ペガサス競馬観戦 3
《フレイモア競馬第六レース、ギレルモノービシスフライング、四歳以上の条件戦。距離四八〇〇メートル。出走馬は二十頭。
実況はわたくしポリー・サラバンドでお送りします。
さあ各馬スタート地点に固まって、どの馬も良いポジションを取ろうとしています。
ファンの皆さまご存じの通り、スタート前から駆け引きが行われております。
この時点でレースが始まっていると言っても過言ではありません》
実況の声が熱を帯びている。女性アナウンサーが場内実況を行うのを新鮮な気持ちで聞いていた。
考えてみれば、こうやってきちんと場内実況を聞くのは初めてな気がした。
いつもレースに集中するあまり、実況の声に注意を払ったことなどなかった。
代わりになぜか観客の喜怒哀楽の混じった歓声が耳に入る。
恭介が人気のない馬で三着以内に入ったときは、怨嗟の叫びが聞こえたものだった。
「そろそろね」
エレノアの声が弾んで聞こえた。
恭介はエレノアの横顔をちらと見ると、エレノアに喜びに満ちた顔色を浮かべて、ビジョンに目を向けていた。
「出走頭数が多いんだな」
「そう?」
「日本じゃ十八頭までだからな。競馬場やコースによって違うけど」
「こっちじゃ最大三十頭立てってレースもあるわ」
「マジか。馬群捌くの大変そうだな」
「これだけは経験しないと何とも言えないわね。とりあえずレースを観よう」
「そうするか」
恭介もエレノアの気持ちに当てられて興奮しそうになるが、大人ぶって平然を装う。
二人が話しているうちにレースが始まろうとしていた。
《さあ、各馬体勢が整ってスターターが確認しています。
ロープが跳ね上がって、各馬一斉にスタート!
おっと、九番のクレイパペットが出遅れてしまいました。
さらに十七番ホーリーオーシャンもダッシュがつきません。
この二頭が大きく出遅れました。
さて、まずはなにが行くでしょうか。
各馬相手の出方を窺っていますが、おっと外から出ムチを入れて二十番オンドールが先頭に立とうとしています。
今日は積極策に出ましたオンドールがハナを切る形になって、さらにその一馬身後方に五番ストレートスペルがつけます。
その後ろは馬群が一塊になっています。
さて各馬ゴール板を通過して第一コーナーに進入します。
ここからおよそ二〇〇メートル走ったところが飛翔エリアです。
各馬、隊列が固まったまま離陸エリアへ進入していようとしています。
まず先頭の二十番オンドールが飛翔準備に入ろうとしています。
後方の各馬、先頭を見る形でレースを進めます。
そして先頭の二十番オンドールが翼を広げたぁ!
宙を蹴って上空のコースへ進入します。
そして各馬続々と空へ舞い上がっていきます。
場内から歓声が沸いてきましたが、ああ! 一頭落馬です。
離陸に失敗した一番マジックモーターの騎手が落馬、離陸のスピードについていけず、バランスを崩してしまった模様ですが−−。
あっと、十一番スカーレットリーフが飛翔拒否、生垣の前で立ち止まってしまいました。場内からため息が漏れてきます》
実況の声と混じって観客から嘆息混じりの恨み節が聞こえてくる。
「すげえな、マジで飛んでる」
スピードを落とさず、さらに加速しながら空へ駆けて行くペガサスを目の当たりにして、恭介は驚きのあまり、言葉を失いかけた。とても現実の光景とは思えなかった。
「すごいでしょ。でもたまに飛ぶのを嫌がる子がいるの。ほら」
エレノアは競走中止した二頭を指さした。
恭介が特に心配になるのは一番の騎手である。飛び始めた直後に落馬したため、怪我していないか不安になってくる。
「大丈夫なのか?」
「平気よ。あ、みんな飛んだわね」
エレノアはマジックビジョンに目を戻す。
なんとなく嫌な予感がしてきた。
だが、この場で観戦を拒否しても意味がないので、意識を再びレースへ向ける。
恭介は食い入るようにマジックビジョンを見つめる。
映るレースが現実に行われているとは思えなかった。騎手を乗せたペガサスが後方に翼を伸ばしながら空を飛んでレースをしている。
地球ではありえないレースを目にして、恭介は唾を飲んだ。
《さて、先頭はいまだにオンドールです。
空を蹴り上げ順調にレースを進めています。
そしてその後方斜め下に五番ストレートスペル。
馬群がばらけ、各馬高低差をつけながら先頭を追っていますが、おおっと! ここでペースが遅いと見たのでしょうか、七番モアマネーがまくって先頭に立とうとしています。
騎手が手綱をしっかり持ちながら二番手の下方につけました。顔を見上げて五番ストレートスペルの位置を確認しています。
各馬第二コーナーを曲がり終えて、依然先頭は二十番オンドールですが、ああーっ! 落馬、落馬です。
六番スイフトアタックの騎手が上方を飛んでいた十三番リトルスワローの脚に当たってしまったようです。
大丈夫でしょうか?
