ペガサスの平地調教
四人と二頭はスピレッタ調教場の奥にあるコースへ向かった。
そこに通じる道は土がむき出しになっているものの、やはり石ころ一つ転がっていない。
完全に馬のために整備されている様子である。
――経営が傾いているとは言ってたけど……。
やることはやっているんだな、と恭介は思った。
なにしろ広大な敷地を持つ調教場である。
かなりの人手が必要なはずだった。
コースや馬道だけではなく、引き運動用の角馬場や放牧地まである。
それら全部をきっちり管理するとなればかなりの手間がかかることは容易に想像がつく。
調教コースの一周当たりの距離がかなり長いように見えた。
おそらく一周二〇〇〇メートルぐらいはありそうだ。
外埒沿いに距離を示すハロン棒が建てられている。
この点では、恭介の世界と変わらない。
ただ、使用するコースに疑問を抱いた。
短く生えそろった芝のコースだったからである。
中央競馬のトレーニングセンターとは違い、ウッドチップやポリトラック、それにダートのコースはないらしく、芝のコースしか見当たらなかった。
どうやら自然のままの地形を調教用のコースに利用しているらしかった。
「芝で調教するのか?」
アシタスに跨っている恭介はエレノアに訊いた。
彼女は青鹿毛のウィントンに跨って恭介の先を進んでおり、ロディが引き綱を曳いている。
「そうよ」
エレノアが振り向いて言った。
「キョースケ、なに言っているんだ? 芝でやるのが当たり前だろ」
と、アシタスの引き綱を曳いているラモンが恭介を見上げて訝しげに言う。
「そんなもんかね」
納得がいかなかった。
というのも芝のコースで調教するのは遠征先の競馬場ぐらいで、普段のトレーニングセンターでの調教では芝のコースはめったに使われないからだ。
恭介が所属していた小木厩舎では基本的に引き運動で馬体をほぐしたあと、ウッドチップコースや坂路コースで強い負荷をかけた。
もちろん馬の個性に合わせて調教メニューを変えるが、いずれにせよ芝のコースを使用していない。
時計が出過ぎて脚元に負担がかかり、故障しやすくなるからだ。
よほどの事情がない限り芝コースで調教を行うことはまずない。
「キョースケ、お前の世界の常識ではありえんかもしれんが、ここはマルスク王国だ。納得できないのもわかるが、とりあえずこっちの指示に従ってくれ」
ロディは恭介の心中を推し量ったらしかった。
「わかりましたよ」
この場で議論をしても仕方ない。
芝のコースしかないならこれを使うしかなかった。
ロディが埒の一部を外すと、ペガサス二頭をコースの中へ入れる。
コースの幅は思ったよりも狭く、楕円形のコースであるものの、コーナーは緩そうに見える。
「じゃあ、始めるわよ。まず速歩で半周してから駈歩で半周。それから併せ馬で目一杯に追うから。あとこのコースは右回りだから注意してね」
「了解、ラモンさん引き綱を」
「わかっているさ」
ラモンが頭絡から引き綱を外すと、恭介はアシタスに速歩をやらせる。
そして恭介は馬上で立ち上がり、腰を曲げ前傾姿勢になる、いつも通りのモンキー乗りを試みた。
コースを半周してから駈歩で走らせる。
いつもと違う鞍を使っているが、問題はなかった。
他人の鞍がしっくりくることはないので、まずその点に恭介は驚いた。
元々の持ち主はよほど恭介と体格が似ていたらしい。
ただ、細かい部分では違いを感じる。
自分の身体に合わせるなら鐙をもう少し短くしたい。
これに関しては、あとでエレノアたちに馬具職人を紹介してもらって微調整するしかない。
アシタスの乗り心地はまずまずだった。
芝の上をきれいな跳び方で走り、恭介の指示には素直に従い、暴れることなく粛々と駈歩をこなしてくれている。
アシタスの背中の幅が広いので、両脚が力んでしまったが、これは慣れの問題だと考え、数をこなして身体の感覚を合わせて行くしかない。
ひとまず、モンキー乗りをしても差し支えないように思えた。
ただし、アシタスはスピード感に乏しかった。
脚捌きが重くキレがない。
サラブレッドよりもがっしりした馬体なので、それもやむを得ない気がする。
他のペガサスとの比較がわからない以上、疑問をはさんでも今のところ意味がないと思い直した。
「ん?」
恭介は駈歩をこなしながら、前を行くエレノアが気になった。
彼女の乗り方はモンキー乗りではなく、土踏まずに鐙を乗せて背中を垂直に保っていた。
どちらかと言うと、大昔の騎乗方法である天神乗りに似ていた。
サラブレッドとペガサスでは乗り方が違うのかと一瞬思ったが、恭介の好きなように乗せるとエレノアが言っていたため、必ずしもモンキー乗りが良くないというわけではないらしい。
駈歩を終えてコースの外を見ると、ラモンが目をむいて恭介とアシタスを見つめていた。
