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ペガサス競馬観戦 1

 朝の調教を終えたあと、オリアナの用意してくれた朝食のパンとサラダと目玉焼きを食べてから、厩舎作業を手伝った。

 寝藁を日の当たる場所で干し、砂地を均して石が落ちていないかを確かめる。

 スピレッタ調教場のスタッフは恭介が手伝わなくてもいいと言ったが、いつもやっていることだからと恭介は半ば強引に厩舎作業に加わった。


 薄闇に包まれた早朝とは違い、スピレッタ調教場には柔らかな日差しが届いている。

 朝露に濡れた放牧地の芝生が光を弾いてきらめく。

 雲の塊が一つ浮かんでいるだけで、日射しを遮るものは何もない。

 地球の牧場とは何ら変わりない風景が広がっていた。

 

 厩舎作業を終えてから、恭介はミノルという壮年のスタッフが貸してくれたグレーのスーツに着替えた。

 彼はスピレッタ調教場の馬場を管理するスタッフで、調教後に馬場を整備するのが主な仕事である。

 恭介とあまり体格に違いがなかったので、貸してくれたスーツは少しゆとりがあるものの見た目には問題なさそうだった。

 ちなみに彼は日本人らしい名前だが、先祖がこの世界の海外にルーツを持っているらしく、それにあやかってミノルと名付けられたらしい。

 どうやらフォルアースには日本に似た国があるようだ。

 


 競馬場までの交通手段を訊くと、恭介は驚いた。

 魔法だのペガサスだのが存在する世界で、まさかごく普通の自動車があるとは予想だにしなかったからである。

 その疑惑を晴らすかのように、エレノアはスピレッタ調教場の車庫から白い自動車を出してきて、寮の前に停めた。


 この車はガソリンの臭いが全くしなかった。ボンネットが広くトランクもかなりの容量を詰め込めるように見える。

 角張った車体で、丸みに乏しいデザインである。

 クラシックカーほど古くはないが、恭介が生まれる前の昭和の時代にありそうなレトロチックな自動車に見えた。


 恭介が助手席に乗り込むと、エレノアはフレイモア競馬場に向けて車を発進した。

 しばらく車に乗っていても、恭介の受けたカルチャーショックはまだ抜けていなかった。

 わりと現代的な側面もあるマルスク王国の文化に戸惑っている。


「どうしたの?」


 エレノアが運転しながら訊いてきた。助手席に座っている恭介はまた頭の中が混乱に陥っている。


「いや、この世界ってなんだろうなって思ってさ」


 恭介はちらとエレノアを見た。

 女性用の黒いビジネススーツのような服と白いブラウスを着ている。襟のボタンを一つ開けゆとりを持たせていた。

 

