八郎の苦手なもの
隣の鎌倉武士の当主の弟・譲念和尚と、八男坊は俺の家をほぼ自宅代わりに使っている。
俺の両親がこいつらを、ほぼ家族扱いしているから良くないんだと思う。
そんな八郎だが、今日はちょっと様子が違った。
何か寂しそうである。
「屋敷を追い出されてしもうてな……」
一番下の妹である末姫を寝かしつけようと、守子唄を歌った所、周囲から激怒されて追い出されたという。
「『弥悟、外流下の守子唄』という、聞けば必ず眠くなる歌なのじゃが……」
名前からしてろくでもない歌に思えてならない。
「後白河法皇が作った今様なのじゃが。
歌い継ぐ者も無いようじゃが、何となく気に入ってな」
一体どんな歌なんだ?
弥勒とか阿弥陀とか仏教の事を悟った者が、その才に溺れて道を外れ、転落していく様を歌ったものとか言っていたが……。
「なあ、酷かろう?」
歌を聞き終わった後、いつの間にか来ていた譲念和尚が俺を起こしてくれた。
俺は気を失っていたらしい。
子守歌で眠ったのではない。
余りにも酷い音痴で、意識が西方浄土を彷徨っていたような感じだ。
「八郎はわしから見ても、頭が良い中々の子じゃ。
だが、あの歌の下手さだけは如何ともし難い。
あれでは読経の際に、そのまま往生する者が出かねぬ……」
どこぞの八百屋の息子でリサイタルをよく開くガキ大将並に酷いと思う。
八郎の兄で、既に出家済みの慈悟僧侶は、音量は兎も角読経は美声で、しかもリズムが良い。
目を瞑って読経を聞けば、音声でもって浄土を眼前に演出出来る。
……なのに、デスメタルが好きで、そっちに寄って行ってるのはどうしてだ?
一方の八郎は、読経させたら眼前に穢土を作り出してしまうだろう。
「このままでは出家もさせられぬ。
どうにか出来ぬかのお?」
「叔父上、わしのどこが歌が下手というのか?」
(気づいていないのか?)
こいつは、自分が音痴だと気づいていない最もドス黒い音痴と言える。
親切で歌ったりしそうだ。
ちなみに鎌倉時代の歌は、基本は和歌である。
短歌だと三十一文字の音となる。
この音をリズムに乗せて詠むものだが、たったこれだけのものですら音痴なのだから、どうしたものだろう?
一種の才能ではないだろうか?
三十一文字ですら聞くに耐えないのに、何故か今様を好み、長く歌おうとするから困ったものだ。
「ちなみに、和歌は詠めるんですか?」
俺の疑問に、譲念和尚はかぶりを振る。
「そちらも酷いものじゃ。
稚児ゆえ……とも言い難い。
なにせ、大人顔負けの学識持ちで、曲がりなりにも公家の民部殿より教えを受けておるのに、無粋なわしから見ても悪しき出来じゃ」
そう言って、かつて詠まれたものを見せて貰う。
……よく分からない。
何となく上手く出来ているように思うのだが
「韻を踏んでおらぬ。
調べに乗せて詠めば、言葉が上手く繋がらぬ。
余りにも言い切り調でぶっきらぼうじゃ」
との事だった。
現代語風なら
「枯葉が舞っているのが、ここからでも見えます。
私の命もいつか、あのようになるのでしょうか?」
というように、情景と感情を込めて叙情的に歌うのが良いのに、八郎の場合
「枯葉が落ちた。
秋になった。
冬が来るのも時間の問題だ」
といった感じになるのだ。
(それの何が悪いんだ?)
