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その正体  作者: 烏屋鳥丸
15/44

14 ジャック・スターローン

夜眠るのが苦手だ。

決まって怖い夢を見るのだ。

夢というよりは記憶なのだろうか。

目が覚めると内容は思い出せないのだが、ひどく恐ろしい夢を見たということだけは覚えている。

起きた時、心臓がギュウギュウと締め付けられるような苦しさと嫌な汗でびっしょり濡れた身体に悩まされる。

この症状に苦しめられて早十年。

おかげで眠るのが怖くなり、極力睡眠を避けた生活を送っている。


それでも人間の身体というのは面倒なもので、眠らずにはいられない。

一晩や二晩くらいなら眠らなくてもいられるが、それ以上になるとそうもいかない。

眠りたくなくても、強制的に身体が睡眠を求める。

そういう時は別に飲みたくもない酒を流し込んで無理矢理に意識を落とす。

酩酊した頭で泥のように眠れば、少しは悪夢も見なくて済む。

瞼が重くなって、ウトウトと船を漕ぐ。

落ちそうになる意識の中で彼女の微笑みを思い出す。

あぁ、彼女に会いたいな。

思えば彼女はもう10日も顔を見せていない。

他に新しい男ができたのだろうか。

別に、彼女が誰と寝ようがそれはいい。

それは自分も納得している。

けれど、他の男にかまけて自分を蔑ろにするなら話は別だ。

それはダメだ。許せない。

自分はこんなにも彼女に狂っているのに。

彼女は自分の飼い主ではなかったのか。

もう、飽きてしまったのか。

自分のことなんて、もういらないのか。

そう考えると、腹の奥にどす黒く重たい何かが溜まるような感覚がした。

胸が苦しい。上手く呼吸ができない。

必死に肺が酸素を求めようと足掻くが、空回った呼吸は肺を満たすことがない。

過呼吸。たまに訪れる症状だ。

医者であるエレナはパニック発作だとかなんとか言っていた。

頭がぼーっとする。思考が上手くできない。

死んでしまいそうなくらい苦しい。

むしろ、もういっそのこと死んでしまいたい。

彼女に愛されないのなら、この命なんていらない。

死んで楽になりたい。もう解放してくれ。

自暴自棄。茫然自失。希死念慮。

酸素を求めてあえぐ首を両手で力いっぱい締める。

もっと苦しくなった。脳に酸素が届かずクラクラする。

あと少し、あと少し。

無意識に、手の力が抜けた。

こんなのじゃ死ねない。

ジャックはベッドの脇に置いてある短剣を手にする。

その切っ先を左の手首に這わせる。

鋭い痛みと共に、ジワリと鮮血が漏れ出てきた。

こんなのじゃ死ねない。

ジャックは再び短剣を振り下ろす。

赤い血が腕を滴った。

過呼吸で上手く働かない頭で何度も何度も手首を切りつける。

滴る血はシーツを汚し赤い染みを作った。


「はぁ…っ、アンジェラ…はぁ…アンジェラ…。」


うわ言のように繰り返す。

思い浮かぶのは、彼女のことだけだった。

彼女さえいなければ、こんなに苦しむこともないのに。

彼女がいなければ、自分は生きていけない。

己にかけた首輪で首が締まりそうだ。

彼女がいないと自分を保てない。

彼女に会いたい。愛されたい。この身を満たしてほしい。

一番じゃなくてもいいから、ちゃんと愛してほしかった。

ほんの少しでもいい。彼女の愛情がほしかった。


「今回は一段と酷いわね。」


暗闇に響いた声に、僅かに顔を上げる。

寝室の入り口に彼女が立っていた。


「え………。」


これは馬鹿になってしまった脳が見せた幻覚か。

なんでもいい。縋り付いてしまいたかった。

アンジェラ、と呼ぶ声は上手く声にならずにヒュッ、ヒュッと下手くそな呼吸音に変わる。

手を伸ばそうとしても、酸素が不足した身体は上手くバランスが保てず崩れ落ちる。

あぁ、幻覚に手を伸ばすこともできない。酷い悪夢だ。