ロディは腕を組んでいる。
「キョースケ、なんだその乗り方は?」
ラモンが驚きの声を上げた。
「なにって、これが普通じゃないっすか」
「いやいや、よくそんなんで乗れるな」
どうやら、ラモンはモンキー乗りを見るのが初めてのようだった。
「気をつけろよ。それじゃ落ちるぞ」
「いや、それでいいんだ、ラモン。キョースケの世界じゃあの乗り方が普通なんだ」
と、ロディがフォローを入れる。
「どうかしたの?」
ウィントンに跨っているエレノアが近づいてくる。
「お嬢さま、見ていなかったんですか? キョースケの奴、変な乗り方を――」
「ラモン、口を出すな。キョースケはあれでいいんだ」
ロディが改めてラモンを制する。ラモンは納得がいかないらしく、不満げな顔を見せる。
「じゃあ、次は併せ馬ね。スタートの練習も兼ねるから、ラモンはスターターをやって。距離は一六〇〇メートル、残り三〇〇メートルあたりで追ってね」
「あ、この世界でもメートル法なんだな」
もしこの世界独自の単位だったら間隔が狂いそうだったので、その点は助かった。
「そうだ。お前の世界のメートルと同じだから、その点は心配ない」
ロディが注釈をくわえる。
恭介とエレノアは並足でバックストレッチのスタート地点へ向かった。
コースの両外にはスタート台が設置させている。
あとから走ってきたラモンはスタート台からロープを出した。
「え?」
恭介が驚くのも無理はなかった。
いつも使っているスターティングゲートではなない。
ロープを跳ね上げてスタートを切る、バリヤー式発馬機だった。
現代でも海外の障害レースで使われているが、平地の競馬ではまず使われることのない発馬機である。
恭介自身も実物を見るのは初めてだった。
「エレノア、ペガサスの競馬のスタートってこういうタイプなのか?」
「そうよ。キョースケの世界じゃ違うの?」
「ああ。俺も初めてだからコツがわからないな」
「大丈夫よ。ロープが上がったらスタートを切ればいいだけだから」
とエレノアは事も無げに言う。
「準備できました」
いつの間にかラモンがロープをコースに渡していた。
馬の胸辺りの高さまで浮かんだロープが端から端へと繋がれている。
スタート台はかなり高く、上がったロープが跳ね返って騎手や馬に当たらないようにしているらしかった。
「少し輪乗りをしてから始めるわ。キョースケ、わたしの外側を走ってね」
「了解」
恭介とエレノアは輪乗りをしたあと、ロープの近くに馬を寄せた。
エレノアのやり方に倣って馬を制止させる。
恭介はロープに注意を払った。
というのも、スタート台にいるラモンの手元が見えず、ロープの動きでスタートのタイミングを計るしかないと思ったからだ。
少しの間、馬を待たせていると、ロープが跳ね上がった。
「や!」
「お!」
二人の声が合わさった。
恭介はタイミングを取り損ねてわずかに出遅れ、半馬身差のリードを許したものの、なんとか修正して併せ馬の形を作れた。
アシタスはわずかに前進気勢が強く、先頭へ立とうとする。
恭介は手綱を引いてアシタスのスピードを抑える。
アシタスは恭介の指示に従い、ウィントンと併走する。
気分を損ねることなく走っているようだった。
どうやらアシタスは順調にトレーニングを積んできたらしいと察せられる。
コーナーに差し掛かるまえ、恭介は左隣からの視線に気づいた。
ちらと横目で見るとエレノアが天神乗りをしながら恭介を見つめている。
「大丈夫か?」
よそ見をするエレノアが少々危なっかしかった。
彼女は恭介の乗り方に興味を覚えたようだ。
「すごいわね。アシタスと一体化しているみたい」
恭介の心配をよそに、エレノアは好奇心に満ちた嬉しそうな表情を浮かべる。
「モンキー乗りって乗り方だよ。こっちの世界じゃ当たり前なんだ」
「そうなのね」
「俺からしてみれば、そっちの乗り方に違和感があるよ」
と話しているうちにコーナーに差し掛かかり、二人とも顔を正面に向けた。
アシタスがコーナーを曲がりやすくするように、恭介は左足に重心を移し、左側の手綱を少し引いた。
アシタスは鞍上の指示に従順に従い、馬体を併せながらきれいにコーナーを曲がる。
対するエレノアは馬を内埒沿いにぴったりと寄せながらせながら走らせていた。
どうやら二頭とも操縦性に関しては問題なさそうだった。
残り四〇〇メートルの標識を過ぎたあたりで、エレノアが声をかけてきた。
「そろそろ追って!」
風を切る音と蹄音に混じってエレノアの声が耳を打つ。
恭介はその声に反応してエレノアに一瞥くれてから、目を前方に移した。
そして、しっかり手綱とアシタスのたてがみを掴んでいる感触を確かめてから、少しずつ追い出しにかかった。
アシタスの首の動きに合わせて両腕を前後に動かし、徐々に動作を大きくする。
