鎌倉時代村を作ろう!
大きな武士の家には、家政機関が存在している。
鎌倉幕府というのも、源頼朝という武士の家政機関が拡大したものと言える。
無論身分によって及ぶ権限に差は出て来る。
源頼朝の場合、三位以上の公卿となる事で全国政治を行えるようになり、それまでの家政機関・公文所が政所と改まった訳だ。
侍所という「仕える武士の詰め所」だって、鎌倉幕府が特別なのではなく、皇族や摂関家の邸内には存在していた。
それが頼朝によって格上げされた結果、よく知る「軍事機関、警察機関」である「侍所」になったのだが、各地に所領を持ち、多くの郎党や傘下の武士を持つ家には、独自の「公文所」「侍所」を持っていた。
プチ鎌倉幕府のようなものである。
鎌倉幕府が源家の家政機関の発展形であるのと同様、室町幕府は足利家の家政機関の発展形、江戸幕府は松平家の家政機関の発展形と言えた。
老中とか若年寄というのは、松平家の家臣の役割をそう呼んだものの名残である。
そして、成り上がりで家政機関を持っていなかった木下藤吉郎の成れの果ての豊臣秀吉は、譜代の家臣も独自の政治機構も無かった為に苦労したという。
こんな感じで、大元を辿れば藤原摂関家のような家政機関があちこちに存在していた。
それは俺の隣の鎌倉武士の所にもあった。
「此度、めでたく当家は新たな所領を得た」
当主はこう挨拶し、所領配分を行う。
いわゆる論功行賞というものだ。
「我が子孫の嫁ぎ先より没収した農地、山林は何と言う荘園かは分からぬが、六郎が守護職を勤めるものとする」
守護職は鎌倉幕府が任命権を持つものだが、こっちの時代は鎌倉幕府の管理下には無い。
だから所有者(荘園主)ユキさん、管理者(荘園の庄司)亀男の他に、軍事・警察権を持つ者として六郎が任命された。
その他、多くの者が地頭とか地頭代とかに任命されている。
何故か俺も……。
「亮太殿は御当主様の為によく働いた。
これは我等の感謝の気持ちゆえ、有難く受け取るが良い」
いや、親切だってのは十分分かるんだけどね、農地の管理権貰ったって俺には有難迷惑なのよ!
なお、先の外国人との抗争で鎌倉武士側にも犠牲者は出ている。
この現代日本で討死なんてとんでもない事が起きているが、鎌倉時代人にしたら
「よくやった!」
なのだ。
まずは土地が何ヶ所も手に入った事が前提である。
封建社会において、御恩と奉公が主従の間ではなにより重要。
基本的に拡大し続ける社会において、自分の為に働いた者には、自分の手が回らない部分の管理を押し付ける意味でも恩賞として土地を与える。
それが従者に自分を見限らせない為のものであり、不満を持たせないという意味では一族の庶子たちに対しても同様であった。
そして恩賞を受け取る側だが、出来れば理由無しでも所領が欲しいのだが、そうもいかない。
何か恩賞を貰う理由が欲しい。
それには合戦が一番だ。
そして恩賞を受け取る人数は少ない方が良い。
だから「一族の為に戦死してくれ、それが恩賞に繋がる」のが最高なのだ。
後々相続の際も困らないし、一族の繁栄の為の肥料となった者こそ最高の息子、弟である。
北条泰時があれ程までに徳治政治に拘り、裁判が厳格で、勝手な争乱を禁じた執権であっても、彼が名執権と崇められるのは、承久の乱の際の司令官だった事も大きい。
基本的に所領を大きく増やした事の立役者なのだ。
大量に恩賞を貰えたのだから「貰った土地はしっかり管理しろ」と言われたら、それを聞いてやっても良い。
というか、御成敗式目は当時の慣習法を成文化し、承久の乱の恩賞関連で発生した諸問題を最大公約数的に無事に解決出来るようにしたものだから、各地の武士団にしても受け入れて損は無かった。
なんなら御成敗式目をベースに、自分たち用の式目すら作っていた。
恐怖もあった源頼朝にしても、その後の執権たちも、合戦・騒動の後にしっかり恩賞をくれるから支持する。
合戦が無い時期に、ただ規制や粛清だけをしたら、反発するだけ。
そういう時代だ。
そんなこんなで、久々に合戦をして恩賞に在り着いた鎌倉武士の一党は喜んで次の行動に移る。