幻覚はゆっくりとジャックに近付き、その身を抱きしめる。

彼女の体温に触れ、驚いた。これは幻覚なんかじゃない。

その温もりに、涙が溢れた。


「また寂しくて悪さしちゃったのね。いけない子。」


上手く力の入らない手で、必死に彼女に縋り付く。


「あ…はぁ…っ、はっ…、あ…ん、はっ…。」


言いたいことはたくさんあるのに、酸素を求めるので精一杯のこの口は言葉を紡げない。

言葉の代わりに涙が頬を伝う。


「落ち着いて、息を吐いて。ゆっくり。…そう、上手ね。」


彼女の優しい声が心地よい。

背中をさする彼女の手が気持ちいい。

彼女の胸に顔を埋めて心臓の音に合わせて呼吸を紡ぐ。

肺いっぱい彼女の匂いを取り込む。

温かくて、胸がいっぱいになって、目眩がする。

ああ、これがほしかったんだ。


「ダメじゃない。私のものに勝手に傷をつけたら。」


彼女はその手が汚れることを気にすることなく、まだ血の滲むジャックの左手首を指でなぞる。


「こんなことしちゃうくらい私のことが好きなのね。本当にジャックは可哀想で…可愛い子。」


誰のせいで、という言葉の代わりに彼女を睨みつける。

彼女は動じることなくジャックに口付けた。

繋がった口から、彼女の息が吹き込まれる。

手首から滴る血が彼女の服を汚した。

彼女の純白を自分の真っ赤な血が彩る。


「ほら、よそ見しないで。ちゃんと私だけを感じて。」


彼女は再び口を合わせる。

ジャックは言われるまま、アンジェラに身を委ねた。

何度か口を合わせ、徐々に呼吸が楽になっていく。

しばらくして過呼吸が治まれば、緊張していた身体が弛緩した。

酷い脱力感に身体を起こしていられない。

ジャックは彼女を押し倒すようにその上に重なってベッドへと倒れ込む。


「落ち着いた?」


彼女の言葉に、ジャックはコクリと頷く。

彼女の綺麗な服はジャックの血と、涙と、汗で無残なものへと変わっていた。

自分が天使を汚した。なんだかひどく悪いことをしている背徳感。

いっそのことボロボロに汚れて自分のところまで堕ちてくればいいのに。


「酷いクマ作っちゃって。何日寝てないの?」


「…俺が一人で寝れねぇの、知ってるでしょ。」


「馬鹿な子ね。適当に女の子でも引っ掛けたらよかったのに。昔はよくしてたでしょ。」


彼女の言う通り、彼女への当てつけの意味も込めて、名前も知らない女性と一夜を共にしたことは何度かある。

けれど、相手がどんな女性であっても満たされなかった。

知らない女性と寝るたび、彼女が恋しくなった。

彼女じゃない体温も感触も匂いも、ただ虚しいだけだと気付いた。

それからは女遊びはやめた。


「アンタじゃねぇと、ダメなんですよ。」


「ジャックは本当に手のかかる子ね。ほら、寝ちゃいなさい。」


まるで子供を寝かしつけるかのように、アンジェラはジャックの背をトントンと叩く。

優しいリズムに、瞼が一層重くなる。


「嫌だ…。やっと会えたのに、寝たくねぇです。側にいて。離さないで、アンジェラ。置いてかないで。一人に…しないでください…。」


「今日はやけに素直ね。」


「どうせ俺が起きたらアンタ、いないんでしょう…?そんなの嫌だ。ここにいて。俺の、隣に…。お願い…。」


駄々をこねる子供のように、ジャックは力いっぱいアンジェラを抱きしめる。

みっともないのも情けないのもわかってる。

けれど今は、取り繕うこともできないくらい彼女がほしかった。

アンジェラは仕方ないとでも言いたげに溜息をつく。

そしてその優しい指でジャックの髪を撫でた。


「わかったわよ。私の1日をあげるわ。ちゃんと側にいてあげるから、今はもう寝ちゃいなさい。」


「…本当に?」


「この前言ってたご褒美よ。それでいいでしょ?」


「起きた時、隣にいてくれますか…?」


「いるわ。だから安心して眠りなさい。」


「本当に…本当に?」