やがて鞍すれすれのところまで尻を落とすと、本格的に追い込み体勢に入った。
「うそ!」
と驚くエレノアの声を聞き、恭介は手綱を動かしながらエレノアの方へ目を向けた。
天神乗りでは満足な追い込みができず、身体を揺するように動かしてウィントンを促していた。
あっという間にエレノアたちを突き放してしまった。
残り二〇〇メートルあたりで一発左鞭を入れると、アシタスはさらに加速した。
ゴール板を過ぎたころには差はかなり広がり、アシタスが大差をつけてゴールしてしまった。
「まずったかな」
恭介は腰を浮かしてスピードを緩めながら顔を歪めた。
たしかに残り三〇〇メートルから追ってほしいという指示だったものの、ここまでリードを広げる必要があったのかわからなかった。
バックストレッチの手前でいったんアシタスを止めて、鞍に腰を下ろした。
ウィントンに跨ったエレノアが後からついてきた。
「キョースケ―」
とエレノアは声をかけてきた。
鞍に尻を乗せてペガサスを走らせている。
恭介に近づくと、彼女はウィントンを止めた。
「あれでよかったのか?」
「全然問題ないわ。でも、キョースケったら凄いのね」
「はい?」
「だってあんな乗り方しても全然姿勢が崩れないんだもの。すごくかっこいいわよ」
「かっこいい、ねぇ」
褒めてくれたのは嬉しいが、モンキー乗りは騎手のみならず、サラブレッドの跨る人間なら誰でもできる。
当たり前のことで感動されてもどう反応していいかわからず、恭介は宙に視線を向ける。
「アシタスが気持ちよさそうに走っていたわ。アシタスの状態とキョースケの腕ならレースで勝てそうね」
「ん? アシタスのレースっていつなんだ?」
「三週間後よ」
「そうか」
「そこでアシタスをデビューさせるから。将来は大きいレースの一つや二つ、勝てるわ」
「ちょっと待て。そんな大事な馬を俺に任せる気なのか?」
素質豊かな期待馬を来たばかりの騎手に乗せるのが信じられなかった。
通常なら経験を積んだ厩務員や騎手を乗せて万全の調整をするはずである。
「そうよ。キョースケなら大丈夫だってロディが言ってくれたから」
「何を根拠にそんなこと言ってんだ。ちゃんと話してくれないと困るだろ」
どうもエレノアたちの考えが甘いような気がする。
競馬に慣れているとはいえ、ペガサスに乗るのは初めてなのだ。
大胆過ぎる賭けだと思った。
「あら、ちゃんとこっちの指示通りに乗ってくれたじゃない。それにキョースケには変な先入観を持ってほしくなかったの。ほら、騎手って自分の感覚が大事じゃない。調教が終わったら色々と訊かせてもらうから」
「うーん、ならいいんだけど」
恭介は納得がいかなかった。
とはいえ、競走用のペガサスがどんな特徴があるのかまだ掴み切れておらず、調教師であるエレノアに進言するほどの自信がなかった。
ひとまず口うるさいことは言わないようにした。
エレノアはじっと恭介を見つめている。
新しい発見をした学者のような好奇心にあふれた笑顔に見えた。
すると、エレノアの顔に光が射した。
後ろを振り向くと、山の稜線から白い光が零れ、スピレッタ調教場を朝日が覆いつくそうとしていた。
ほんの少し前まで薄闇に包まれていた山や地面の芝が一気に鮮やかな色を取り戻す。
「じゃあ、もう一本追い切るわよ。それで、調教が終わったら厩舎作業をして、それから一緒にフレイモア競馬場に行きましょう」
ついでといった感じで、エレノアは恭介のスケジュールを伝えた。
「競馬場ってレースに出走するのか?」
「違うわよ。言ったじゃない、キョースケにレースを見てもらうのよ」
「ああ、そう言ってたっけか」
「ほんとは、レース映像も見てほしいんだけど、うちのビデオが壊れちゃって修理に出しているの」
「この世界にもビデオがあるんだ……」
ペガサスが空を翔ける幻想的な世界に、ビデオという文明の利器はそぐわない気がした。
なんとなくこの世界は令和の日本よりも文明が遅れていると思っていたが、そうでもないらしい。
「さあ、もう一度スタートから始めるわよ」
と言って、エレノアはウィントンを促してスタート地点へ向かった。
「とりあえず、レースを見てみないとわからないよな」
困惑する胸中に不安と期待が綯い交ぜになる。
空飛ぶ競馬というのはどういうものか見当もつかなかった。
なにしろペガサスも現代的な機械も存在する世界なのだ。
恭介の想像を超えたものがあるのかもしれない。
それにマルスク王国に来てから少ししか経っていない。
スピレッタ調教場の風景だけでこの世界のことがわかるわけがなかった。
「いろいろ、見て感じるしかないか」
そう独りごちて、恭介はアシタスをもう一度スタート地点へ向かわせた。
参考文献:『最強の競馬論』 森秀行 講談社現代新書