六番の騎手、上空から地面へと真っ逆さまに落ちていきます。
これで六番は競走中止。そして、騎手を蹴ってしまった十三番も失格です。
さあ各馬、第三コーナーを曲がって着陸態勢に入ろうとしていますが、おっと、どうしたことでしょうか?
十四番ヴァイスマンがコースアウト。
外側のラインをすり抜けてはるか彼方へ飛んで行ってしまいました。
いったい何が起きたのでしょうか。
その間に、先頭の二十番オンドールが高度を下げていきます。
慎重に着陸エリアに進入していますが、ここで八番のリバイバルテイルが一気に高度を下げながら先頭にとりつこうとしています!
落下スピードを利用し、矢のような着陸を試みたのでしょうか。
一か八かの勝負と言ったところですが、これは危険と隣り合わせ――うわあぁぁー!
リバイバルテイルの騎手、鐙から足が離れてしまいました。
必死に手綱を持って落馬を防ごうとしていますが、馬が言うことを聞いてくれません。
すごい速度で地面に近づいていきます。
ああっと! ここで騎手の手から手綱が離れてしまいました。
八番失格!
これはいけません。
いきなり高度を下げると、身体が浮いてしまいますから焦りは禁物です。
八番の騎手、いま芝生の上に落下しました。場内からどよめきが起きます。
さて、二十番オンドールが着地しようとしています。
落馬の影響からか各馬慎重にレースを進めていきます。
そしてオンドールが芝生の上に肢を着け、平地コースへ進入して行きます。
それに続いて各馬、次々と着陸しますが、あっと、ここでまた落馬です。
四番のラスティニャクが着地のさい、バランスを崩してしまったようです。
さらに十番ビアンションも落馬。
他の各馬は順調に着陸していきます。
最終コーナーを曲がって先頭はオンドール。
まだ手綱を持ったままです。
そして五番のストレートスペル、鞭を入れて追い上げようとする。
後方から抜け出てくる馬はいないのでしょうか。
おおっとぉ! ここで最後方に構えていた十七番ホーリースロー、そして九番のクレイパペットが一気に追い上げて馬群から抜け出してきた。
凄まじい末脚で先頭にとりつこうとする。
しかし、二十番の脚色が衰えません。
ここでようやく鞭を入れた。
残り一〇〇メートル。
クレイパペット、ホーリースローがじりじりと追い上げてくる。
さあ、オンドールがこのまま押し切るか。
クレイパペット、ホーリースローが迫ってきたところで、ゴーーール!
三頭全くの横並び。きわどい勝負となりました》
「狂ってる……」
惨状じみた光景に、その言葉しか出なかった。
着順はどうでもよく、落ちた騎手の安否が気になる。
危険の度合いが障害競走の比ではなく、あまりにも落馬の数が多すぎる。
空飛ぶ競馬といっても、安全に配慮して行われると思ったのだが、こんなレースをやっていると命がいくつあっても足りない。
それに何事もなく平然とレースを続けていた騎手たちの感覚が異常である。
空から人が落ちても当然といわんばかりだった。
観客たちも少し悲鳴を上げただけで、あとは落馬した騎手を気遣うような声が聞こえてこない。
「ちょっと落馬が多いわね」
というエレノアも平然と言ってのける。
「いやいや、ちょっと待て。人が空から落ちてんだぞ。なんでそんな平気なツラでいられるんだ。死ぬぞ、あんなレースやってたら」
恭介は思わずエレノアに顔を近づけて言った。
レース中、観客からどよめきが上がったものの、それは命の心配をしている様子ではなかった。
買った馬券が紙くずと化した者や、的中しかけた者、レースを見て興奮した者たちの悲喜こもごもの声である。
「大丈夫よ。地面には緩衝魔法がかけられているし、蹴られた騎手も、ヘルメットに緩衝魔法が施されているから問題ないわ。ほら、見て」
とエレノアがマジックビジョンを指さした。
それにつられて恭介も目を遣る。
落馬した騎手たちの様子が次々と映し出される。
エレノアが言った通りみな無事のようだ。
あれだけの高さから落ちたのにもかかわらず、何の支障もなく歩いている。
苦笑いを浮かべたり、悔しさをにじませたりしていた。
「マジか……」
いつも通りと言わんばかりに振舞う騎手たちが信じられなかった。
そのとき、コースアウトをした十四番のヴァイスマンが上空を飛んで戻ってきた。
そして、ゆっくりと高度を下げている。
騎手が申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた姿がマジックビジョンに映ると、場内から冷やかし交じりの声援と拍手が沸き起こった。
「信じられねえ」
もはやなにを言葉にしていいかわからなくなった。この状況を普通だと感じる人たちの感覚が理解できない。
「驚くのも無理はないわ。でも大丈夫、すぐに慣れるわよ」
「慣れるか、んなもん」
