嫡男も面倒臭いよ
客死した三郎の葬儀が行われる。
遺体は京で火葬という事なので、遺髪や遺品を前にした葬儀となる。
遺体を京都から鎌倉まで運ぶのは一苦労だ。
死穢といって、死体に触るのは極端に嫌がられる。
まして病での遺骸であり、余計に忌避された。
運搬中に腐る事もあるし、塩漬けにして首だけ運ぶっていうのは合戦くらいだ。
当時既に火葬が普及していたので、京都でそれを行う。
当主と執事の藤十郎は幕府にその旨を通達し、許可を得て京に上っていった。
この屋敷での葬儀は、当主と藤十郎が遺品を持って帰って来てからになる。
まだ遺品が到着していないので、その前に新嫡男・六郎の特訓が始まっていた。
正室の子であった為、礼儀作法は幼少時から叩き込まれている。
だが、父や兄の後ろで客に対し礼を取るのと、嫡男として客を出迎える立場では、求められるものが違っていた。
「折り目が曲がっておりますぞ!」
「しわくちゃにしない!」
「返礼品の大きさと合っておりませぬ。
大きめに折れば良いとか、手を抜いてはなりませぬ!」
六郎が学んでいるのは、折り紙である。
折形礼法とも言う。
平安時代の朝廷で生まれた礼法で、儀式で使う金品を和紙で包んだり、贈答品を和紙で包んだりするものだ。
鎌倉時代に入ると、公家との付き合いも増えた武士たちも折り紙を学ぶようになった。
現代の遊戯折り紙とは違う、歴とした教養なのである。
この六郎の特訓は、現代に例えるなら「デパートとかのラッピングを練習する」ものであり、ラッピングが雑だとそのデパートの評判にも関わるから「しわくちゃにするな!」「雑に折るな!」「商品との間に隙間が有り過ぎる」と怒られているようなものである。
慣れれば出来る事なのだが、不器用な人だと中々覚えられず、出来たと思っても求められるレベルに達していない等、苦戦するものだ。
「民部殿がわしに代わって折れば良いだろう?」
「そういうものではございません」
細かい作業が苦手な六郎が癇癪を起こしているが、指南役の吉田民部も負けていない。
「幸い、未来の世には紙は安く大量に有ります。
この民部が納得するまで、若には修練して貰いますぞ!」
紙が多いという事は、書道の練習も出来るという事だ。
六郎も一通りの教育はされていたが、まあ後継ではないからと字の汚さは見逃されていた。
読めれば良いといった感じで。
しかし、次期当主ともなればそうもいかない。
祐筆に任せてはならない場面だってある。
その場で署名する時に、一々祐筆に代筆なんかさせられない。
「自分の名前くらい、流れるような筆致で書きなされ」
「平仮名を多用しない!
女子じゃないのですぞ。
だからといって、片仮名にしなさるな!」
「花押は同じ大きさ、同じ形にしなされ。
書く度に違っていては、贋物扱いされますぞ!」
これもまた吉田民部にスパルタ指導されている。
「なあ、ぷりんたぁとやらを貸してくれぬか?
あれなら字を書き出す事は容易い」
とか、俺の家に来て現実逃避な事を言っているが、直筆が必要な場面は現代だって存在するし、その時にPCとプリンターを持って行けないのだから、結局は同じ事だ。
また和歌の素養も学ぶ必要がある。
坂東においてはまだ、和歌が出来ないと「それすら出来ぬのか」と馬鹿にされる程ではない。
だが、徐々に和歌を詠む武士も増えているのは確かだ。
なにせ三代目鎌倉殿・源実朝からして和歌の名人なのだから。
鎌倉殿を京都から迎えているし、家政に京下りの公家を雇う武家もあったりで、京の文化を取り入れつつある。
六郎はそういうのに無縁だったから、今は詠めずとも仕方が無い。
あと、下手でもそれを笑うのは野暮というものだ。
それでも弔問客が弔歌を詠んだ時に、理解出来ないのは論外であろう。
返歌が出来れば良いが、それが無理でも意味くらいは分からねば。
相手が公家なら、底意地の悪い言葉遊びを仕掛けて来る事もある。
後鳥羽上皇なんか、現代のネット用語でいう所の縦読みを使っている。
和歌は縦書きなので、横読みというべきか。
『見せばなや
君を待つ夜の
野辺の露に
枯れまく惜しく
散る小萩かな』
という和歌の先頭の読みを重ねると「みきのかち」即ち「右の勝ち」となる。
歌合せの判者を上皇がした時の遊びである。
六郎にここまで求めるのは無理だ。
だが、弔問して来るのは武士だから、武士の素朴な和歌くらいは意味を解さないとならない。
なお、この分野はチート頭脳な末弟・八郎も苦手である。
彼の場合は頭脳が論理に偏っている為だが、六郎の場合は端からやる気が無いのが原因だ。
吉田民部は徹底的に教え込むつもりであった。
「とりあえず、葬儀において恥をかかぬ事を最優先で教授致します。
人付き合いの仕方や、京の公家に対する礼儀等はまた後日となります。
それ故、最低限の事はこの数日で出来るようになって下され」
吉田民部の他に、当主代行である庶長子の太郎も
「わしは父上のお傍で様々に学んで来た。
亡き三郎殿も同様じゃ。
お主……いや嫡男殿が出来ぬ事はあるまい」
と、微妙に言葉遣いを格上用の敬語に変えつつも、逃げを許さない。
出家の叔父・譲念和尚も
「仏事とは首供養だけではないからな」
と教育に加わっている。
「着衣の乱れは気の緩み!
烏帽子も着けずに俵藤太と会って、その無作法から見限られた平将門公の例もあります。
きちんとして下さい」
このように六郎が厳しく指導されているのを俺は何回も目撃する。
俺が何故、そんな場面を頻繁に見ているかって?
この武家屋敷、正門は現代日本に向いて開いている。
当然というか、この町内の付き合いの濃さというか、現代日本側からも葬儀への参列希望があったりする。
特に御成敗式目の一条と二条のせいか、寺社からのお悔やみも来ている。
そういう事の担当が俺になってしまった。
例によって拒否権は無い。
まあそれでも両親に手伝って貰える分、俺の方が楽だろう。
六郎には現代日本側参列の、二回目の葬式用の作法も覚えて貰うからな!
しっかりやれよ!
おまけ:葬式は、当事者ならば、面倒臭い
自分も香典返しとか、熨斗がどうとか教えられましたよ。
葬儀会社が色々手配してくれても、喪主としてしなければならない事も結構あって。
今よりも葬儀が簡略化されていない昔は、もっと色々あったんでしょうな。
(そして武家はナメられたら生きていけない。
こういう場でも「出来ませんでした、エヘ」は許されない)