 彼女がちゃんと前を向いて運転しているのを見ているだけで何故か安心する。

 きちんと安全運転を心がけているようで、スピードもそんなに出ていない。


「なんだろうって言われても困るわよ」


 とエレノアは苦笑交じりに言う。

 さらに言葉を続けた。


「ごめんね、キョースケ」



 不意にエレノアが謝った。

 恭介ははっとなり、エレノアの横顔をまじまじと見つめる。


「いきなり知らない世界に連れてこられて、怖かったでしょ」


「怖いっつうか、頭に来たっていうか――なんていえばいいんだろうなぁ」


 両方とも事実だが、わからないことが多いので、それを整理するのに手いっぱいだった。

 怖さも怒りも徐々に薄らいでいた。


 少し時間が経って若干の落ち着きを取り戻したのもあるが、エレノアのことが気になったせいでもある。


 ――エレノアの喜ぶ顔を見てみたい。


 そう思うようになった。

 ペガサスに携わり、生気をみなぎらせた可愛い笑顔に恭介は惹かれていた。

 しばらく日本に帰れない以上、せめてこの美女の側にいるぐらいの恩恵に預かってもいいんじゃないかと開き直りつつあった。

 ただエレノアの前でそのことを口にするほど恭介は無神経ではない。

 その欲望は胸の内にしまっておけば良かった。


「今さら怖がったり怒ったりしたところで、何も変わらないからな。こうなったら腹(くく)るしかないさ」


「うん」


 エレノアは息を洩らすような声を出して頷いた。


「でも、まだわからないことだらけだな。ペガサスのこともこの世界の競馬のこともさ」


「これから少しずつ覚えていけばいいんじゃないかしら。一気に詰め込むと疲れちゃうわよ」


 エレノアは正面を向いたまま微笑む。


 恭介も前方に顔を向けると、片側二車線の道路に車の通行が増えつつあるようだった。

 今さら気づいたが、マルスク王国は左側通行らしい。

 道路の左側に車が二列に並んで比較的スムーズに流れている。


 周りの景色に目を移すと、山々の麓まで草花で満たされていた。

 エレノアの顔越しに運転席側の窓の外へ目を遣っても、自然の風景が広がっているのが見える。

 真っ青な空に鳥が群れを成し、旋回したのが目に入った。


「観光客か」


 とつぶやいたのは、周りを走る車を運転する人々が、風光明媚な自然を愛で、バードウォッチングでもしに来たのだと思ったからである。


 しかしそうではなかった。


「観客みたいね。そろそろ競馬場だから」


「え?」


 恭介が驚いていると、エレノアはハンドルから左手を離して斜め前方を指さした。

 その方向に目を向けると、たしかに建物らしきものが見える。霞がかっているせいで建物の形が白くぼやけている。

 草原にポツンと建っている観があり、人の手が入った道路が目印となって導いているような風景である。


「マルスク王国の競馬場ってだいたい町から離れた草原に建てられているのよ。だから車やバスで行く人が多いの」


「そうなんだ」


 日本の中央競馬ならおおよそ町中に競馬場がある。

 地方競馬ならやや辺鄙な場所に建てられている競馬場もあるが、こんな大自然の真っ只中に建てられているのは見たことがない。

 たしか盛岡競馬場が山の中にあったなとうっすら覚えているが、恭介に騎乗経験はなかった。


 もう一度道路の進路方向に目を移すと、大型のバスが何台か走っているのが見える。

 窓越しに見る限り、かなり混雑しているようだった。


「今日ってなんか大きなレースでもあるのか?」


 朝早くからこれだけ多くの客が行く様子が窺え、そう訊いた。


「ううん。でも開催期間中はいつもこんな感じよ。G1の日なんてこんなもんじゃないわ」


「この世界でもG1ってあるんだ」


「キョースケの世界も?」


「ああ。日本じゃグレードって言ってG1からG3重賞の格付けがあるんだけど、ここもそうなのか」


「じゃあ、同じね。こっちじゃグループって言うのよ」


「ヨーロッパとかと同じか」


「なにそれ?」


「こっちの世界の地域だよ。国によってグループだったりグレードだったりするんだけど、Gの表記は変わらないんだ」


 恭介は平地競走だけのことを話した。

 障害競走まで入れて説明すると少々ややこしくなる気がしたので、恭介の乗る平地競走の話に絞った。


「そうなのね」


「ああ。さて、こっちの競馬はどんなもんかな」


 やはり騎手の本能なのだろうか。

 エレノアに好かれたいだとか、華々しい活躍をして称賛を浴びたい欲望とともに、サラブレッドとは違った競馬へ対する興味が少しずつ現れてくるようだった。


「競馬場についたら新聞も買うから、いろいろと教えてあげる」


   ◇

 

 フレイモア競馬場は、草原の真っただ中にある。

 エレノアは今日、大きなレースはないと言ったが、その割には観客が多いようで、面積の広い駐車場にはぎっしり車が詰まっていた。

 駐車場は舗装されておらず、せいぜい芝を刈るぐらいのことしかしていないようだ。


 その駐車場の前を通り過ぎ、スタンドに向かって右側にある関係者専用の出入口まで車を進めた。

 背の高い鉄柵がめぐらされ、入口の前には二人の警備員らしき男が濃紺の厳めしい制服を着用し、目の前の道路を睨みつけるように監視していた。


 エレノアは慣れた様子で車を入口の近くにつけると、ドアのハンドルを回して運転席側の窓を開けてから警備員と話した。

 彼はさっきまでの鋭い眼光は消え失せ朗らかな表情を見せる。


「これはエレノア・スピレッタ調教師。お久しぶりです」


 ほうれい線の目立つ年嵩の警備員は帽子を脱いで恭しく挨拶をした。


「おつかれさま。駐車場、空いているわね」


「ええ、もちろんです。で、本日はどうされたのですか? あなたのペガサスは出走しないはずですが」


「あら、連絡してなかったかしら。新人騎手に見学させるのよ。ほら、キョースケ・ハタヤマ」


「どうもハタヤマです」


 恭介は戸惑いがちに言った。


「少々お待ちください」


 と言って、年嵩の警備員が鉄柵の中に入って行った。

 代わりにどこか自信なさげな若手の警備員が傍に寄ってくる。


「あの、スピレッタ騎手」


 おずおずと声をかける若い警備員。

 その手元にはペンのささった手帳があった。


「元騎手よ」 


 エレノアは苦笑交じりに言う。


「失礼ですが、あの、サインをいただけないですか?」


「ちょっと。公私混同じゃないの」


 しょうがないわね、と苦笑してエレノアは警備員から手帳とペンを受け取った。

 空白のページにさらさらとペンを走らせた。


「ありがとうございます」


 若い警備員は喜色を浮かべて弾んだ声で礼をする。


「おい、何やってるんだおまえ」


 

