ペガサスのいる世界
天翔ける馬が人を乗せて宙を旋回している。
四肢で宙を蹴るように駆け、両翼を大きく広げはためかせながら、徐々に高度を下げて地面に近づいてきた。
「ペガサス……」
恭介は呆けて呟く。
神話の世界にしかいないはずの生物が人を乗せて空を飛んでいるのが信じられなかった。
「そうよ。初めて見るのかしら?」
エレノアは事も無げに言う。
恭介の混乱はますます深まった。
腹を刺されてどこかの牧場に運ばれてそこで目を覚まし、明らかに日本人には見えないエレノアたちと言葉が通じる。
あと、エレノアの言葉から察するにここはペガサスが当たり前にいる土地らしい。いや、土地どころか世界だ。
「じゃあ、アシタスもペガサスなのか?」
恭介はアシタスを指さした。
アシタスには翼が生えていない。
見慣れない馬体をした馬といった程度である。
「そうよ。ペガサスは普段、翼を馬体にしまっているの。飛ぶときに、魔力を放出して翼を出すのよ」
エレノアは首を傾げて困惑げに言った。
ペガサスを目にしたことのない恭介を珍しがっているらしい。
宙に浮いたペガサスが放牧地に四肢をつけた。
鞍上が下馬すると、ペガサスは両肩から生えた翼を折りたたむと緩やかに消えていった。
「よし、今日はこれまでだ」
彼は優しく声を掛けてから首を撫でると、恭介の視線に気づいたらしくこちらに顔を向けた。
「あ!」
思わず恭介は声を上げた。
彼の顔に見覚えがあった。
恭介の腹を刺した通り魔だったからである。
あのときよりも小ぎれいな格好だが、間違いなくあの男だ。
「てめえ! どういうことだ!」
恭介は柵に手をかけて飛び越えた。
着地するとすぐさま地を蹴って彼の下へ駆け出した。もはや、ペガサスの存在が気にならなくなった。
ここで彼をぶちのめす気になっている。
彼の顔に驚愕の色が広がったように見えた。
そこには喜びと恐怖が混ざったような複雑な表情が浮かんでいる。
恭介は彼に近寄るなり、いきなり両手で胸ぐらを掴んだ。
「なにしやがった!」
恭介は彼の身体を引き寄せて睨みつけた。
彼の方が体格が優れているが、その差をものともしない膂力を発揮した。
「あ、ああ、よかった。ちゃんと起きたんだ。すまなかった」
「ふざけんな!」
恭介は拳を固めて、彼に一撃を与えようとした。
人の腹を出した輩のたわごとに耳を傾ける気持ちは毫もなかった。
自分を混乱の渦に突き落とした奴に手心を加える気はない。
「やめて!」
と、後ろからエレノアの叫ぶ声がした。
その声が耳に届き、恭介は寸でのところで拳を止めた。
彼は強く目を瞑って耐えようとしていた。
ゆっくり目を開けると、恭介の肩越しからエレノアに視線を移したようだ。
恭介も後ろを振り向くと、エレノアの顔にかなしげな色が浮かんでいた。
「お嬢さま」
厩務員はそっと呟いた。
「キョースケ、ロディの話を聞いてあげて。この人は悪い人じゃないわ」
「バカ言うな。いいやつが人の腹なんか刺すかよ」
「お願い」
エレノアが哀願するような眼差しを向けて訴える。
瞳が潤み、今にも泣きそうに見えた。
「ちっ」
エレノアのかなしみに突き動かされ、恭介はロディの胸ぐらから乱暴に手を離した。
「ロディ、ちゃんと事情を話して。わたしたち何も知らされていないのよ」
エレノアも詳しい事情は聞かされていないようだ。
恭介をここへ連れてきたのはロディの独断らしかった。
「わかりました。キョースケ、すまなかった。改めて謝罪する」
とロディは日本の礼儀に倣ったのか、頭を下げて詫びた。
「わかったよ。こいつが事情を知っているんだろ。話を聞いてからどうするか決めてやる」
すっかり怒りのやり場を失った形となった恭介。
ロディをぶちのめしたい気持ちはまだくすぶっているが、彼に手を出すとエレノアを悲しませる羽目になると思い、ぐっとこらえる。
「中に入りましょう。ここだと落ち着かないわ。ロディ、みんなに説明してね」
◇
ここは地球ではない。フォルアースという世界である。
現在、恭介がいるのはこの世界の大国、マルスク王国だった。
それはペガサスーー正確に言えば、翼のある馬の総称としてペガサスという品種名が与えられていて、神話のペガサスとは違うらしい――が存在することで、地球とは別世界だと理解できる。
フォルアースではペガサスは珍しい生き物ではない上に、人間も魔法が使えるという。
エレノアが恭介に魔法をかけたと言ったのは比喩ではないらしかった。
