序章 1
両手を止めた。目の前にある物を食らうために。
「いただきます……!」
『大川いちる』は、ショートカットで少し癖のある黒髪を両耳にかけた。
前には褐色の唐揚げが並ぶ。上には白い線が波のように引かれ海苔が散らされた。
免許証ほどの大きさがある唐揚げは十個以上、白米の量は六合ほどあって、
大量の水菜とキャベツが添えられている。
それらを受け止めた器は『いちる専用丼』と呼ばれていた。
丼というより、こね鉢であって、彼女以外が使用することはない。
「おいしい! おばちゃんが作る唐揚げ丼は最高!」
「ふふ、いちるちゃんは唐揚げが好きねえ。
おいしそうに食べてくれて嬉しいわ」
食の幸せを飲み込む彼女を見て、特務育成学校の食堂に勤める中年女性も笑う。
「いよいよ、明日からね。
監察官の仕事は大変だろうけど、がんばってね」
「はい……! 精霊士さんと一緒に悪禍を倒します!」
「え……監察官は戦わないんでしょう?」
いちるは左右の頬を膨らまし、嚥下した後で微笑んだ。
「はい。討伐は精霊士さんです。
監察官の任務は依頼、立会、報告です!
でも……もしかしたら、戦う場面があるかもしれませんし!」
天日の国は明治維新後、封建制度を廃止し近代国家へと進んでいった。
藩や国で不統一であった法を六法という形に変える。
憲法、刑法、民法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法。
それらの法の中にあって、明治政府と精霊士の間で一つ決められたこと。
悪意の罪は、法の下に裁く。
悪禍の罪は、精霊士が裁く。
「――いちるちゃんは無茶なことするから……。危ないことはしないでね」
「うーん……」
首を傾げながら咀嚼し返答しない。
「もう……。だめよ、危ないことは。
いちるちゃんが監察官になってしたいこと……前に言っていたじゃない」
精霊士は悪禍を討伐し人々を救うが、悪意に傷つけられた者の心は救われない。
悪意によって傷つけられた被害者側に立ち、職務を遂行していきたい。
ある日、突然、無慈悲に奪われる被害者側の心に少しでも寄り添いたい。
と、卒業式で全校生徒に向け宣言していた。
唐揚げ丼を簡単に完食し思い出話に花を咲かせていると、
食堂の引き戸が大きな唸り声を上げた。
追従して男性の怒声が食堂内に響き渡る。
「おおかわー! お前、なにしてんだ!」
――げっ! 岩山!
特務育成学校の教官、岩山は四十代半ば頃の男性だ。
体格に合わない黒いシャツが身体に密着して、胸板を見せびらかしている。
頭と眉を綺麗に剃り上げ、睨みをきかした一重瞼の眼光が突き刺さった。
「うらあ! 不法侵入だ……!
特学の規則に則って厳正に対処してやるからな!
侵入者は許さず……帰さず、逃さず!
即座に討ち果たすこと……! 逃せば一生の恥となる!」
「ちょ、ちょっと……! そんな規則ないですよね!?」
どんどんと近付いてくる岩山の脅威から逃れるため椅子から素早く立ち上がり、
立ち姿は反射的に臨戦態勢となった。
「それに……卒業生に対して、その言い方はどうなんですか!?
明日から初出勤だからサプライズ……! 挨拶に来ただけだもん!」
「サプライズ……挨拶……? そうか、そうか。
それなら……俺が気合を入れてやる!」
「こっちに来るな! 岩山……! 岩山教官!」
と、一定の距離を保ち相手の出方を窺う。
「お前……今、呼び捨てにしたな。一回……呼び捨てにしたな?
堂々とした呼び捨てをしたな! それが恩師に対して吐く言葉か!?」
「自分で恩師って言います!? もう卒業したんですから関係はフラットですよ!
教官と生徒という立場は、もう効かないんですからね! 一個人と一個人だ!」
「なにい……」と、岩山は口をひどく歪ませた。
「いつまでも先輩風を吹かせるのって体育会系の悪しき風習ですよ……!
やってる側は、それで気持ちいいのかもしれないけど!」
「お前……体育会系をバカにするのか!」
「上下関係は大事ですよ! 組織にも序列は絶対に必要です!
でも……体育会系のノリは違うもん!
押し付けてくる先輩風なんて、みんな寒がって迷惑なんですからね!」
「体育会系を……体育会系をバカにするな……!」
「脳筋……脳筋! 脳筋……!」
生徒間で言われていた言葉を心の臓へ突き刺す。
岩山には効かないのか、いちるから三メートルほど離れた位置で止まると、
不気味に微笑み、鍛えられた太い首をぐるぐると回している。
「温いぞ、温いぞ……甘い、甘い! 卒業生として質実剛健としろ!
まさか、この短期間で腕は落ちていないだろうな!」
一瞬にして間合いを詰められ、いちるの頭上へ右拳が振り下ろされた。
高速の打撃は一般人であれば避けることはできない。無暗に防御すれば痛手をくらう。
彼女は相手の上腕部を左手で滑らせて、身体を回転させながら素早く脇をすり抜けた。
「ちっ! 相変わらず逃げるのは上手いな……!」
追撃を看破した彼女は、机上と手の反発を利用し器用に飛び跳ねていく。
あっという間に食堂の出入り口に立ち、満面の笑みで二人に手を振った。
「おばちゃん! また食べにきます! ありがとう、おいしかったよ!」
「――じゃあね、岩山教官! 手を抜いてくれて、ありがとうございます!