「本当よ。」


「嘘ついたら…俺、なにするかわかりませんよ…。」


「ちゃんと側にいてあげるから、しっかり寝てその酷い顔早くどうにかしちゃいなさい。」


彼女の言いつけ通りに目を閉じる。

彼女の体温。匂い。心臓の音。呼吸のリズム。

全てが心地よい。まるで揺りかごにでもいるみたいだ。


「…なんか話してください。なんでもいいから。アンタの声、聞いてたい。」


「大人しく寝なさいって何回云わせるつもり?」


「俺が眠るまででいいから…。声、聞かせてくださいよ。」


仕方ないわね、と彼女は語り出す。

アミュレスで彼女と出会った時の思い出。

恋が芽生えたあの夜のこと。

彼女と愛を育んできた記憶。


「ジャックは昔からそうよねぇ。」  


「そんなこと、ねーです。」 


「そんなことあるわよ。あの時だって…」  


「…そうでしたっけ?」


とりとめのない会話。

その中で、時折彼女との記憶に齟齬が生じる。

それは彼女の能力によって惑わされているからなのか、魔術の使いすぎて精神に異常をきたしているのか、はたまた過剰なアルコールの摂取によるものなのかは知らない。

けれど確かに、自分の記憶の中には少しの空白がある。

別に思い出せなくて困ることはないのだから、大したことはないのだろう。

ジャックはそう自分に言い聞かせて、気にしないようにしていた。


彼女の紡ぐ一つ一つの言葉が、音が、まるで子守唄のように自分に癒しを与える。

髪を梳く指が心地よくて、このまま溶けてしまいそうだ。

ああ、幸せだ。このままずっと彼女の腕の中にいたい。

温かい微睡みの中で意識が落ちていく。


「おやすみ、ジャック。愛してるわよ。」


愛してる。そのたった五文字の言葉で救われた。

ジャックは久しぶりに、穏やかな睡眠を貪った。  


目が覚めると、隣に彼女はいなかった。


「…嘘つき。」


彼女の匂いが残るシーツを握り、ジャックは悪態をつく。

その左手首には、包帯が巻かれていた。

彼女が手当てしてくれたのだろう。

少し不格好に巻かれた包帯が、不器用な彼女らしい。

ふいに、キッチンの方から小さな物音が聞こえた。

ジャックはキッチンへと向かう。

そこには自分の服を着た彼女が立っていた。


「やっと起きたわね。もうお昼よ。」


「…帰ったんじゃ…。」


「私の1日あげるって言ったでしょ?」


いい匂いがする。

鍋の中を覗くと、野菜のスープが煮込まれていた。


「ありあわせで作ったから大したものじゃないけど。どうせ普段からろくなもの食べてないんでしょ?」


そう言った彼女の後ろ姿を抱きしめて、ジャックは息を吐く。


「何よ。もっといいもの作れって?」


「…違います。なんかこう…幸せだなと思って…。」


「なにそれ。」


おかしそうに彼女はクスクスと笑う。

いつも彼女は自分が眠っているうちに帰ってしまう。

彼女と寝た夜は数え切れないけれど、彼女と迎える朝は貴重だった。

朝起きて、隣にはいなかったけれど、こうして自分のためだけに手料理を用意していてくれる。

汚れたワンピースの代わりに自分の服を着たアンジェラの姿は、まるで自分のものになったようでなんだか胸が躍った。

こんな幸せ、あってもいいのだろうか。

なんだが堪らなくなって彼女に口付ける。

その細い腰を引き寄せて、何度も唇を合わせた。

彼女も自分の背に腕を回し、それを受け入れてくれた。

愛おしくて、もっと欲しくなった。

彼女の首筋に顔を埋め、唇を這わせる。

彼女はくすぐったそうに笑って身を捩った。


「こーら。そこまでよ。もうご飯出来るから、顔洗ってきなさい。」


名残惜しいとは思ったが、ジャックは素直にそれに従う。

洗面所へ向かい、顔を洗った。

久しぶりによく眠れたおかげか、クマも取れてなんだか身体が軽い。

自分の中で燻っていた仄暗い感情が解けて頭もスッキリしている。

