ペガサス競馬観戦 2
関係者専用の部屋にはあまり人がいない分、ゆったりとした時間が流れている感があった。
部屋に入って左のところにバーがある。
夥しいほどの酒瓶が並べられ、バーテンダーがグラスを拭いている。
カウンターには夫婦らしい中年の男女が並んでゆっくり酒を飲んでいた。
案内係の女性職員が二人に近寄ってきた。
黒く縁どられた白いジャケットを着、艶のある黒いパンツスーツを穿き、背筋をピンと伸ばしていた。
「お話は伺っています。こちらへどうぞ」
案内係の女性が先立って席へ案内する。
――まるで、馬主みたいだな。
調教師と得体のしれない新人騎手をもてなすには少し度が過ぎている気がした。
コースに面した壁は全面ガラス張りでコースの風景が良く見えた。
思ったよりも高いところではなく、観客の目線に近い。
スタンドの外にも関係者専用の席が設けられており、ゆったりとしたスペースが確保されていた。
馬主の席であると同時に、その接待をする調教師たちの席でもあるようだ。
案内係の女性がガラスのドアを開けてくれると、エレノアは礼を言って外へ出、恭介も女性に軽く挨拶をしてエレノアに続いた。
エレノアは最前列の席に行き、細長いテーブルの上に新聞を置いた。
「まるでビップ対応だな。調教師ってけっこう偉いんだ」
恭介は彼女の隣に腰を下ろして言った。
フレイモア競馬場の職員たちがエレノアに対してバカ丁寧なほどの対応をしていたのが少し気になった。
「仕事だからよ。ペガサスレーシングクラブは常に紳士たれって言うから、馬主さんだけじゃなく、誰にでも丁寧に対応しないといけないの。今じゃ女の人も多いから淑女って言葉も入るかしら」
「……なんかどっかで聞いた言葉だな」
「そう? どこもこんな感じなのかしらね」
「競馬じゃなく別のスポーツだけどな。で、ペガサスレーシングクラブってのは主催者のことか?」
「うん。正確には統括団体ね。ルールの制定やレースの審議が主な仕事なんだけど、関係者の素行もチェックしているわ。馬主さん、調教師、厩務員、騎手、職員、記者。変なことをしたら、すぐに処分が下るわ」
「なんか怖ぇな。権限が強すぎるっつうか」
「そうでもないわよ。ちゃんとしていたら何もうるさくないから」
そう言うと、エレノアは新聞を広げた。
そこには出馬表らしきものが記載され、その下には横書きらしい文章が書かれている。
糸くずをちりばめたような金釘流の文字に見えて意味が全くわからなかった。
「なんて書いてるんだ?」
「文字は読めないのね」
エレノアが身体を寄せて新聞に目を落とす。
不意に近づいてきたエレノアに、恭介は思わず彼女の横顔を見つめる。
「変な話だよな。こうやって言葉は通じるのに、文章が全くわからないなんて」
心持ち上ずった声になってしまった。
「少しずつ覚えたらいいじゃない」
エレノアは恭介のおかしな声に気づかなかったようで、新聞をじっくり読みながら言う。
「これならわかるかしら?」
と言うと、エレノアは出馬表の戦績欄らしき箇所を指さした。地球と同じ算用数字が書かれてある。
「えーっと、左から『0、3、2、0』ってことはこの馬はまだ未勝利馬ってことか。ならこのレースは未勝利戦だな」
「そう。この子、先頭に立つとすぐ気を抜いちゃうから抜け出すタイミングが難しいのよ」
「ソラを使うってことか。こっちの世界にもそんなサラブレッド、ざらにいるな。ペガサスも一緒なんだ」
「同じ馬だからね」
「かもな」
と恭介が言ったとき、不意にエレノアと目が合い、彼女の頬がゆるんだ。
やはり彼女は馬のことになると楽しくなるようだった。
「あ、そうだ。キョースケの世界って魔法がないのよね」
「なんかあるのか?」
「驚くわよ。もうすぐかしら」
エレノアはコースの内馬場に目を向ける。
恭介も内馬場に視線を移すと、いきなり宙に巨大な映像が浮かび上がった。
コースを見下ろす角度の映像である。
「なんだ、これ?」
突如浮かんだモニターに驚きを隠せなかった。
鮮明かつ奥の風景が透けて見える不思議なモニターだった。
高さも幅も広く、スタンドのどこにいても見える設計がなされているようだ。
「マジックビジョン。これでお客さんはレースが見れるのよ。ほら、内馬場にもお客さんがいるでしょ。裏側にも同じ映像が流れているわ」
「マジか」
恭介は言葉を失った。
もしかしたら遠い未来の技術を目の当たりにしているかもしれないという感覚に陥る。
「あ、本馬場入場よ」
マジックビジョンには馬場に入場する出走馬たちの様子が映し出された。
日本のように入場曲が流れるわけではないようだ。
次に恭介はコースをざっと眺める。
フレイモア競馬場はきれいな楕円を描いた右回りのコースだった。
ゴール板が第一コーナーの手前に立てられ、距離を示す標識が点々と地面に刺さっているあたり、日本の競馬と変わらない観がある。