「調教やレースに乗ったら、怖さなんてどっか行っちゃうわよ。ほら、騎手って恐怖を感じてたら務まらないでしょ」
「限度があるだろ。あんな上空から落ちると思うと恐怖しかねえよ」
「うーん。見るだけだとしょうがないかもしれないわね」
ここはエレノアが引き下がった。
すると何を考えているのか、右手を口の下に添えて恭介を見つめる。
「どうしたんだ?」
「うん、キョースケには早く十勝してもらわないといけないし、そのときまでには飛ぶことに慣れてもらわないと困ると思って」
「十勝? なんで?」
怪訝な思いが浮かぶ恭介。
「平地で十勝しないと飛翔競走に乗れないルールがあるの。平地で勝てない騎手が飛翔なんてできるわけないって概念があるし」
「たった十勝か」
そのルールで大丈夫なのか不安になった。
いくら何でも経験が浅すぎないだろうかと内心訝る。
「あとね、ペガサスもすぐに空を飛べるわけじゃなくて、平地で一勝以上、もしくは出走回数五回以上って条件があるのよ。うちのアシタスも早く勝ち上がってもらって飛翔の重賞にチャレンジしたいのよ」
「うーん」
説明を受けて、恭介は本当にこの異常な競馬に騎乗すべきか悩んだ。
当面の間は気にすることはない。
ルール上、恭介が飛翔競走に騎乗するのはまだ先の話である。
平地競走なら、サラブレッドとペガサスの違いがあるとはいえ、やることはほとんど同じである。
ただ、十勝したときが問題だった。
エレノアが言った通り、魔法のおかげで空から落馬しても怪我しないとはいえ、落馬、というよりは落下の恐怖に打ち勝てるかどうか。
「どうしたの?」
唸り声を上げる恭介に対し、心配そうな声音で訊くエレノア。
「なあ、エレノア。平地だけじゃダメなのか?」
「なに言ってるのよ。ペガサス競馬では両方できて一流って言ったでしょ。平地しかできないなら二流三流って見なされてしまうの。飛翔をやってこそのペガサス競馬なんだから。平地にも有名なレースもあるけど、全体的に飛翔の方がファンに人気があるのよ」
「まあ、たしかに、見てる分には空飛んだ方が面白いかもしれねえけど」
おざなりの感想を漏らす恭介。
どうも乗り気になれなかった、
「とにかく、慣れよ慣れ。まずはちゃんと飛翔競走を見届けること。あとは訓練」
「訓練、ねえ」
どんな訓練をするのか、想像もしたくなかった。
どうせまともな神経ではできない訓練だろうとぼんやり思うだけである。
恭介は背もたれに大きく寄りかかって首を後ろに倒し、額に手の甲を乗せる。
「悩んでちゃ何も解決しないわ。ほら、次のレースが始まるわよ」
エレノアは弾んだ声で恭介にレースを見るように促す。
とっくに訓練は始まっているよ、と言いたげである。
彼女は心底ペガサス競馬に魅せられているようだった。
――嬉しそうに言いやがって。
そもそも、この世界に強引に連れてきてこんな狂気のレースに乗るように仕向けるのは、脅迫ではないか、と恭介はうっすら思う。
だが所詮恭介も下心のある一人の男である。
自分がスピレッタ調教場のペガサスに騎乗し、勝ち鞍をあげたらエレノアがどんな顔をして喜ぶだろうかと想像してしまうのだ。
命かけてまでやることではない、と胸の内に残っている理性が恭介に訴えて来る。
一方で、エレノアをがっかりさせたくないという感情が理性を塗りつぶす。
そもそも日本に帰れない今、恭介には選択肢はないのだ。
それならいっそ、この可愛い女を喜ばせるほうにモチベーションを振った方がいい気もする。
「やるしかないか」
恭介はぼそっと呟く。
「なんか言った?」
エレノアにははっきり聞こえなかったようだ。
恭介は手を降ろしてエレノアに視線を向けると、彼女は不思議そうに目を細めて見つめている。
心を読まれたと一瞬勘違いをして、恭介は慌てて姿勢を正した。
「な、何でもない。すこしやる気が出てきただけだよ」
「そうよ。キョースケ。やってみないと楽しさはわからないわ。空を飛ぶってものすごく気持ちがいいんだから」
エレノアは経験者として喜びを共有したいのかもしれない。
ペガサス競馬のことになるといつも楽しそうな表情になる。
――でもなんで……。
エレノアは騎手を辞めたんだろ、と思う。
そんなに楽しいならやめる必要はなく細々とでもいいから続けるべきだったのではないか。
デリケートな問題がはらんでいるかもしれない。
そう思うと、エレノアの喜色あふれる笑顔が少し陰って見える気がした。
彼女の気分を害したくなかったので、結局恭介は浮かんだ疑問を先送りにすることにした。
たとえ知ったところで、スピレッタ調教場のペガサスに跨り、レースに勝つことでしかエレノアを喜ばせることしかできないのだ。
結局、この日は関係者席からペガサス競馬を見るだけで終わった。
そして、スピレッタ調教場に帰ったとき、また新たな問題が立ちはだかる。