今度、そ、つ、ぎょ、う、せ、いとして、組手か実戦遊戯してあげます!
あと……在校生をいじめないように!」
と言い放ち、彼女は食堂を背にして走り出した。
*
いちるがいなくなった食堂は、昼食の賑わいに満たされるまで寂しさを取り戻した。
食堂の主である中年女性が、
「この学校の卒業生とはいえ小柄な女の子ですよ。
急に殴りかかるなんて……在学中の訓練じゃないんですから。
かわいい教え子でしょう?」と、先程の口撃と攻撃を非難した。
「あれくらいが……ちょうどいいんです」
真意がつかめない中年女性は、岩山の横顔を一瞥した。
力んでいた表情は柔和なものへと変わり額を撫でている。
「――大川との関係は、あれくらいで……ちょうどいいんです。
教官と生徒の関係にあってもね。あいつには軽口を叩ける相手が必要です」
「それは……そうですけど……」
と、憂いを含んだ顔で机上にあった布巾を畳んだ。
「しっかりと歩くために必要なのです。
厳しいと思われても、嫌われてもいいのです。好かれることが仕事ではないですから」
「歩いていくためですか……」
中年女性がぽつりと出した言葉に合わせ、岩山は一呼吸した。
「ええ、生きていくことは簡単ではありません。
生徒を後押し、時には激しく背中を叩いてやることも必要です」
――進めなくなれば、また顔を出すでしょう。
と、続けた。
「さすがは特務育成学校の教官ですね。聞きましたよ、学校長から」
「なにをです?」
「いちるちゃんは学校でどうだったか、先方から聞かれたそうじゃないですか。
警察総局のええと……第一特務部から」
「ええ」
「どんな困難も己の力でやり遂げる、どこに出しても恥ずかしくない人物。
そう、言ったそうですね」
「いや……まあ、言い過ぎましたかね」
蛍光灯の光が反射する頭皮を爪先で無造作に掻いている。
その様子を見て中年女性は微笑みと溜め息を混ぜた。
「――あの子みたいに活発な子がいなくなって、本当は寂しいんじゃないかしら」
「やめてください。問題児がいなくなって学校は平和なものです。
風紀が乱れることもないですから。
あいつが起こしたクーデターの数々忘れていませんよね?」
二人は同時に笑ったが、苦笑と微笑というのは交わることがない。
「懐かしいですね。でも、集団の中で場を明るくする人は必要でしょう?
あの子がいたから、特学自体が明るくなったと思いますよ」
「そこは否定しません。厳しい訓練中……辛い時こそ先頭に立ち、笑顔で同期を励ます。
涙を流し……嘔吐しようが、手を貸して、最後まで這いつくばって進んでいた。
訓練中、他人のために食ってかかってきたのは……後にも先にも大川だけです」
岩山は過去を振り返ったのか、鼻先を掻いた姿はどこか嬉しそうだ。
「ね、ほら。そういう優しい子なんですよ」
中年女性の笑顔はさらに深くなる。
深くなったが……岩山からの急な問いかけにより表情は一変した。
「――今日は話せましたか。卒業式の時には言えなかったとおっしゃっていたので」
「…………。いいえ、言えませんでした」
「そうですか……。このようなことを自分が言うべきではないとわかっています。
しかし、話してみたら、お互いにと――」
「怖いんです」と、岩山の言葉に被せた。
その言葉に岩山は疑問符をつけて送り返し、中年女性は手に持つ布巾を握りしめた。
「話したら……いちるちゃんとの関係が変わるようで怖いんです」
岩山は自身の頭皮をぱちっと叩いた。
「すみません、立ち入ったことを……。ただ、自分は大丈夫だと思っています。
あいつは……花壇で育った花ではないですから」
「花壇?」
「花壇の花は、整然とした場所で育てます。
定期的な潤い、恵まれた栄養。そこで花を咲かせる者がいます。
しかし、植え替え……居場所が変わると急に不安定になることがあります。
移った先には、上辺だけの賛美、不意打ちの嫉妬、気付かぬ皮肉、拭えぬ嘲笑。
それは……知らぬが仏ですが、気付かないことも哀れなものです。
それらを知れば、花は抜けてしまうこともありますし、飛ばされることもあります。
――あいつは違います。しっかりと自分で根を張った……大丈夫です」
「そうです……ね」
「雑草はなかなか抜けませんし、踏まれても強く伸びていきます」
「雑草ね……かわいい女の子なんですから、もう少し言い方を考えてほしいですね」
「いいえ、あいつは雑草です。
教官である自分に、陰口を散々言っていましたから、雑草でいいんです。
まあ……よく聞こえていたので、陰口とは言えないかもしれませんけどね」
銀杏野郎、亀頭人、ビーエル滑子、シャケーマン、ニップル総帥、脳筋筋子。
岩山は自身のあだ名を並べた後で、強く眉間に皺を寄せた。
ふふ、と女性は笑い、米粒一つない『いちる専用丼』を手に持ち厨房へ戻った。