ホームストレッチの右側に長いポケットがあり、どうやら直線のみのレースも行われるようだ。
見た目にもわかるほどコースの起伏が激しく、走るには相当のスタミナとパワーが要求される。
特に最終コーナーの入口からゴールまで上り坂が続いており、どの距離を走るにしろ、タフでなければこなせそうになかった。
コースの奥には丘が折り重なっていた。
建物や道路といった人の手が入ったものは一切なく、はるか遠くで折り重なる山々には靄がかかっている。
フレイモア競馬場の風景に気を取られていると、どこからか女性の声が聞こえてきた。
「フレイモア競馬場第五レース、三歳未勝利戦、距離二千メートル。出走馬の紹介です。一番――」
実況の声が場内に響き渡る。
引き綱から解き放たれた各馬が返し馬を開始した。
「こっちもこんな感じなんだな」
恭介は共通点を見出してそう言った。
「ペガサスもアスリートよ。ウォーミングアップぐらいしないとね」
「だよな」
恭介が見たところ発走までの進行はそう変わらないようだった。
各馬が返し馬を行う中、実況が次々と馬名、騎手の名前、斤量を告げる。
「三番、トワイライトオース、鞍上ガウン・ボウズ騎手、負担重量五十八キロ」
女性アナウンサーがそう言った声が耳を打つと、
「え?」
と反射的に声を上げ、新聞に目を落とした。
「どうしたの?」
エレノアが怪訝な面持ちで訊いた。
「未勝利戦で五十八キロって重くね?」
「ペガサス競馬では軽い方よ」
「マジか。ペガサスって馬格がいいなって思ったけど、さすがに重すぎるんじゃないか」
恭介がそう思うのも無理はなかった。
中央競馬の三歳未勝利戦では牡馬が五十六キロ、牝馬なら五十四キロを背負う。
五十八キロといえば、安田記念、宝塚記念、天皇賞秋で四歳以上の牡馬とセン馬が背負う斤量と同じだった。
「そうなのね。でも、レースによって違うから何とも言えないわね。あ、そろそろレースが始まるわ」
返し馬から発走まであまり時間がないようだった。
向こう正面にはロープが渡されてスタートの準備ができていた。
ロープの手前で各馬が輪乗りをしている。
「お待たせしました。間もなく発走です。実況はわたくし、ポリー・サラバンドでお送りします。さあ各馬ロープの前に並んでいます。どの馬も落ち着いてスムーズにスタート位置が決まったところで、いまロープが跳ね上がってスタート!」
◇
ペガサス競馬の平地競走には目新しい点が見当たらなかった。
一つ違うのはバリヤー式発馬機を用いた点であるが、これについては朝の調教で見たので、特に驚きはなかった。
ただ、もう一つ気になることがあった。
第五レースの平地競走が終わると、恭介はエレノアに訊いた。
「ペガサス競馬の騎手って、みんなああなのか?」
と言ったのは、朝の調教でエレノアがやっていた天神乗りを騎手たちが行っていたからである。
モンキー乗りに慣れている恭介からしてみると、あれでは満足に馬を動かせない気がする。
そしてなによりも馬にかかる負担を考慮していない感がある。
あの乗り方では騎手の身体が上下に身体が動いてしまって馬の邪魔をしてしまう。
さらに騎手の体重が馬の背中に直接圧し掛り、走法を乱す恐れもあり、重大な故障を引き起こす危険性をはらんでいる。
サラブレッドの競馬に慣れた恭介からしてみると、天神乗りは絶対にありえない。
「うん。キョースケみたいに乗っている騎手なんて一人もいないのよ」
「けど、あれじゃ馬が走りにくいだろうな」
思ったことを率直に言った。
「みんな飛翔を念頭に置いてやっているからよ。キョースケみたいに乗るって発想が浮かばないのも無理はないわ」
「え? ペガサス競馬の騎手って両方やるのか?」
なんとなくペガサス競馬の騎手は、それぞれの専門に分かれていると考えていた。
というのも平地と障害のことが頭にあったからである。
中央競馬において、騎手が両方の免許を有するのは珍しくないが、大抵どちらかのレースに専念することの方が多い。
もちろん平地と障害の両方をこなす騎手もいるが、それは少数派である。
「もちろん得意不得意はあるけど、騎手もペガサスも平地と飛翔、両方できて一流だって認識されているのよ」
「そういうもんか」
としか言いようがなかった。
ペガサスに関する知識が皆無でも、サラブレッドに対するやり方を応用すればいいと感じていたのだが、どうもそう簡単にはいかない気がした。
「でも、キョースケは自分の乗り方を貫けばいいじゃないかしら。飛翔競走でもモンキー乗りができたら革命が起きるわ」
「革命ねえ」
恭介にはエレノアの言葉が軽く感じた。
以前、この世界にやってきたという騎手の存在が頭の片隅にあったせいもある。
もしその騎手がモンキー乗りを駆使してペガサス競馬に参加していたなら、すでにこの世界でもモンキー乗りが普及しているはずである。