 年嵩が戻ってきて、若い警備員を一喝した。


「すみません、つい」


「ついじゃねえだろ。すみませんスピレッタ調教師、確認が取れましたので、どうぞお通りください。こいつにはきっちり叱っておきますので、お気を悪くなさらず」


「いいのよ。警備の仕事も大変でしょ。じゃあ、通るわね」


 と言ってエレノアが窓を閉めて車を進ませる。

 後ろから年嵩の叱る声が車内に届いてくるも、窓に遮られ不明瞭に聞こえる。


「エレノアって騎手だったんだ」


「うん。詳しいことはいつか、ね」


 エレノアはちらと恭介を見て意味ありげに微笑む。

 気のせいかどこかさみしげに映った。


 彼女が元騎手ならなぜわざわざ自分を日本から呼び寄せたのか、という疑問が湧いた。

 たしかにスピレッタ調教場の人手は足りていない印象があったが、スタッフの誰かに調教師をさせ、厩舎作業を手伝いながら騎手としてレースに乗ればいいだけの話のような気がする。

 エレノアにそのことを訊こうとしたが、なぜか口が少し開いただけで、喉から言葉が出なかった。

 彼女が見せた寂しげな顔色から察して、入り組んだ事情があると感じたらしかった。


 スタンドの出入口から離れたところに車を停め、エンジンを止めた。

 恭介はドアを開けると、芝生の香りが鼻を打った。

 関係者専用の駐車場も芝生の上にあり、白いロープで区切られている。


 車から降りてドアを閉めてからスタンドの側面に目が行った。

 むき出しの壁がまっすぐ建っており、所々に窓がある。

 向かって右側が観戦スペースらしく、さらにその向こうには芝生と埒が見えた。どうやらそこが本馬場らしい。


「キョースケ、行くわよ」 


 辺りの風景を眺めまわしていた恭介は、エレノアに声をかけられてはっとなった。


「ああ」


 と言ってエレノアについて行く。


 場内へとつながる入口のところに、また警備員が控えていた。

 エレノアは軽く挨拶を交わすと警備員がにこやかに返す。

 彼は恭介には一瞥もくれなかった。


 すぐにスタンドに入るかと思いきや、エレノアはスタンドの裏に足を進めた。

 観客用の入口が少し遠くに見え、スタンドとの間には食べ物屋の出店が並び、奥の飲食スペースには多くのテーブルと椅子が並べられてあった。

 客のほとんどが食べ物に舌鼓を打ちながら、酒をかっくらい、時おり腹に響くような笑い声をあげながら、賑やかな時間を過ごしていた。


 エレノアはその光景をちらと見ただけで、澱みない足取りで進んで行く。

 丁度昼飯時だと感じた恭介はマルスク王国の食べ物に興味を覚えた。


「楽しそうだな」


 と恭介は客たちに目を向けながら、エレノアに声をかけた。


「いつもこんな感じよ。キョースケの世界じゃ違うの?」


「さあ。観客席に行くなんて、まずないからな」


「そうなのね。わたしたち、たまにここに来ていろんなものを食べるのよ。あ、お昼はスタンドの中で食べるから」


「スタンドにも飯屋があるのか?」


「関係者専用のね。少し高いけど」


「ま、楽しみにしておくよ」


 あれこれ話している間に、二人は先へ進んで行く。


 途中にあった売店で新聞を買う。

 五オーロだと中年女性の販売員が言ったので、マルスク王国の通貨単位を知ることができた。


 それからスタンドの中に通じる入口に行った。

 ここでも警備員が後ろに手を組んで姿勢正しく立番をしている。

 エレノアが挨拶をし、恭介を紹介すると、警備員は丁寧な態度でドアを開き、二人を中に通してくれた。

 どうやら関係者専用の入口らしかった。

 エレノアには勝手知ったる場所のようで、壁に掛けられた案内板らしきものには目もくれず、中へ進んで行く。


 ゆとりをもって行き交えるぐらい幅の広い通路だった。

 時おり、着飾った人がエレノアを見かけると挨拶を交わし、そのたびに恭介を紹介する。


 警備員からサインをねだられたり、権威のありそうな人から親し気に声をかけられるあたり、ペガサス競馬の世界ではエレノアはかなりの有名人らしかった。 


 エレノアがすれ違う人々から声をかけられるたびに如才なく振舞う。

 それを見て、彼女はやっぱり調教師なんだなと思った。

 若いのにもかかわらず、変にへりくだることもなく、かといって威張っている様子もない。

 見た目は可愛らしいお嬢さんであるが、ペガサス競馬の世界で揉まれてきた経験があるに違いなかった。


「ほら、ここよ」


 エレノアはドアの前で立ち止まって案内した。


「馬主さんや調教師が観戦する部屋ね」


「つーか、そんなところに俺みたいな人間を連れて来て大丈夫なのか?」


「大丈夫よ。わたしがいるから」


 エレノアは腰に手を当てて自慢げな素振りを見せる。

 大げさな仕草に恭介は思わず笑みが零れた。


「なんかこっちの世界と全然違うから驚いてばっかりだ」


 取り繕って恭介はそう言った。


「そう。でも、レースを見たらもっと驚くわよ」


 エレノアは恭介の笑いに気づかなかったようだった。

 自分の楽しみを分かち合いたい子どものような笑顔を浮かべている。

 


 このときの恭介は、エレノアの言った言葉を真に受けていなかった。

 空飛ぶ競馬を見て、戦慄するとは露ほども思っていなかったのだ。


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