かつてこの世界で戦乱が起きたのをきっかけとして、マルスク王国ではペガサスの品種改良に取り組んだ。
より速く地を駆け、空を飛び、丈夫なペガサスを生産するためだった。
その成果はすさまじく、優れた魔法遣いや兵士たちがペガサスに騎乗し戦地へ赴くと、瞬く間に敵を制圧したという。
世界は平和となり、ペガサスたちは用済みになったのだが、処分されず、王室や貴族、軍隊、富豪などに引き取られた。
平和な日常において、式典や祭りに色を添える存在として重宝された。
時にはレジャー用の乗馬として、また馬車などの交通手段、郵便配達など、様々な用途のために生産が続けられたという。
やがて貴族の中でペガサスを競走させる遊びが流行した。
初めは地を駆ける平地競走のみだったのが、空を飛ぶレースをやったら面白そうだと誰かが言いだして、平地と飛翔、両方のレースが行われるようになった。
これがペガサス競馬の嚆矢となったという。
すると、だんだんその面白さがマルスク王国の人々に広がり、見物する客も増え、常設の競馬場が各地で造られるようになり、馬券の発売されるようになった。
のちにマルスク王国の王室にもその面白さが伝わり、王室の鶴の一声で競走用のペガサスを保護する政策が打ち出された。
それから身分の垣根を越えて、貴族のみならず平民までもが等しくペガサス競馬に携わることとなった。
年月を経るにつれ生産、育成、調教のメソッドが確立し、レース体系が整っていくのに比例して、ペガサス競馬は国民に愛されるエンターテインメントへと昇華し、広く親しまれるギャンブルスポーツとして発展したという。
「本当に地球じゃねえんだ……」
大仲で恭介はロディから話を聞いた。
エレノアは俯きがちになり、ラモンは腕を組んだまま困惑の色を浮かべ、オリアナはテーブルに肘をついている。
他にもスタッフがいるが、今は作業をしているらしく、大仲には五人しかいない。
大雑把な説明だが、納得せざるを得ない。
現に空飛ぶ馬を目の当たりにした以上、反論する要素が見当たらなかった。
ただ、肝心なところはまだ聞かされていない。
なぜ恭介がロディに腹を刺されてマルスク王国に飛ばされたかである。
「あの短剣は、『転移の緋剣』と言われる代物で、違う世界に移動するための道具だ」
「へ?」
「わたしの家に代々伝わる魔法道具なのよ。刺した人を別の世界に移動する短剣だって言い伝えられてきたわ」
エレノアが注釈を加える。
「それで、ロディさんはキョースケをここへ連れてこられたわけね」
オリアナがロディに顔を向けて言う。
にわかに信じがたい話である。
だが、腹を刺されても傷一つなく気絶しただけで済んだのだから、嘘ではないだろう。
「まだお嬢さまが幼いころの話です。私も先代の伯爵から聞かされただけでしたから半信半疑でした」
「本当に別の世界に行けるなんて思わなかったわ。それに異世界人を連れてくるなんて」
「そうだ、ロディさんって言ったっけ? あんたなんで俺をここに連れて来たんだ。だいたい俺は来週もレースに乗らなきゃならないし、平日だって厩舎作業もあるし調教に乗らなきゃならねえ。早いところ戻してくれよ」
恭介はロディを見据えた。
「その点は大丈夫だ。同じ時間に戻れる」
「本当かよ。そんな都合の良い話があるのか?」
「ああ、俺もそうしてフォルアースと地球を往復した」
「んなバカな」
不安になってきた。
そんな都合よく帰れるとは信じられなかった。
と、ここでロディが恭介から視線を外し、俯きがちに言葉を付け加えた。
「実のところ、サヤマを連れて来たかったんだがな」
「ん?」
「あっちの世界では一流のジョッキーだからな。あの人に来てもらいたかったんだが、『転移の緋剣』がお前にしか反応しなかったんだ。適性のない人間には効き目がないからな」
「ほー。で、順平さんの代役で俺をこんなところに飛ばした、と」
恭介の心の内に静かな怒りが頭をもたげた。
こっちの事情を全く無視して連れてこようとしたあたり、彼らが身勝手だと感じたのだ。
恭介はおもむろに立ち上がってロディに近づこうとした。
「ちょっと待ってくれ、キョースケ。もう少しだけ話を聞いてやってくれ」
隣に座っていたラモンが恭介の肩を掴んで制止する。
「ざけんな!」
恭介はラモンの手を掴んでねじ上げた。
小柄な恭介が思わぬ力を発揮して驚いたのか、ラモンの表情が驚愕に覆われた。
ねじられた方向に身体を曲げて痛みをこらえる。
「ごめんなさい、キョースケ」
