にあるはずだが、
一定の弛緩により下半身の制服は濃さを増していく。
「最善の選択は認める。だが、職務を全うすることができない臆病者でもある。
きみの職務の第一とは……この拘置所から罪人を出さないことだ。
それを放棄するなど愚の骨頂だ。恥を知りなさい」
「ひっ……! ひっ……す、すみま……」
「罪人を見逃して……自分は無傷でした。
今後、非難されることは免れないだろう。
そこで……ぼくから愚かなるきみへ細やかな贈り物だ。
無傷であることの小さい理由に使えばいい」
「ひっ! ひいっ、な……なんで、なんですか……」
伊藤の耳元に顔を近付けて、青年は囁くように……しかし、はっきりと通る声で伝えた。
「――政府とすべての精霊士に伝えろ。
我らの道の邪魔をすれば……容赦なく斬り捨てる」
――止められるものなら、止めてみろ。
伊藤は最後の言葉を身に刻みこむ。
すべての穴から体液を出し、その場に崩れ落ちた。
大声を出すことを禁じて、泣き声を小さい水溜りへぶつける。
拘置所には呻き声が続いていた。