彼女に会えるだけで、自分はこんなにも満たされるのだ。

彼女がいるから自分でいられる。

ジャックにとって彼女は、なくてはならないものだった。


それから二人で昼食を食べた。

野菜のスープと焼いただけのパン。

質素な食事だが彼女と摂る昼食は、今まで食べた何よりも美味しかった。

食事を終えてしばらくソファでダラダラと過ごした。

会話はほとんどなく、ただ彼女を抱きしめ、その体温を感じていた。

このままどこにも行けないように閉じ込めてしまいたい。

そんなこと、彼女が望まないのはわかっているけれど。


どれくらいこうしていたのかはわからない。

いつの間にか太陽は傾き、窓から夕日が差し込んでいた。


「ベッド、行かなくていいの?」


「んー…。今日はいいです。こうやって触れ合ってるだけでも、結構幸せ。」


「ジャックは本当に私のことが好きね。」


「当たり前でしょう。何年アンタに弄ばれてると思ってんですか。」


「それもそうね。」


おかしそうに彼女はクスクスと笑う。

その無邪気な笑みが、大好きだった。

彼女が笑えばジャックも嬉しくなった。

ずっと、彼女の微笑みだけを見ていたい。

できることなら、その笑みを独り占めしてしまいたかった。


「ねぇ、ジャック。」


ふいに彼女が口を開く。


「貴方はアダム君を殺せる?」  


思ってもいなかった言葉に、一瞬何を言われたのかわからなかった。

アダムを、殺す。

彼女は確かにそう言ったのだ。


「…どういうことですか…。」


やっとのことで絞り出した言葉に、彼女は目を伏せて笑った。


「ふふっ、冗談よ、冗談。聞いてみただけ。」


「…アダムを、殺すんですか…?」


「できればそうしたくないから、今色々考えている途中よ。」


「…どうして…。」


「彼、私のことが気になって仕方がないみたい。でも、私の正体を知られるわけにはいかないじゃない?だからどうしよっかな、って思って。」


「ほおっておくわけにはいかないんですか?」


「アダム君が何も知らないままならそれでもいいけど…。何か掴んでからじゃ遅いからね。先に手を打たないと。」


ジャックにとってアダムは、弟分であり良き友人だった。

彼が小さいときから知っていて、若い頃はギルドに入りたいという子供の彼によく稽古をつけた。

彼が成長しギルドに所属してからも交流は続き、ノエルを交えてたまに飲みに行ったりする仲だった。

彼が王になった今は昔より飲みに行く頻度は減ったが、それなりに親しい関係だと思っている。

そのアダムを殺すなんて。


彼女は冗談だと言ったが、きっとそれは嘘だ。

自分を試したんだ。彼を殺せるかどうか。

そして、自分には殺せないと判断したから冗談だと言って濁した。

自分が殺せなければ、彼女は他の男に殺させるだけだ。

どうしてよりにもよってアダムなんだ。

ジャックの知らない奴ならなんとも思わないのに。

それなりに情のあるアダムがターゲットだなんて。

どうしたらいいか、わからなかった。

自分の彼女への忠誠は本物だ。

けれど、アダムも大切な友人だ。

その彼女の願いを叶えることは、自分にはできなかった。


「まぁ、今すぐどうこうするってわけじゃないから、気にしないで。ジャックの大事な友達だものね。」


「アンジェラ…俺は…。」


「友達は大事よ。何も気に病む必要はないわ。ね?」


そう言って彼女は一つキスをくれた。

嫌になる。いつもそうだ。彼女はキスで誤魔化す。

そのキス一つで簡単に誤魔化されてしまいそうになる自分も嫌になる。

不確かだけど確実に、何かが歪み始めていた。







@kakakakarashuya


https://x.com/kakakakarashuya


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