そのとき、エレノアが縋るような視線を送った。
恭介の怒りが深いのを感じたらしかった。
無言のままじっと見つめて許しを請う。
エレノアの吸い込まれるような瞳を見続けるうちに、恭介の怒りがしぼんできた。
彼女はどうしていいかわからずに困惑しているようである。
可愛い女の悲しい顔を見たくなかった恭介は、ちっと舌打ちをし、ラモンの手を乱暴に振り払った。
ひとまず話だけは聞く気になり、どかっと椅子に腰を下ろして、エレノアに目を遣る。
――この子に嫌われたくないな。
怒りの代わりに、妙な下心が湧いてきた。
元々女にモテたいという欲望もあって騎手を目指した一面もあるので、どうも女に嫌われたくないという思いが心根に張っているらしい。
「どうしても騎手が必要だったの。レースに乗ってくれる人がいなくて」
「なんで? 別に他の世界から呼び寄せるほどのことじゃないだろ。少しは妥協して適当な騎手に頼めばよかったじゃないか?」
「そいつができたら苦労はしないさ」
いてて、とわざとらしく手をさするラモン。
「誰に頼んでも断られてしまうんだよ。おかげでうちのペガサスたちはレースに出走できる見込みがなくなったの。調教場の経営が厳しい今、何とかレースに勝って賞金を稼ぎたいし、あちこちの伝手を頼ったんだけどどこもダメだった」
オリアナが現状を嘆いてため息を吐いた。
「それでよく、馬主が転厩させないもんだ」
当然の疑問を口にする恭介。
レースに出走できないまま競走馬を置いておく馬主などいない。
「うちの馬はキプロン伯爵、つまりお嬢さまの父上のペガサスしかいないんだ」
ラモンが言った。
「ん? エレノアって貴族のお嬢さまなのか?」
「そうよ。お父様のご厚意で何とかやらせてもらっているから……」
エレノアは語尾を飲んで、顔を俯けた。
好きなことをやらせてもらっているお嬢さまなりに申し訳ないという思いがあるらしかった。
「とにかく、キョースケにはレースに乗ってもらいたい。お前にはそうするしかこの世界で生きて行く道はないんだ」
ロディはそう言い切った。
恭介を見つめる目がわずかに震えていて、申し訳ない気持ちと開き直りが綯い交ぜになっている。
「無茶苦茶じゃねえか。別の世界から騎手を誘拐まがいに連れ去っただけじゃなく、レースに乗れってか。俺はサラブレッドの騎手で空飛ぶ馬に乗ったことなんてねえんだぞ。仮にロディさん、あんたが順平さんを連れてきたとしても無理だ。地球でペガサスに乗れる奴なんていやしないぞ。そもそも空飛ぶ生き物に乗るって発想がない」
「無茶なのはわかっている。だが、それでも賭けに出るしかなかったんだ」
ロディがじっと恭介を見据えてきた。
思いのほか強い眼差しに恭介は胸の内でたじろぐ思いがした。
「キョースケにはすまないことをしたと思っている。事が済んだらすぐにでも帰してやりたいが、『転移の緋剣』に魔力が溜まるまで時間がかかる」
とロディは別の切り口から話した。
すると彼は短剣を出してテーブルの上に置いた。
たしかに恭介を刺した短剣のようだったが、緋色が消えて、ガラスのような刀身がむき出しになっており、灯を反射させてきらめいている。
「この剣が緋色に変わったら、キョースケは元の場所と時間に戻れる」
「で、どれくらい時間がかかるんだ?」
「およそ半年から一年といったところだ」
「半年って」
「大丈夫だ。さっきも言っただろ、元の場所と時間に帰れる」
「マジか……」
恭介は頭を抱えたくなった。
この世のものとは思えない出来事に巻き込まれた挙句、右も左もわからない世界で半年以上も暮らさないといけないのか。
いずれ元通りになるとしても、それまで何をすればいいのか。
様々な考えが湧いては消え、恐慌をきたしそうになった。
「なあ、キョースケ。こんなこと言えた義理じゃないけど、帰るまでの間、ここでやってみないか?」
ラモンが恭介の肩に手を置いて宥める。
「わるいけど、あたしたちに協力してくれないかな? お嬢さま、キョースケには住居と食事を提供してください」
「わかったわ。それにレースの賞金や給料も多めに払ってあげないとね」
「そうだ。キョースケには現地でレースを見てもらった方がいい」
「お嬢さま。明日のレースにキョースケを連れてやったらどうです」
「そうね」
エレノアたちが恭介の気持ちをよそにこれからの計画を口々に話し始めた。
――もう、どうにでもなれ。
恭介は捨て鉢な気分になり、胸の内に投げやりな言葉を吐き捨てた。