もしも過去の人物が現代で病気に罹ったなら
「お頼み申す、お頼み申す!」
またしても俺担当の雑色・平吉が玄関先で大声を出す。
どう教えてもチャイムを押す事を覚える気は無い模様。
「どうしました?」
何だかんだで出てしまう俺は、我ながらお人好しだと思うな。
「こちらは祈祷に御座候や?
それとも薬師に御座候や?」
「は?
祈祷?
あと薬師って事は、医者?
何かあったんですか?」
話を聞くと、先日の祭りと警察署への強訴の後、嫡男の三郎殿が発熱したのだと言う。
元々三郎殿は病弱であり、余り表に顔を出さない。
俺も祭りの日まで会った事は無かった。
名乗らなかっただけで、庶子の太郎殿、次郎殿とは顔を合わせていた事は分かった。
だから本当に三郎殿は大事にされていたのだと思う。
その嫡男殿が、発熱だけならともかく、激しく咳込んでいるという。
(これ、拙いんじゃないか?
あの連中、マスクなんて概念は無いし、そのまま人混みの中に突入していたよな)
久々の祭りで、神社内は混み合っていた。
伝染病の保菌者がいたなら、感染するだろう。
更に警察署への強訴で寒い夜中にずっと待っていた訳だし。
通常の感染なら、拙い事は拙くても危険度は大した事はない。
問題はこいつらは、鎌倉時代を生きている人間だという事だ。
現代日本は海外と交流している為、あの時代には無かった病気が多数存在している。
そんな病気が鎌倉時代の人間に感染し、そのまま防疫という意識が無い連中が鎌倉の町を出歩いたなら?
七百年か八百年か分からないが、それ程早い時期に当時は未知の病原体による感染爆発を起こしてしまう。
鎌倉や京まで伝染するかもしれない。
すると、死ぬ筈が無い歴史上の人物が死んでしまう可能性もある。
つまり、歴史が変わってしまうだろう。
俺はそうした事を想像して震えたが、一方で少し気になった事もあり、平吉に尋ねてみた。
「こちらの時代に医者を探しに来たけど、本来は鎌倉の医者を呼べば良いんじゃないか?」
(そうすれば、下手したら病気を広めてしまうから、呼んでなくて正解かもしれないが)
それに対する回答が
「主様は、四郎殿を流行り病で失った時に、祈祷師も薬師も役に立たなかった為、信じておられぬ。
鎌倉の祈祷師は須らく食わせ者、鎌倉の薬師は悉くヤブ薬師じゃと」
聞くに、散々富を使わせて訳の分からぬ真言を唱え、護摩を焚いたがまるで効果無し。
ではと、薬師に薬湯を作らせるも、やはり高いだけで効果無し。
そして全く好転する事なく、四郎は幼くしてどこかの浄土に往生してしまった。
それ以降、当主を始めとし、坂東の祈祷師や薬師は信用しなくなったそうで。
だから嫡男が発病し、結構重篤になっても鎌倉の者は呼ばぬ。
本来なら京か、唐土より医者を呼びたい所だが、急な事だからこちらの世界に聞いてみたというのだ。
(そりゃ、当時の京都とか、宋か元か知らないけど中国よりも今の方が医学は発達しているから、偶然とはいえ良い判断だよ)
そう思った俺は、急いで保健所に電話をかける。
昨今の流行病の場合、まずはそこに連絡し、受け入れ先の病院を手配して貰うのだ。
救急車が武家屋敷の前に停まり、武装した武士が出迎えるというシュールな光景。
鎌倉時代基準で異様な姿の救急隊員に
「何者か!
怪しい奴、この門を通る事罷りならぬ!」
と薙刀を持って脅す門番たち。
ああ、もう、俺が事情説明しないと何も始まらない。
「流行り病の可能性があります。
この人たちは、病院に搬送してくれる人です。
こちらの病院は、鎌倉時代の医者なんかよりずっと優れていますから!」
そう説明するも、
「そのような様子で一体何をするのか?」
と警戒している。
「もしも流行り病だと分かれば、ここも封鎖です」
と言った瞬間、周囲が殺気立ったが、流石に当主は冷静で
「当家より病を広めたとあっては恥ぞ!
もし流行り病であれば、自ら門を閉じん」
と言ってくれた。
どうにか説得に成功し、救急隊員が屋敷の中に入る。
パルスオキシメーターで計ると、血中酸素濃度が低くなっていたから、いよいよ緊張していた。
救急車で運ばれる、誰か付き添うかと聞かれると
「太郎、其方が行って、あちらの世の薬師の有り様を確と見て参れ」
と命じていた。
そして救急搬送される鎌倉武士。
「ちょっとこっちへ」
帰宅しようとした俺は、六郎に袖を引かれる。
「兄上の事だが、死に至る病なのか?」
そう聞いて来た。
「死んだ人も出ているし、分からない」
と答えると
「左様か。
兄上が死んだら、嫡男はわしに移るな」
と言っていた。
俺は思わず
「自分の兄の死を望むのか?」
と批難混じりに言ってしまう。
それに対し六郎は不思議そうな顔で
「兄上の死を望んではおらぬ。
しかし、人とはいつ死んでもおかしくはないものよ。
兄上は元より病弱じゃ。
何か有れば、わしが後を継ぐ。
覚悟を決めねばならぬのか、確かめただけじゃ。
何か兄上の死を望むように聞こえたのか?」
と言って来た。
重ねて
「戦場で討死しようが、流行り病で死のうが、天寿を全うしようが、死ぬるは同じぞ。
わしとて明日は、敷石に滑って頭を打ちて死するやもしれぬ。
人とはそのような儚きものよ」
なんて言っている。
十七歳なのに、何か現代日本人とはまるで違う死生観を持っているなあ、と感じたよ。
そして、もしも流行り病で死が確実ならば、六郎は兄に決して近づかぬよう言われたそうだ。
正室の子に相次いで死なれたらたまったものではない。
「死ぬ時はどうせ死ぬ」
という諦念にも似た死生観と
「少しでも死を遠ざける」
という生への本能が共存している、何とも不思議な人たちであった。
そして、現代日本では鎌倉武士の世話役と思われている俺に、受け入れ病院の方から来て欲しいという連絡が入った。
俺は当主に報告し、執事の藤十郎と共にそこに向かう事にした。
おまけ:
藪薬師の初出は鎌倉時代、西暦1283年の『庭訓往来』だそうです。
なお「ヤブ」は元々は「野巫」、田舎の占い師ってな意味だとか。
ただ「一つの術しか知らない」野巫は、「見通しが効かない藪のような」医師よりマシに思えるのは自分だけでしょうか。