そうは思うが、国語で勉強した正岡子規の「実感を持つように、情景が目に浮かぶように」という価値観が多少なりとも影響している現代日本人と、形式と夢想的なものを重んじる明治時代以前では、上手下手の基準が違うのだろう。
なお、枯葉に命の儚さを感じた和歌は、
争乱に参加し、敵の首を掲げて帰る途中の武士が詠んだものだそうだ。
命の儚さは、敵の首を手にして思いついた事で。
決して、自分の命が消え入りそう事を嘆く病人の歌等ではない。
「とりあえず、リズム感が無いって事なんだな」
「りずむ?」
「抑揚とか拍子とか音声の繋がりとかの意識」
「ふむ、よく分からぬがそういう事じゃろう。
して、どうにか出来るものか?」
とりあえず、当時の日本は和歌社会。
坂東にずっと居るなら兎も角、僧侶となるべく比叡山に行ったりすれば、必然的に京の文化と触れ合ってしまう。
その時に、和歌が下手なのはまだ良い。
脳天破壊音声のような破滅的音痴だと、寺の中で血を見る抗争に繋がりかねない。
坂東だけではなく、畿内も鎮西も基本的に全員血の気が多いのだから。
だから、出家前にどうにかしてやりたいようだ。
「自分ではどうにも……。
むしろ慈悟さんの仲間たちならどうにか出来る……かな?……凄く不安だけど……。
そっちの方で聞いてみますかね」
結論から言おう。
ダメだった。
まあ、連中にどうにか出来るとも思えなかったが。
……楽器破壊しながらシャウトしてる連中だし。
一番問題なのが
「わしは間違っていない。
ちゃんと歌えておる!」
と八郎本人が信じて疑っていないからだ。
録音して本人に歌を聞かせてみても
「知っておるぞ。
これは音声加工をしたのじゃろう!」
と、現代知識で屁理屈捏ねて決して信じない。
この辺、やはり「見た目は子供」でも「中身は鎌倉武士」なのだろう。
自分の欠点は絶対に認めようとしない。
これは発声練習をさせたら、かえって被害を大きくする。
活舌とかの問題でもない。
音程と音感とリズム感という、本人の素質的なものである。
人によっては、教えられずとも天性で持ち合わせているもの。
それでも、音痴は治る!
そう教えてくれたのが、体験入学というか期間限定入学みたいになった小学校であった。
皆と一緒に歌う事で、八郎は自分のリズムがどこかズレている事に気づいたようだ。
また、音を合わせないと不協和音というものが発生するという事も。
ここの教師が、DQNだらけのこの町内では珍しい、教育熱心でかつ高圧的に自分のやり方を押し付けない人だった。
音痴で周りから馬鹿にされ、キレかけていた八郎と、周囲と両方を宥め、じっくり教える。
とりあえず鎌倉時代の教育は
・一族だけか、精々郎党だけのごく少数と教師との指導で、ズレていても客観視出来ない
・楽譜も無いし楽器は笛か太鼓、琵琶とかで、歌の音程を取るのには向いていない
・お経のリズムや抑揚が下手なら、具体的に指摘するではなく肉体言語で矯正
である為、良くならない者はずっと良くならない。
「まあ鎌倉時代に圧倒されっぱなしだったけど、何だかんだで現代は過去の様々な事を改善しながら辿り着いたものだから、良い部分は結構あるんだよね」
俺のその感想に、譲念和尚も
「うむ。
見習う事は多いようじゃ。
わしも周囲の稚児どもを集めて、物を教えてみようかのお」
なんて言っていた。
……いや、それは蛮族を、知恵をつけた蛮族にして大量放流する事になるのでは??
おまけ:
音痴は治ります。
某アイドル、入った時は「音程がある事自体知らなかった」から吐息担当とかだったのに、劇的に良くなりましたし。
まあ別の某アイドル(男性)のように、音痴をネタにしたりってのもありますが。
おまけのおまけ:
某ステカ◯キングの「地獄のシンフォニー」で、中◯正弘・山◯花子・オ◯リーの六甲颪を流したら、凄まじい破壊力になるのでは? と思ったり。