具体的には農村・山林への土着である。
手が足りない場合は、他から代官を雇ったりもするが、彼等は「現代日本」の存在を他に知らせたくない。
彼等だけが手に入れた「征服可能な異世界」であり、誰がその利権を他に分け与えたいものか。
だから、自らは屋敷に居て、現地には雇い代官を派遣するような事はせず、庶子たちを送り込んで自前で管理する事にしたのだ。
そして当主の家も、その弟たちの家も、郎党たちも皆子沢山な為、先の戦闘に何人か死んだけどそれでも人手は結構あった。
……現代日本の農村、山村はこの逆である。
若い働き手が居なく、残された老人たちも寿命を迎えたりして、廃屋が増えていっている。
土地は手入れされる事無く、遊んでいるならまだマシで、場合によっては荒れて他に迷惑をかけている。
害虫や害獣の棲み処となるのは良い方で、道路にせり出した木が倒れて道を塞いだり、土砂崩れを起こしたりする。
それでは、と地権者と交渉して太陽光とか風力とかの発電設備を置いたり、廃棄物処理場を作ったり、土地が遊ばないように色々とする。
こうした業者の中には「どうせ他人の土地だし、短期間でがっぽり稼いで去ろう、後の事は知らない」という意識のものがあったりして、それはそれで問題となる。
一番は地権者が自分の土地に関心を持ち、しっかりと管理し、悪事には目を光らせる事だが、もう都会住みの彼等には「僻地とか山奥の土地なんて面倒臭いだけ、業者に任せる」くらいの意識しか無かった。
国としても農村、山村の再生をしたいと思っている。
……放置していれば、怪しい外国人がいつの間にか買って、好き放題される可能性もある。
俺からそうした事情を聞いた鎌倉武士たちは、何の事かよく飲み込めないようだったが
「ともあれ、人が居ない、所有者が興味を持っていないのなら、好きに押領出来るな!」
という解釈に行き着いていた。
それはそれで問題を起こすだけだから、
「要するに地頭とか、庄司(荘園の現場管理人)に任じられれば良いですよね!」
「所有者は別で、そこに地代を払ってでも、より多くの収入さえあれば良いですよね!」
(こっちももう答えは聞いていない)
と念を押し、顧問弁護士は各種手続きに入った。
この家の公文所執事である下級公家の吉田民部にしても
「揉め事は起こさぬに越したことはない」
という意見だ。
まあ彼の場合「争って奪う以外にも方法はあるでしょ!」という考えなのだが。
こうして隣の鎌倉武士の関係者が、手に入れた農村や山林を足掛かりに行動を開始した。
そう、現代日本に「鎌倉時代特区」でも作るかのように。
おまけ:
公家が所領を増やす方法。
・官位を餌に、官位を求める人から必要経費として所領を得ましょう!
・家格上昇を餌に、武家から嫁(側室)を貰い、持参金として土地を貰いましょう!
・情を上手く利用しましょう。
例えば後鳥羽上皇が隠岐に流される時に、それに同情して見送りをした坊門家が水無瀬荘の管理権を得た例があります。
上手く留守荘園の管理権を預かりましょう。
なお、返すとは一言も言っていません。
・揉め事を仲裁して、双方から礼として村なんかを譲り受けましょう。
なお、その揉め事を自分が引き起こし、自分が収めたマッチポンプを悟られてはなりません。
・院とか幕府とかに接近し、親戚とかになっておきましょう。
そうすればコネを作りたい連中から賄賂を受けられるでしょう。
ちなみに藤原摂関家は付け入る隙が無いので、院とか武家が狙い目です。
・上に絡んでですが、必要なら有力者の愛人になりましょう。
男×男、女×女も全然アリです。
兎に角、有力者から贈り物として領地を得られたらそれで良いのです。
・相手が弱いと思ったら、思い切って支配地の割譲を申し出ましょう。
ごり押しして伊予の地を得た西園寺家みたいな例もあります。
・合戦が起きたら、役に立たなくても積極的に味方になりましょう。
誰かが死んでくれたら最高です。
堂々と恩賞を請求出来ます。
権力に近い所にいて、平安時代を通じてこうした生き方をして来たので、武士とは違った意味で油断も隙も無いのが公家です。




