感染症予防
冬場は病気が流行しやすい。
人間である以上、鎌倉武士だって病気には罹る。
体力が現代人以上にあっても、栄養学的には偏っているし、医学が迷信と紙一重である為、一回罹ると死病に繋がる危険性もある。
疫学的には、様々な病気を経験して来た現代人の方が、他国との交流も限られている鎌倉時代人よりも強いと言えた。
現代日本と繋がっている謎の武家屋敷、基本的に用事が無ければ鎌倉武士は現代側に出ては来ないが、だからといって完全に引き籠っている訳でもない。
出るなと言われれば「我等は罪人に非ず」と言って、かえって出て来る。
自然な流れに任せていたら、自然と文化が違い過ぎる現代に出て来なくなっただけだ。
そんな中、鎌倉時代人なのに現代で生活していたり、フラフラと両方を行ったり来たりする者もいる。
まずはモデルデビューしたお熊さん、東京在住だ。
次にチートじみた小学生、八郎。
山村に領土を得た六郎。
音楽家も目指す僧侶・慈悟。
この四人は現代日本側に定住している。
この他に、譲念和尚と七郎、そして末姫はよく現代日本に遊びに来る。
七郎の場合は遊びというか、喧嘩というか……。
後は用事がある時に雑色や下女がやって来る。
「さて、どうやって彼等に予防接種を受けさせるか」
顧問弁護士が俺に相談しに来た。
現代日本の方で、ちょっと病気が流行っている。
その病原体は鎌倉時代には存在しない。
現代日本をうろついている人経由で感染する可能性が高い。
隣の武家屋敷が全滅するくらいならまだ良いが、下手したら鎌倉時代の日本にその病気をばら撒く危険性がある。
だから予防接種をさせたいのだが……
「拒否されたんですね?」
「そうです」
まず、医学的な病気の予防という概念が彼等には無い。
それは祈祷とか呪いとかの範疇なのだ。
医学的に「死穢を避く、死骸に触らない」の他にも、「風上に(病原体が繁殖しやすい)淀む水を置かないように」とか「口を漱ぐ(うがい)べし」というのはあながち間違ってはいないのが面白い。
ただそれだけでは不十分であり、予防接種で他への感染を防ぎたい、石鹸で手を洗わせたい、マスクで飛沫を飛ばさないように、逆に受けないように、というのも追加したいが
「然様なものは必要無し」
と聞いて貰えない。
まあ、現代においても義務ではないし、この措置をしたからと言って100%防げる訳でもないので強制なんかさせられないのだが。
なお、モデルをして東京住みのお熊さんは各種予防注射の接種済みだ。
鎌倉武士の監視の目が届いていないし、何よりも事務所が
「接種していないと仕事に支障が出る」
と半強制しているからだ。
本人がどう思っているかは分からないが、とりあえず体に変調は無いようだ。
そして、お熊さんは科学知識に関しては無知である。
だから、自分の体に針を刺され、何かを流し込まれても
「お薬です」
と言えば信じる他はない。
そういう意味では、科学知識がある八郎の方が厄介である。
このチート児童は科学知識が凄まじく、今でもどんどん吸収しているのだが、分野によって偏りがある。
数学、物理学といった「再現性がある」「繰り返し証明可能」なものは良いが、医学、生物学のように「不確定要素が多く、他の要因で違った結果になる」ものは情報に振り回される傾向にある。
情報感受性が高過ぎる故の弊害とも言えた。
「ワクチンとかいうものの原理は分かった。
しかし、それが本当に体に良いとは言えぬと、あちこちで書かれておるではないか。
確実ならば納得するが、既に変異株とやらには効果が無いとも言われておる。
また、薬も調合を目で見ているなら良いが、あのような液体では、本当の所は何を入れられておるか分かったものではない」
という理由で反対している。
彼を納得させるのは難しい。
接種したらならない、接種しなかったら100%発症ならば納得するだろう。
しかし、接種したから罹患しなかったのか、接種しなくても偶然罹患しなかったのかを判断は出来ない。
むしろ「接種しても罹患した」というケースの方が目立ってしまい、意味が無いものと断定していた。
もう病気にならない事を願うばかりだ。
山村の六郎たちはある意味安全であろう。
自主的に隔離されているようなものだ。
外部に出向く亀男とかリュウ母子とか、六郎の愛人となった女性といった現代人に注意させ、それなりの措置をしている。
更にその寂れた地域は、そもそも流行病がほとんど出ていない。
……だから「接種しなくても、兄上は平気ではないか」と八郎が否定する根拠とされているが。
「あ、わしは接種したぞ」
と意外な人物、譲念和尚はそう言っている。
「万が一わしが死んでも、お家には大した事ではないじゃろう。
わしが人身御供となり、大丈夫なものか否かを確かめれば良いのじゃ。
どうせ、あちこちをふらつき歩くのはわしくらいなものじゃからな」
そう言って大笑いしていた。
武士とは違う意味で「どこで死んでも、死に変わりない」と達観した僧侶の方が融通が利くようだ。
武士も命を惜しむ事は無いが「合戦で死ぬのが誉れ」であり、病死は「これも天命ゆえ、ジタバタせぬ」のだが、謎の注射で死んだりしたら「自ら毒を取り入れた虚け者」「病を恐れた臆病者の末路」となるので、説得はほぼ不可能と言えた。
とりあえず、俺のアイデアで外を出歩く女中や末姫にマスクをつけさせるのは成功する。
それは、中世日本において女性が出歩く際は、供を連れるとか顔を隠すという風習があるのを応用したものだ。
「これで口元を隠すだけでも、犯罪から身を守れる筈です」
耳が痛いとか不満はあるようだが、当主たちから
「如何に安全なこちらの世とはいえ、被り物もせずに出歩くは確かに不用心である」
と言われた事で、どうにかさせられた。
基本、当主がそうしろと言えば、下人たちは従わざるを得ない。
……逆にマスク外して良いと言い難くなったような気もするが。
あとは、陰陽道なのか神道なのかは曖昧だが、古くからの風習で「口を漱ぐ、手を洗う」を徹底させた。
水に関しては、煮沸させ、塩を一つまみ入れたものを使わせる。
塩の購入で文句を言っていたが、塩くらいなら無料でプレゼントしてやるよ。
そんなこんなで、ごく最低限の対策をさせ、あとは感染しないよう天に祈るしか無かった。
なんだかんだで俺たちも、祈祷で疫病退散を祈る中世人と大して差が無くなってしまった。
その祈りは通じたようで、隣の鎌倉武士の屋敷や、そこから出歩いていたり別宅を構えている者たちに病気は発生しなかった。
だが……。
おまけ:
ワクチンか反ワクチンかの話はしませんので(ネタに使っただけで)。
一方で作中に書いた、神道ベースの禁忌って、割と防疫的な面もあるなと思ったりしまして。
宗教の禁忌って、割と経験則から来てたりしますよね。