未だに天神乗りをしているあたり、何らかの事情があるらしいと恭介は睨んでいた。
「どっちにせよ、飛翔競走を見てみないとわからないな」
「ならちょうどいいわ。次のレース、飛翔だから。あ、ほら、造園課の人たちが出て来たわ」
と言われて、再びコースに目を向けた。ざっと見た感じ、薄青い作業服を着た人たちが内埒、外埒沿いに離れて並んでいる。内馬場に浮かんだビジョンにその様子が映し出されていた。
「埒でも外すのか?」
恭介は横目でエレノアに視線を向ける。
「これから造園課の職員たちが、ちょっとしたショーをやるのよ」
「ショー?」
「見てて」
エレノアが嬉しそうな声音で言うと、馬場に視線を移した。
恭介もつられて視線を馬場に戻すと、職員たちが両手で埒に触れていた。
すると、一斉に両手を天に突き出し、埒が空高く舞い上がった。
何本もの埒が空を裂くスピードで宙を行き交い、やがて緑と黄に色が変わり、コースのようなものが空中に現れた。
その光景を見届けた観客たちから拍手が沸き起こった。
造園課の人たちは照れ臭そうに俯いたり、手を振ったりして応えた。
「すげえ」
恭介は現実離れした光景を目の当たりにして、シンプルな言葉しか口にできなかった。
種も仕掛けもないイリュージョンを観覧した気分になって、子どものように胸が躍った。
「魔法の埒よ。飛翔競走のためにコースを作ったの。内埒が緑、外埒が黄色ね。光で出来ているからすり抜けられるの」
「考えて色付けしてるんだな」
馬の色彩感覚は人間よりも乏しいが、緑と黄の違いは分かると聞いたことある。
どうやらペガサスもそうらしかった。
宙に浮かぶ埒の色が白ではないのはそう言った事情もあるようだ。
ほら、とエレノアが言い、新聞を見るように恭介を促した。
そこには第六レースのコース図と距離が書かれていた。
フレイモア競馬場の飛翔コースは平地とは全く違っていた。
扇を上半分に切り取ったかのようなコースで、バックストレッチは緩やかな弧を描き、両横が底辺に向けてすぼむように伸びていて、底辺にあたるホームストレッチは直線である。
これを読んで、恭介はまた信じられない思いを抱いた。
「なあ、エレノア。この四八〇〇ってメートルだよな」
「そうよ。ロディが言ってたじゃない、あなたの世界のメートルと同じだって」
「長すぎんだろ。三マイルじゃねえか」
恭介が呆れるのも無理はなかった。
恭介の知る限り、平地競走ではありえない距離である。
障害競走を入れても、中山グランドジャンプの四二五〇メートルが日本の最長距離レースである。
一応海外だと、三マイルを超える障害競走は珍しくないが、いずれにせよ平地にはない距離だった。
もちろん恭介にはそんな超長距離レースに乗った経験などない。
「飛翔だとこれでも短いくらいよ。一番長いレースだと一万メートル以上あるわ」
平然と言ってのけるエレノア。
「正気の沙汰じゃねえな」
「ペガサスってすごく体力があるのよ。長距離飛行ができる体質だからね」
「サラブレッドとはえらい違うな」
ペガサスという常識外れの存在に、どう感想を漏らして良いかわからなくなった。
呆気にとられる恭介の顔を見つめながら、エレノアは嬉しそうな微笑みを浮かべる。
その表情は自分の知っている知識を披露して喜ぶ子供のように見えた。
「お待たせしました。第六レース、ギレルモノービシスフライング、出走各馬の紹介です」
次のレースの返し馬が始まろうとしていた。
各馬いったん直線を走らせると、コーナーを曲がったところで、佇む馬が何頭かいた。そこには障害レースで使用されるのに似た生垣の障害があり、その手前には白線が引かれている。
ただし生垣は人の背丈よりもはるかに高く、障害競走のように飛び越えるのは無理そうだった。
「なにしてんだ?」
「離陸地点の確認ね。この上を飛ぶんだぞって教えているのよ」
「へえ」
確か障害レースでも同じようなことをやっているな、と恭介は思った。
「あと、あそこが着陸エリアね」
エレノアはコースの左、最終コーナーの方を指した。
その先にも背の高い生垣が置いてあり、その手前には白線がひかれている。
どうやらその間に着陸しなければならないようだった。
初めて見る空飛ぶ競馬である。
恭介はいまいちどんなものかピンとこなかった。
スピレッタ調教場でペガサスが翼を広げる姿を見たとはいえ、レースではどう走るのか見当もつかない。
「うーん、どんなもんかねぇ」
「見たらわかるわよ。まずは細かいことは抜きにしてね」
と、エレノアが言ったので、確かに見てみないことには判断のしようがないと思い直した。
そしていよいよ、ペガサス競馬の飛翔競走が始まろうとしていた。
参考文献:『サラブレッドに「心」はあるか』 楠瀬良 中公新書ラクレ